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読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

87年前の今頃は

私の住んでいるこのあたりでも、朝鮮人狩りが行われていたはずだ。

関東大震災後の朝鮮人虐殺については、いまだに真相究明も謝罪も行われていない。
それどころか、この恥ずべき事実を否定しようとする歴史歪曲本が本屋に平積みになっているという、恥の上塗り的状態が今の日本の現実なのだ。

あのとき、いったい何が行われたのか。ほんの断片ではあるが、現場を体験した人々の証言でたどってみたい。
まずは、民衆(自警団)の手による虐殺。


■東京都葛飾区 旧四ツ木橋周辺(昨日、この近くで朝鮮人殉難者追悼式が行われた

 二日目(九月二日〕に四ツ木橋を越え、本田村(現・葛飾区)の庭先をかりてみんなで野宿をしたわけです。ちょうど二日めの晩に「津波ダァー」という声がしたのでみんな線路にあがって枕木に帯で体をつないだりしたが、津波なんかいっこうこないので帯をほどきました。ところが八〜九時頃、「朝鮮人がせめてきたぁ」という声が流されて、みんな殺気だっちゃった。「竹をだせ!」「槍を出せ!」、棒きれもっている奴はナイフで先をとがらせて、集まった人たちだけで臨時自警団をつくり、周囲をかためた。その頃は芋が盛りで芋の葉っぱが人の顔にみえたりしてそれをつついたりしました。
 そしたら土手の方からバンバンバンと銃砲をうつような音がきこえてきました。あくる朝、放水路のところを歩いていったら、―当時荒川放水路は工事中で朝鮮人は安い労働力として使われた、日本人の賃金にくらべれば二分の一位でした。―そこに行ってみると無惨な屍臭がして、土手に、五人、六人と死んでいました。傷跡は明らかに刀で切られたり、竹でつかれたりした死骸でした。からだに日本刀で斬られた断面がありました。人相が朝鮮人でした。
〔中略〕
この荒川土手のところでは一軒の農家があったのですが、昼過ぎ七〜八人の朝鮮人が農家のまわりに逃げてきて自警団やそこいらにいた人につかまり、有無をいわず袋だたきにあい、五分もたたないうちにめった打ちにして殺されてしまったのをみました。当時あそこは工事をしていたので玉石はいっぱいあって、土手の上からみんな玉石を投げて加勢して殺したんですよ。(島川精証言)

 たしか三日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさしたりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、三○人ぐらい殺していたね。荒川駅の南の土手だったね。(青木某(仮名)証言)


■千葉県八千代市周辺

 九月の一○日か一五日頃、大和田新田に三人の朝鮮人を受け取りに来いという触れが回った。夕方に三人の朝鮮人が連れてこられ、道路のつきあたりに座らせられた。一本松にある五軒の家から一人ずつ出て、朝鮮人を殺し、死体を村の入会地に埋めた。五軒の家は盆や彼岸には線香や団子をあげて供養した。(阿部こう証言)

 軍隊から朝鮮人をくれるから受け取りに来いという連絡が村からあって、三人の朝鮮人を受け取ってきた。目隠しをし、竹の棒に縛って、後ろに穴を掘って落ちるようにして、従兄が撃ち殺した。死体は共同墓地であるもみよ墓地のはずれに埋めた。この墓地一帯が公団住宅地になるので、遺骨を掘り出して現在の墓地に移した。(君塚国治証言)

 地震から数日後の朝、半鐘が鳴るので行ってみると、半鐘に上る梯子に朝鮮人が繋がれて立っていた。彼は中台墓地に連れられて目隠しされて松の木に縛られ、銃で撃たれて穴に埋められた。(八木ケ谷妙子証言)

 九月七日に習志野収容所から朝鮮人をくれるから取りに来いといわれて、住民たちは一五人受け取り、これを各区に分け、高津区は三人引き受けた。翌八日また二人受け取り、都合五人の首を切ってその死体をなぎの原に穴を掘って埋めた。九日の深夜にまた一人もらい受けて直ちに殺害し前回の穴に埋めた。(高津の一農民の日記)


■神奈川県横浜市

 横浜の中村町周辺は、木賃宿が密集した町だった.木賃宿には朝鮮人労働者が多く住みつき、数百人からいたように思う。
 この近くの友人宅を訪ねていて地震にあった私は、だから、世に有名な朝鮮人虐殺の実態を、この目でつぶさに目撃することになった。二日朝から、朝鮮人が火を放って回っているという流言がとぶと、ただちに、朝鮮人狩りが始まった。
 根岸橋のたもとに、通称「根岸の別荘」と呼ばれる横浜刑務所があって、そこのコンクリート壁が全壊したため、囚人がいちじ解放されていたが、この囚人たち七、八百人も加わって、捜索隊ができた。彼らは町中をくまなく捜し回り、夜を徹して山狩りをつづけたのである。
 見つけてきた朝鮮人は、警察が年令、氏名、住所を確かめて保護する間もなく、町の捜索隊にとっ捕まってしまう。ウカウカしていると警察官自身殺されかねない殺気だった雰囲気だった。そうしてグルリと朝鮮人を取り囲むと、何ひとついいわけを聞くのでもなく、問答無用とばかり、手に手に握った竹ヤリやサーベルで朝鮮人のからだをこづきまわす。それも、ひと思いにバッサリというのでなく、皆がそれぞれおっかなびっくりやるので、よけいに残酷だ。頭をこづくもの、眼に竹ヤリを突き立てるもの、耳をそぎ落とすもの、背中をたたくもの、足の甲を切り裂くもの……朝鮮人のうめきと、口々にののしり声をあげる日本人の怒号が入りまじり、この世のものとは思われない、凄惨な場面が展開した。
 こうしてなぶり殺しにした朝鮮人の死体を、倉木橋の土手っぶちに並んで立っている桜並み木の、川のほうにつきだした小枝に、つりさげる。しかも、一本や二本じゃない。三好橋から中村橋にかけて、載天記念に植樹された二百以上の木のすべての幹に、血まみれの死体をつるす。それでもまだ息のあるものは、ぶらさげたまま、さらにリンチを加える……人間のすることとは思えない地獄の刑場だった。完全に死んだ人間は、つるされたツナを切られ、川の中に落とされる。川の中は何百という死体で埋まり、昨日までの清流は真っ赤な濁流となってしまった(田畑潔証言)

 なにしる天下晴れての人殺しですからね。私の家は横浜にあったんですが、横浜でもいちばん朝鮮人騒ぎがひどかった中村町に住んでいました。
 そのやり方は、いま思い出してもゾッとしますが、電柱に針金でしばりつけ、なぐるける、トビで頭へ穴をあける、竹ヤリで突く、とにかくメチャクチャでした。
 何人殺ったということが、公然と人々の口にのぼり、私などは肩身をせまくして、歩いたものだ。(美田賢二郎証言)

以上、山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺』(創史社)より引用。