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読む・考える・書く

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『男たちの大和』 ― 日本人が戦争映画を作るとこうもダメ、という典型

映画

 

8月になると、夏の風物詩のように戦争関係の映画がテレビで流される。

今回はそんな中から、CATVで見た『男たちの大和』について、思うところを書いてみる。

 

事実としての戦艦大和の運命は映画を見るまでもなく誰でも知っていることだし、一般的な意味での映画評は他にいくらでもあるのでそちらを見てもらうことにして、そもそもこの映画は何を訴えたかったのか、という点について。

 

この映画のキーとなるのは、集団自殺に等しい沖縄への水上特攻の命令が下された後、自分たちの死の意味をめぐって士官たちが争う場面で、ある将校が語る次のセリフだろう。

 

日本は進歩というものを軽んじてきた。進歩よりも精神主義を重んじてきた。

しかし進歩のないものは決して勝たない。歴史がそれを証明している。

幕末、薩英戦争で負けた薩摩、馬関戦争で負けた長州は、その後攘夷策を捨ててヨーロッパから新式の武器を輸入し、幕府を倒した。

敗れて目覚める。それ以外に日本が救われる道はない。

いま目覚めずして、いつ救われる?

俺たちは日本が新しく生まれ変わるために、そのさきがけとして散る。まさに本望じゃないか。

 

こうやって自らを無理矢理納得させて、何千人もの乗組員たちは死んでいったわけだが、では日本は敗れて目覚めたのか?

敗戦に至った無謀な戦争の原因を究明し、その責任者を追求し、処罰したのか?

大和が無意味な特攻などするはめになった元凶 ― 過ちが明らかになっても決して認めず、圧倒的権力を行使しながら一切その責任を負おうとしない官僚機構 ― を解体し、国家体制を刷新したのか?

何もできていない。

 

この映画にはかなりの長さで現代のパートも含まれているのだが、「日本が新しく生まれ変わるため」と信じて死んでいった者たちの遺志は生かされたのか、それを省みる視点はまったくない。

ただひたすら、「愛する人を守る」ためにと、絶望的な戦況の中、虚しく斃れていった若者たちの悲劇が描かれるだけである。

 

バカじゃなかろうか。

このセンチメンタリズムこそが「精神主義」であり、この反省のなさこそが進歩の否定なのだ。

いまだにこんな戦争映画が作られているようでは、それこそ「目覚め」ははるかに遠い。