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国際人権規約をつまみ食いする自民党

 

東京新聞が、国際人権規約に関する自民党の二枚舌を厳しく批判している。

 

東京新聞(12/1)

自民「人権規約」二枚舌 「秘密法案は違反」を無視

 

 国際人権規約は「知る権利」に関して「制限されるのは、国の安全や公の秩序などの目的のため、必要とされるものに限る」と明記。政府の「秘密」は最小限にとどめるよう求めている。

 

 秘密保護法案が国会に提出されると、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(本部・ニューヨーク)はこの人権規約を挙げ「現在の法案では政府の透明性が著しく低下し、国際的人権上の義務に背くことになる」との声明を発表。国際NGOアムネスティ・インターナショナル(事務局・ロンドン)日本支部も「秘密指定されうる事項は曖昧かつ広範囲で、人権規約が認める制限の範囲を超える」と指摘した。

 

 さらに、国連人権理事会のフランク・ラ・ルー特別報告者(「表現の自由」担当)ら二人は、法案が内部告発者や報道機関への「深刻な脅威」を含んでいるなどと懸念を表明した。

 

 これに対し、安倍晋三首相は国連の特別報告者の懸念を「誤解だ」と退け、国際的な人権団体の批判には自民党幹部も含め、ほとんど言及していない。

 

 ところが、自民党は改憲草案を正当化する根拠に人権規約を使った。表現の自由と知る権利を定めた二一条で「公益および公の秩序を害する」目的の活動や結社を制限すると定めたが、この表現は人権規約と同じだ。結婚や家庭のあり方を定めた二四条の「家族は社会の自然かつ基礎的な単位」という表現も、人権規約を利用した。

 

 大阪国際大の谷口真由美准教授(国際公共政策)は「自分たちに都合のいい部分だけ引用するやり方はいやらしい。改憲草案は国際基準に合わせたというなら、秘密保護法案も同様に対応するのが筋だ」と批判している。

 

同記事で使われている図が分かりやすい。

 

 

なるほど、都合がいいときだけ国際人権規約の条文を利用し、都合が悪いとなるとあっさり無視する自民党のやり方は卑怯千万である。

その点は当然の前提とした上で、ここではもう一歩先に批判を進めてみよう。

 

まず、改憲草案の24条。

第二十四条   家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。

 

この条文について、自民党の改憲草案Q&Aは、「前段については、世界人権宣言16条3項(注:条文内容は国際人権規約(自由権規約)第23条1と同じ)も参考にしました」と述べる。

しかし、後半が違うので、条文全体としては意味が正反対になっているのだ。

国際人権規約が言っているのは、家族は社会を構成する重要な基礎的単位であるから、すべての人が正常な家族生活を営めるよう、社会及び国がこれを保護しなければならない、ということ。これに対して、改憲草案が言っているのは、家族は社会の基礎的単位なのだから、社会を維持するために家族は互いに自助努力で助け合え、ということだ。

ご丁寧に、

党内議論では、「親子の扶養義務についても明文の規定を置くべきである。」との意見もありましたが、それは基本的に法律事項であることや、「家族は、互いに助け合わなければならない」という規定を置いたことから、採用しませんでした。

という解説までつけている。

要するにこの条文は、オレたちが勝手に使える税金が目減りしないよう、苦しくなっても生活保護など受けずに家族内で何とかしろ、という主張の「(自民流)憲法的」表現なのだ。人権とは正反対の野蛮思想である。

 

続いて21条の2。

(表現の自由)

第二十一条   集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。

2   前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。

 

確かに、国際人権規約(自由権規約)19条にも、表現の自由を制限しうる条件の一つとして「公の秩序」があげられている。

 

第19条 【表現の自由】

1 すべての者は、干渉されることなく意見を持つ権利を有する。

2 すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、 芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、 受け及び伝える自由を含む。

3 2の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがつて、この権利の行使については、 一定の制限を課することができる。ただし、その制限は、法律によつて定められ、かつ、 次の目的のために必要とされるものに限る。

  (a) 他の者の権利又は信用の尊重
  (b) 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護

 

では、自民党改憲草案がやろうとしているような「公益及び公の秩序」を理由とした表現の自由に対する制約を、国際人権規約も認めているのだろうか?

この問題については、法学館憲法研究所の浦部法穂氏による解説がとても参考になる。



憲法の言葉」シリーズ② 「公共」または「公」



 さて、現行憲法の「公共の福祉」という言葉は、憲法上の自由や権利を制限する根拠とされてきたが、これについて、国連の規約人権委員会はこれまで再三にわたり、日本政府に対して、そのようなあいまいで抽象的な規定による人権制限は国際人権規約に適合しないという趣旨の勧告をしている。自民党草案はこの「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」に置き換えようというのであるが、どちらにせよあいまいで抽象的であることに変わりはない。だから、大した違いはないと思われるかもしれない。しかし、そこには、言葉の「ニュアンス」上、かなり重要な違いがある。「ニュアンス」というと、人々の感じ方の問題だから、厳密さが要求される法解釈になじまない言い方のように聞こえるかもしれないが、法律上の文言の解釈において言葉の「ニュアンス」は、ときに決定的な意味をもつ。


 「公共の福祉」という言葉と「公益」とか「公の秩序」という言葉にどういう違いがあるかを考える前提として、まず、日本語の「公」とか「公共」という言葉の意味合いを考えてみよう。日本語の「公」とか「公共」は、英語でいうと「public」である。だが、この日本語と英語は、厳密に同じ意味ではない。たとえば、次の二つの文章を比べてみよう。これは、国際人権規約自由権規約第18条の英語の正文とその日本語訳(日本政府訳)である。


“Freedom to manifest one's religion or beliefs may be subject only to such limitations as are prescribed by law and are necessary to protect public safety, order, health, or morals or the fundamental rights and freedoms of others.”

「宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することができる。」


 下線部(注:ここでは太字)のところに注目してもらいたい。英語では「public」という一つの言葉が、日本語に訳されるときには、safety(安全)に対しては「公共」、order(秩序)に対しては「公(おおやけ)」、health, morals(健康、道徳)に対しては「公衆」というように、別の言葉が当てられている。これはつまり、英語の「public」と日本語の「公」とか「公共」という言葉は完全に一致する言葉ではない、ということを意味している。英語では「public」という一つの概念であらわされるものが、日本語では「公(おおやけ)」、「公共」、「公衆」というように別個の概念に分けられるのである。


英語の「public」という言葉は、要するに「all people」、つまり、「みんな」という意味である。たとえば英語でいう「public house」は、日本語の感覚でいうと「公営住宅」のことかと思うかもしれないが、そうではない。パブ、つまり大衆酒場である。「みんな」が集まってお酒を飲みながら話をするところ、という意味で「public house」なのである。


 「公」という字は訓読みすると「おおやけ」と読まれる。訓読みというふうにいっているが、じつは、「公」は中国語で「おおやけ」は日本語だと考えたほうがわかりやすい。中国語の「公」という概念に日本語の「おおやけ」という言葉を当てたのであるが、中国語の「公」と日本語の「おおやけ」のあいだにも、やはり意味のずれがある。中国の街のいたるところに、「公司」という看板がある。「公司」は会社のことである。日本語的感覚でいうと「公」の字が付いているから国有企業?と思いがちだが、そうではない。私企業であっても「公司」なのである。もともと、中国語の「公」という言葉は、共同体における配分の「公平」とか「公正」というような意味をもった言葉で、「私」の対概念である。中国語の「私」は、たとえば「私利私欲」などという言葉があるように、自己中心、利己性という「反倫理的」な意味合いの強い概念で、それに対し「公」は、共同体全員の「公平」「公正」を図るという倫理性を帯びた概念だとされる。


 これに対し、日本語の「おおやけ」は、「大宅」と書かれることもあるように、もともとは「大きな家」という意味だといわれる。この「大きな家」というのは、共同体の中の中核的な施設、つまり、みんなのために何かを蓄えておくとか、あるいはみんなでそこに集まるとか、といった施設のことで、その「おおやけ」を管理する者が共同体の長として権力をもつこととなった。「おおやけ」は、共同体全員の共同施設であると同時に、共同体の長に属するものとして権力そのものを意味するものとなるわけである。そして、やがて、朝廷による支配が確立していく段階で、「おおやけ」は朝廷そのものを指す言葉として使われるようになり、天皇を頂点とする権力機構としての「おおやけ」が形成されていくことになる。その「おおやけ」は「わたくし」の入り込むことのできない領域であり、「わたくし」に優位する権力としての「おおやけ」というものが観念されることになるのである。


 こんにち語られる日本語の「公」という言葉は、以上の三つの意味合い、つまり、英語の「public」の「みんな」という意味合い、中国語の「公」の倫理性をもった意味合い、そして日本語の「おおやけ」の「権力性」という意味合いが、渾然一体となった形のものとなっている。だから、それぞれの意味合いに応じて言葉の使い分けが行われ、英語の「public」的なニュアンスでは「公共」とか「公衆」などという言葉、中国語の「公」的なニュアンスでは「公平」、「公正」などの言葉、日本語の「おおやけ」のニュアンスの場合には「公(おおやけ)」をそのまま使う、という傾向がある。ただ、その場合にも、三つの意味合いが渾然一体となっているため、たとえば英語の「public」的ニュアンスで語るときにも、そこには「みんな」という意味だけでなく、中国語的な倫理的意味も、日本語的な権力性という意味も、同時に込められることになる。したがって、たとえば「公共の福祉」も、「みんなの福祉」という意味にとどまらず、そこに「権力性」が当然のように入り込み、権力側の利益が「公共の福祉」の内容として認められるのは当然のこととされる。そして、日本語の「おおやけ」は「わたくし」が入り込むことの許されない「わたくし」に優位するものであるから、「わたくし」の権利は「おおやけ」の利益よりも当然一段下に置かれることになる。しかも、そこには「公」の中国語的な意味合いも入り込むから、それが倫理的にも正しいことだ、とするニュアンスさえ込められることになる。


 その「公共の福祉」を「公益および公の秩序」に変えるということは、「みんなの」というニュアンス(「public」のニュアンス)をより後退させ、「権力性」のニュアンス(「おおやけ」のニュアンス)をさらに強く前面に出す、ということを意味する。だから、これは単に言葉の言い換えにとどまらず、権力側の都合や利益による自由・権利の制限をこれまで以上に認めやすくする方向への変更となるのである。自民党の改憲案には、そういう重大な問題点も含まれているということである。言葉一つであっても、その変更がどういう意味をもつか、敏感になる必要があろう。


浦部氏のこの解説から分かるように、自民党改憲草案が言う「公益及び公の秩序」とは、「みんな(public)の利益」や「人々(public)の安全を確保するための秩序(order)」という意味ではない。権力を持つ者たちの利益と、権力に人々を従わせるための秩序という、これまた人権とは正反対の代物なのである。

騙されてはいけない。