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教育勅語はどこがダメか

というか、こんな簡単な問題すら理解できない者たちが政治家をやり、しかも政権中枢で政策決定に関与しているのだから、まったくお話にならない。

たとえば下村博文文科相はこんなことを言っている。[1]

 「(教育勅語には)至極まっとうなことが書かれており、当時、英語などに翻訳されて他国が参考にした事例もある。ただしその後、軍国主義教育の推進の象徴のように使われたことが問題だ」

 下村博文文科相は8日、教育勅語の原本が確認されたことと絡めてこう述べ、内容そのものには問題がないとの認識を示した。


教育行政のトップからしてこの体たらくである。

この下村の認識は二重三重に間違っているのだが、どこがどうおかしいのか、具体的に見ていくことにしよう。


まず教育勅語の全文を見てみる。リンク先の画像が示すように、各学校に「下賜」され、行事のたびに「奉読」が義務付けられたこの勅語には句読点も何もなく、べったりとした文語体である。さすがに読みにくいので、最小限の句読点と改行、振り仮名を加えると、次のようになる。

朕惟(おも)フニ、我ガ皇祖皇宗、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。

我ガ臣民、克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世世厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此レ我ガ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦(また)實ニ此ニ存ス。

爾(なんじ)臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、恭儉(きょうけん)己(こ)レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ、以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ、進デ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵(したが)ヒ、一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ。

是ノ如キハ獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ、又以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン。

斯ノ道ハ實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スベキ所、之ヲ古今ニ通ジテ謬(あやま)ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖(もと)ラズ。朕爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺シテ、咸(みな)其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。



明治二十三年十月三十日

御名御璽


教育勅語は、その冒頭の一句「我ガ皇祖皇宗、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ」からしてデタラメである。「皇祖」は天照大神または神武天皇を指すとされるが、古事記の記述によれば、神武は何の大義もなく九州から近畿に攻め込み、殺戮とだまし討ちを繰り返したあげく奈良盆地の一角を占拠した侵略者に過ぎない。神武が「徳ヲ樹ツル」など、冗談としか言いようがない。


もちろん「皇宗(歴代天皇)」がずっとこの国を治めてきたわけでもない。そんなことはこの「勅語」を起草した者たち自身、重々承知していた。なにしろこの「勅語」が発布されたわずか四半世紀前はまだ江戸時代であり、現に徳川家の将軍が天下を統治していたのだ。


幕末維新期の一般庶民にとって、そもそも「天皇」など知らないか、知っていても関心の対象外だった。だからこそ、明治の初めから10年代にかけて、民衆に天皇という存在を知らしめ、その権威を見せつける全国巡幸が必要だったのだ。いわば、天皇の顔見世興行である。[2]

「江戸末期から明治維新における天皇という存在は,新しく政治家,官僚になった武士やもともと地方の支配勢力と何らかの関係を有していた上層の民衆とは異なり,一般の民衆には未知なものであり,無関心なものであった」。「天皇という存在が民衆と隔絶していた」ので,「封建的権威にとってかわり,にわかに権力主体になった天皇はあまりに未知数であった」。この「天皇を行幸など様々な形で『見える権力』にしない限りは,必ずしも求心力になりえない状態であった」。


このように、教育勅語は嘘つきが道徳を説いてみせる典型例と言える。


このインチキな冒頭部に続いて、「勅語」は (1)親孝行しろ、(2)兄弟仲良く、(3)夫婦も仲良く、(4)友達は信じ合え…と、12項目にわたって「徳目」を説教する。これらの徳目は、時代背景を考えればまあ常識的な内容で、当時の感覚では当たり前の道徳と言っていいものだ。実際、同じような内容は江戸幕府も諸国に高札を立てて説教していたし、寺子屋でも社会生活上の常識として教えられていた。

下村が、教育勅語には「至極まっとうなこと」が書かれていると言うのも、このあたりの内容を意識してのことだろう。


だが、教育勅語においては、これらの「まっとうな」徳目は、例えてみれば毒薬を包む糖衣のようなものでしかない。教育勅語が何としても「臣民」の頭に植え付けたかったのは、これらの徳目の最後に置かれた「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」なのだ。お上がいったん戦争を始めたら、それがどのような戦争であれ、天皇(を頂点に頂く支配階級)の利益のために命を投げ出して戦え、ということだ。これに先立つ11項目は、これを「まっとうなこと」と錯覚させるために置かれていると言ってもいい。

もちろん、自民党をはじめとする極右勢力が教育勅語を復活させたがるのも、この最後の「徳目」があればこそのことだ。


教育というものの威力は実に恐ろしい。この「勅語」がすべての学校に「下賜」され、無謬の道徳規範として強制されるようになってからアジア太平洋戦争の敗戦による破滅まで、たった55年しかかからなかったのだ。


【2015/6/20追記】
教育勅語は、天皇が臣民に守るべき「徳目」を教え、臣民はありがたくそれを押しいただく、という構造を持っている。
「天皇の赤子」が理想のあり方とされる臣民には、自ら何を守るべき道徳とすべきかを考え、議論し、選びとる自由はない。一見もっともらしい内容を含んでいようと、教育勅語はせいぜい、主人から与えられる奴隷の道徳でしかないのだ。

【2015/10/11追記】
教育勅語は睦仁(明治天皇)が臣民に与えたわけだが、ここで徳目として「夫婦相和シ」を説教している睦仁自身はといえば、正妻の他に側室(臣民であれば当時「妾」と呼ばれていた存在)を5人も持ち、計15人の子を産ませている。何が「夫婦相和シ」か。とんだお笑い種なのである。

【2017/3/5追記】
教育と自由に関する羽仁五郎氏の鋭い指摘を貼っておく。氏の言うとおり、「道徳」の中身を権力者が定め、その遵守を臣民(=市民-自由)に命じる教育勅語は反教育の最たるものであり、絶対にこんなものを教育の指針になどしてはならないのである。


【追記終り】

[1] 産経新聞 2014/4/9 教育勅語原本確認 「父母への孝行」「友情」「夫婦の和」…再評価の声
[2] 社会科学者の随想 天皇製民主主義の根本問題(15)−悩む天皇・彷徨う天皇家・揺らがぬ天皇制−

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