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法と道徳の区別がつかない人々

前回記事で、教育勅語が説教する「徳目」(ただし最後の1個は除く)について、「時代背景を考えればまあ常識的な内容で、当時の感覚では当たり前の道徳」だと書いた。

これは、当時の人々はそれらを「当たり前の道徳」と感じたであろう、ということであって、その内容が普遍的に通用するという意味ではない。また、人々が自発的に何らかの「徳目」を尊重することと、国家に命令されてそれを守らされることとは、やっていることは同じように見えても、意味はまったく違う。

それが分からない、法と道徳の区別がつかない人々がこの国には多すぎる。これは、この社会の未熟さの表われの一つであり、またこの国を蝕む宿痾の一つとも言えるだろう。以下、渡辺洋三『法とは何か』(岩波新書 1979年)から引用する。

 わが国では、法と道徳との分離が徹底せず、しばしば、法的正義と道徳的正義とが同一の「正義」の言葉で呼ばれ、混同して使われてきた。このため、法の基準と道徳の基準とが、しばしば混同され、道徳によって法を理解する傾向、また法によって道徳を理解する傾向が、しばしば見られた。私は、これを、法の道徳化ないし道徳の法化現象と呼んでいる。たとえば、法的に悪いことは道徳的にも悪いこと、あるいは、法的に許されることは道徳的にも許される、という観念が日本人にはある。(略)
(略)
 一つの例をあげよう。ベトナム戦争下で、アメリカの青年たち、とくに戦争を悪とし、これに反対することを道徳的・宗教的信条とする青年たちは、この深刻なジレンマにおちいった。ある人たちは、道徳的信条を棄て、良心に反し、国家の法秩序に服し、徴兵に応じ、ベトナム戦争に参加した。しかしまた別の人たちは、道徳的信条を大切にし、良心を守りとおすために、違法で処罰されることを覚悟のうえで、兵役義務を拒否した。この場合、法を守った前者のタイプの人の方が、法を拒否した後者のタイプの人より、人間として立派であったと果たしていえるであろうか?答えは、明らかに否である。道徳的見地よりすれば、良心を貫いた人の方がえらかった、ということになるであろう。そして現に、多くのアメリカ市民は、良心的徴兵拒否の行為を高く評価した。
 この事例を、戦争中の日本の場合と比較すると、わが国にも、良心を貫いて戦争に反対した人びとは、もちろん存在した。しかし、これらの人たちは、治安維持法その他の法的サンクションを受けたことはもとより、道徳的にも非難されたのである。その典型的言葉は「非国民」という、おそるべき言葉であった。国家政策に協力しない「非国民」は、人間的にも非難され、しばしば周囲の人や親戚の人からも冷たい目で見られた。…このことは、大平洋戦争下の日本社会とベトナム戦争下のアメリカ社会との一つの差異を示している。また同時に、このことは、日本における「転向」とは何であったかを考える上に一つの重要な観点を与えるものでもある。

「非国民」は、それを口に出す人間の未熟さ、人間としての自立性のなさを象徴する言葉と言っていい。誰かが「非国民」またはそれに類する言葉(今で言えば「在日」認定などがまさにそれだろう)を使って他者を攻撃しているとき、それはその人が自らの良心のみに立脚して価値判断をすることができない、幼稚で権威主義的な人間であることを自白しているも同然なのである。

 法と道徳との未分離という問題は、日本社会にとっては、その根底にふれる問題をふくんでいる。それは、一方においては、昔からの「法」についての日本人の伝統的観念に根差す問題であると同時に、他方においては、これまた昔からの「天皇制」に深く根をおろす問題でもあるからである。
(略)
 その一つの典型的例として、教育勅語が広く受け入れられる基盤を考えてみるがよい。その原型は、たとえば、今日、なお広くテレビなどで愛好されている「水戸黄門」や「大岡裁判」その他、数多くの例の中に見出される。「先の副将軍」とか「お奉行」とか、「おかみ」のえらい人から、「孝行」のおすみつきをいただいて人民は感激し、いっそうの「孝行」を「おかみ」に誓う、というパターンを国家的規模で組織化したのが、教育勅語にほかならなかった。(略)当時の国民にとって、国民道徳についての天皇の命令は、同じく天皇の命令である法と同じように、絶対に守らなければならないものだったのである。
 国家が道徳的価値の担い手であり、国民は国家の指し示す道徳に従っておればよい、という、この天皇制国家の伝統は、またその後の日本ファシズム(天皇制ファシズム)をもたらした一つの要因であった、ともいえるであろう。ドイツにおいても、法と道徳との未分離は、ナチズム道徳観によって歪曲された法の支配をうみ出したことが、しばしば指摘されるのであるが、わが国では、もともと、法と道徳との一体となった天皇制国家の原理があったから、ファシズムの段階における、国体観念を中核とする国民道徳の法的組織化は、いっそう容易に実現された。こうして天皇制国家の道徳原理が、ますます深く、立法・解釈の法原理の中に混入され、もはや、固有の意味での「法」を語ることができなくなったのである。

教育勅語は、このような、未熟で善悪の判断を「お上」に依存する「臣民」を量産するため、別の言い方をすれば、自立してものを考え、価値判断ができる成熟した人格を形成させないために、日本中にばらまかれ、その遵守を強制された。「至極まっとうなこと」が書かれているから良いなどというレベルの問題ではないのだ。

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