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関東大震災朝鮮人虐殺否定本のデタラメは東京日日新聞を読むだけでバレる

 

ネット上には関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する妄言があふれているが、そのほぼ唯一のネタ本となっているのが、加藤康男著『関東大震災朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック 2014年)である。※1

この本の虐殺否定論の骨子を整理すると、次のようになる。

 

  朝鮮人が暴動を起こしているというのは流言ではなく事実だった
    その証拠に、震災直後の新聞に暴動を伝える記事が大量に載っている
    後にこれらが流言とされたのは、政府が隠蔽工作を行ったからだ

  朝鮮人は確かに殺されたが、これは暴動に対する反撃の結果だから虐殺ではない

 

関東大震災発生直後、各地の新聞は「不逞鮮人」による暴動を事実であるかのように伝える記事を大量に流したが、これは震災によって交通・通信手段が壊滅し、被災地の実情を確認することもできずに避難民その他が伝える流言をそのまま記事にしてしまった結果に過ぎない。仮に当時の新聞記事の内容が事実だとしたら、朝鮮人が暴動を起こしただけでなく、品川は津波で全滅し(大阪毎日新聞第2号外9月2日付)、横浜は海底に没して跡形もなくなり(荘内新報号外第12報日付不明)、伊豆大島も沈没(軍港新聞第4号外9月4日付・名古屋新聞第2号外9月6日付)、その上、火山ですらない秩父連山(大阪毎日新聞第2号外9月2日付)や槍ヶ岳(小樽新聞号外9月2日付)が大爆発していたはずだ。[1]

 

このように、震災直後の新聞報道にはまったく信憑性がないのだが、そういう当然の指摘が来ることを予想したのか、加藤本はもっぱら東京日日新聞の記事に依拠している。

 

震災によって、東京にあった新聞社の社屋はほとんどが焼失し、新聞発行は不可能となった。かろうじて残ったのが『東京日日新聞』(現在の毎日新聞の前身)と『報知新聞』で、最も被害の軽かった東京日日新聞は、2日に手刷り活版で震災第一報の号外を発行し、3日から新聞の発行を再開している。[2]

東京日日新聞はまさに被災地東京のど真ん中で発行されていたわけで、現地からの報道として遠隔地の新聞よりは信頼性が高そうに見える。実際、加藤氏は発行再開初日である9月3日付の東京日日新聞から大量の記事(朝鮮人暴動関連記事のほとんどすべて)を引用して、朝鮮人暴動は事実だったという自説の論拠としている。以下、加藤本に掲載された同紙の記事を見ていこう。

 

不逞鮮人各所に放火し
    帝都に戒厳令を布

 一日正午の大ヂシンに伴ふ火災は帝都の各所より一斉に起り、二日夕刻までに焼失倒壊家屋四十万に上り死傷算さんなく、同時に横浜横須賀等同様の災禍に会ひ、相州鎌倉小田原町は全滅の惨を現出した。陸軍にては昨深更しんこう災害の防止すべからざるを見るや出動の軍隊に命じて焼くべき運命の建物の爆破を行はしめた。この災害の為め帝都重要の機関建築物等大半烏有うゆう(注・何もないこと)に帰し、ヒナン民は隊を組で黒煙たちこむる市内を右往左往して飢に瀕し、市民の食糧不安について鉄道省は各地を購入方を電命し、府市当局は市内各所に炊き出しをなし、三菱地所部も丸の内で避難民のために炊き出しを行った。

 一方猛火は依然として止まず(略)、当市内朝鮮人、主義者等の放火及宣伝当頻々ひんぴんとしてあり、二日夕刻より遂に戒厳令をしきこれが検挙に努めてゐる。因ちなみに二日未明より同日午後にわたり各署で極力捜査の結果、午後四時までに本郷富坂町署で六名、麹町こうじまち署で一名、牛込区管内で十名計十七名の現行犯を検挙したがいづれも不逞鮮人である

 

鮮人 いたる所めったぎりを働く
 二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す

 今回の凶変を見たる不平鮮人の一味はヒナンせる到る所の空屋等にあたるを幸ひ放火してをることが判り、各署では二日朝来警戒を厳にせる折から、午後に至り市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一団あるを見つけ辛かろふじて追ひ散らしてその一二を逮捕したが、この外放火の現場を見つけ取り押へ又は追ひ散らしたもの数知れず、政府当局でも急に午後六時を以て戒厳令をくだし、同時に二百名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとの飛報ひほう警視庁に達し、正力しょうりき主事、山田高等普通課長以下三十名現場に急行し、一方軍隊側の応援を求めた。尚ほ一方警視庁本部備へつけの鉄道省用自動車を破砕すべく爆弾を以て近寄った一団二十名を逮捕したが逃走したもの数知れず

 

鬼気全市に漲みなぎる

 不平鮮人団はいづれも帽子をまぶかにかぶっているもので、普通の男子はすべて帽子をぬぎ、左手に白布をまとふこととし、若しウサンな男と出あった際はまづ生国を問ひ答へのにごるものは追究し、ソレと窮する時は直ちにこぶしの雨を隆らす有様で殺気は次第に宮城前広場、日比谷公園より丸の内一帯、同日午後九時頃鮮人の一団三十余名ヒナン民を以て充満した二重橋の広場に切りこんだとの報に接し江口日比谷署長は部下を率ゐ警戒に任じ、十時半頃に至りその一味を発見すると彼等は日比谷公園ににげこみ、十数名の一団は時の声を挙げて此処にヒナンしてゐる老幼男女を脅おびやかし各所に悲鳴起り(略)目下警戒に主力を注いでゐるのは渋谷地方で鮮人等はこの方面がやけ残ってゐるので放火をしやうとたくらんでゐる

 

日本人男女 十数名をころす

 目黒競馬場をさして抜刀の儘まま集合せんとし不平鮮人の一団は、横浜方面から集まつたものらしく、途中出会せし日本人男女十数名を斬殺し後憲兵警官と衝突し三々さんさん伍々ごごとなりすがた影を隠したが、彼等は世田ヶ谷を本部として連絡をとつてをると

 

横浜を荒し 本社を襲ふ
  鮮人のため東京はのろひの世界

 横浜方面の不逞鮮人等は京浜間の線路に向て鶴嘴つるはしを以て線路をぶちこはした。一日夜火災中の強盗強姦ごうかん犯人はすべて鮮人の所為せいであつた。二日夜やけ残った山の手及び郊外は鮮人のくひとめに全力をあげられた

 

なんとも凄まじい内容ではあるが、果たしてこれらの記事はどの程度信用できるのだろうか。

そもそも、記者たちが東京にいると言っても、震災直後の混乱を極めた状況の中でまともな取材などできるはずもない。記事の中味を見ても、震災でとっくに不通となっている鉄道の線路をツルハシでちまちま壊して何の意味があるのかとか、「渋谷で放火しようとたくらんでいる」「世田谷に本部がある」といった「不平鮮人団」幹部しか知らないはずのことがどうして分かるのかとか不可解な内容だらけで、事実関係を確認した様子もなく、信憑性があるとは言い難い。

 

しかし、実は加藤本に引用された中に一つだけ、記者たちが直接体験した重大な出来事が書かれている。見出しにもなっている「本社を襲ふ」である。東京日日新聞社そのものが「不平鮮人団」の襲撃を受けたというのだ。いったい何人の記者が殺され、どのような物的損害を被ったのか。これが事実なら、朝鮮人の暴動はあったという主張の立派な証拠となる。

だが、上記引用記事のどこにも「本社を襲う」に対応する具体的内容がない。これはどういうことなのか。

 

というわけで、オリジナルの1923年9月3日付東京日日新聞の紙面を調べてみたところ、「鬼気全市に漲ぎる」と題された記事の中にそれはあった。加藤本ではなぜか省略されている部分の中である。

まず、記事全文の画像を示す。

 

 

「東京駅前の大通で執務してゐる本社出張所付近に怪しき影の出没さへ見え社員は極度に緊張殺気立つた」。これだ。「付近に怪しき影の出没さへ見え」 ―― これが「本社を襲う」の正体である。

自らも被災者であり、「朝鮮人襲来」の噂に怯える哀れな記者たちは、近くの路上に怪しい(と思い込んだ)人影がちらほら見えただけのことを「本社を襲ふ」「東京はのろひの世界」と書いてしまうような異常な精神状態の中で、避難民や出入りの警察署から聞きかじった風聞・憶測を裏取りもせずに書き飛ばしていたのだ。被災地東京で発行されたこの新聞が流言飛語を増幅し、朝鮮人虐殺を拡大加速する重大な役割を果たしたことは言うまでもない。

 

※1 ほかにもう一冊、工藤美代子著『関東大震災朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版 2009年)というのもあり、時期的にはこちらが先行しているのだが、この二つは内容の大部分が重複しており、加藤本は工藤本の改訂版と言うべきものなので、本記事の論点では区別して扱う必要がない。ちなみに、加藤康男氏は工藤美代子氏の夫

[1] 記憶を刻む 1923年関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺関連の資料と証言 07/デマ記事

[2] 金富子 関東大震災時の「レイピスト神話」と朝鮮人虐殺 大原社会問題研究所雑誌 669号

 

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