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「朝鮮人暴動」と「朝鮮人虐殺」 ―― 証言の圧倒的な差がすべてを物語る

加藤康男著『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック 2014年)(以後、「なかった」と略す)は、関東大震災時の「朝鮮人による暴動」は流言ではなく実際にあったのだ、と主張している。そして、その「証拠」と称して、大量の新聞記事や手記の類を引用している。

「品川は三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以て戦ひました。鮮人は鉄砲や日本刀で掛るので危険でした。其中に第三連隊がやってきて鮮人は大分殺されましたが日本人が鮮人に間違はれて殺された者が沢山ありました」(「北海タイムス」大正十二年九月六日)(P.44)

目黒と工廠の火薬爆発

 朝鮮人の暴徒が起って横浜、神奈川を経て八王子に向って盛んに火を放ちつつあるのを見た」(「大阪朝日新聞」大正十二年九月二日)(P.170-171)

「こうした証言は、あげれば際限がないほど多くを数える」(P.44)と「なかった」は言うのだが、実際には一つとして個々の「暴動」の状況を具体的に描写したものはない。理由は簡単で、これらは「暴動」の被害当事者や目撃者の証言ではなく、「聞いた話」を伝えているだけだからだ。(そもそも、どうすれば暴徒が「横浜、神奈川を経て八王子に向かって」火を放ちながら移動していくのを一人の人間が目撃できるのか、そんな方法があるなら教えて欲しいほどだ。)

「なかった」は例えば、

「日本人男女 十数名をころす

 目黒競馬場をさして抜刀の儘まま集合せんとし不平鮮人の一団は、横浜方面から集まつたものらしく、途中出会せし日本人男女十数名を斬殺し後憲兵警官と衝突し三々さんさん伍々ごごとなりすがた影を隠したが、彼等は世田ヶ谷を本部として連絡をとつてをると」(「東京日日新聞」大正十二年九月三日)(P.173)

といった記事を事実として引用しているが、これが事実なら、生き残った被害者、あるいは現場に居合わせた目撃者による、何らかの具体的な証言が残っていていいはずだ。しかし、それはない。「なかった」は、内相後藤新平が朝鮮人暴動の事実を隠蔽するために「強引に新聞などの操作を」したと(何の根拠もなく)主張しているが、報道機関は統制できても個人の証言や手記まで操作するのは不可能だ。しかし、何もないのだ。
 
「朝鮮人暴動」を裏付ける個別具体的な証言は一つもない。

一方で、朝鮮人殺害が「朝鮮人のテロ行為に対する自警団側の正当防衛」だった(P.7)という「なかった」の主張を真っ向から否定する証言は、それこそ「あげれば際限がないほど」あるのだ。

以下、まず日本人による目撃証言から見ていこう。

湊七良証言[1]

 すでに四○年の歳月の移り変りを経ているが、きのうのように記憶が新たである。

 いまから三七年前に震災の回想録をまとめようと思って書いたけれども、あまりにも凄惨な記憶なので、机の抽出の底に入れたまま疎開していたので、空襲の難をまぬがれた黄ばんだ原稿用紙から亀戸事件、朝鮮事件などを拾って見ることにする。

(略)

 九月一日は本所区向島小梅町の焼跡に転っている空箪笥などを拾って来てそれを寝台に横になりながら、雷門の神谷バーの窓々から紅蓮の燃が生きもののように乱舞しているさまや、観音様や、五重の塔がいまにも落ちるのではなろうかと眺めていた。闇夜に火事のあかりで五重の塔、観音堂がくっきりと浮きぼりにされ、火の子が、恰も画面に朱の班点をまぶしたように色彩づけている。

(略)

 宿水をなくした風来坊の私は、二日には荒川土手を一夜の憩いの場所としたが 夜寒さに目が覚めて、平井駅のホームに大勢の家を失った人達とともに一夜をあかした。その夜半だ。俄かに半鐘が鳴る 火事かな、もう沢山だと思っていたら、津波だという声がある。津波ではない朝鮮人の襲撃だ、という。私のまわりには朝鮮服の男女が大勢いた。つづいて、ご丁寧にも東京襲撃しつつある朝鮮人は、横浜刑務所を脱獄して、社会主義者と合流し、東京をあらしまわっているというわけで、かような想定の下に流言蜚語を流したわけだった。三日から大島三丁目の古い友人の二階を仮の宿にした。近くの大島製鋼所方面でピストルの射撃する音が聞えてくる。朝鮮人さわぎではないかと直観した。とにかく出て見た。大島製鋼所の周辺に葦の生えた湿地帯があった。その附近で、憲兵がピストルをかまえてなにかを探し、追及している構えであったので、私はその憲兵に何を探しているか問うたところ、飲料水に毒を投げた鮮人がこのアシの中に逃げ込んだというのである。

 とうとう憲兵と自警団(在郷軍人団)に追い詰められて二五・六歳の青年が、頭をうちぬかれて無惨に殺されてしまった。

 亀戸の五ノ橋に朝鮮人婦人のむごたらしい惨死体があるから見て来い、と言われた。女であろうと男であろうと、死んだ人を見るのはごめんだったが、見て来いと進めたのには特異な理由があった。それに近くもあることだから行って見た。一と目見て血の気が失われるような身ぶるいを覚えた。惨殺されていたのは三〇ちょっと出た位の朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。しかも妊婦である。正視することができず、サッサと帰って来た。一体この女性をこのような残酷な殺し方をしたのは吾々と同じ日本人だろうか、また殺してからこういうことをやったのであろうか。とにかくこの惨殺体のことは考えないことにした。

(略)

 その日は九月四日頃だ。両国河岸の食料倉庫から避難民達が、ビール、缶詰などの食糧品を略奪している。吾々も三人で同調して担げるだけ持ったはよいが、パトロール中のお巡りに見付かって全部取り上げられてしまった。

 その食料品倉庫のところに来たところ 大変な惨虐が展開されているところであった。

 地点は安田邸の下流一〇〇メートルほどの隅田川岸で、針金で縛した鮮人を河に投げては石やビール瓶などを放っている。それが頭や顔に当ると、パット血潮が吹きあがる。またたくうちに河水が朱に染って、血の河となった。

 罪なき者を!罪なき者!!と悲痛な叫び声が今でも耳朶に残っている。これをやっているのが、理性を失った在郷軍人団の連中であった。それから目と鼻の先きに安田邸の焼跡がある。川に面した西門と横川の南門とがそのままに保たれていた。その南門のところに、またこの物語りの残酷な光景が描き出されていた。五六人の鮮人が、例のごとく針金でゆわえつけられ、石油をぶっかけて火をつけられている。生きながらの焚殺だ。(略)映画ではジャンダークの火あぶりの刑を見たことがあるけれども、現実に見たのはこのときが初めてだ。人数も五、六人と書いたが、勘定しているゆとりなどない。それにこの人達は半死半生の態で気力を失っていたのか、それとも覚悟していたのか、隅田川に投げ込まれた人々のようにひとことの叫びもしなかった。ただ顔をそむけて去る私の背後にウウッ!!といううめきの声が、来ただけだ。


田畑潔証言[2]

 横浜の中村町周辺は、木賃宿が密集した町だった。木賃宿には朝鮮人労務者が多く住みつき、数百人からいたように思う。

 この近くの友人宅を訪ねていて地震にあった私は、だから、世に有名な朝鮮人虐殺の実態を、この目でつぶさに目撃することになった。二日朝から、朝鮮人が火を放けて回っているという流言がとぶと、ただちに、朝鮮人狩りが始まった。

 根岸橋のたもとに、通称“根岸の別荘”と呼ばれる横浜刑務所があって、そこのコンクリート壁が全壊したため、囚人がいちじ解放されていたが、この囚人たち七、八百人も加わって、捜索隊ができた。彼らは町中をくまなく探し回り、夜を徹して山狩りをつづけたのである。

 見つけてきた朝鮮人は、警察が年齢、氏名、住所を確かめて保護する間もなく、町の捜索隊にとっ捕つかまってしまう。ウカウカしていると警察官自身も殺されかねないほど殺気だった雰囲気だった。そうしてグルリと朝鮮人をとり囲むと、何ひとついいわけを聞くでもなく、問答無用とばかり、手に手に握った竹ヤリやサーベルで朝鮮人のからだをこづきまわす。それも、ひと思いにバッサリというのでなく、皆がそれぞれおっかなびっくりやるので、よけいに残酷だ。頭をこずくもの、眼に竹ヤリを突き立てるもの、耳をそぎ落とすもの、背中をたたくもの、足の甲を切り裂くもの……朝鮮人のうめきと、口々にののしり声をあげる日本人の怒号が入りまじり、この世のものとは思われない、凄惨な場面が展開した。

 こうしてなぶり殺しにした朝鮮人の死体を、倉木橋の土手っぷちに並んで立っている桜並み木の、川のほうにつきだした小枝に、つりさげる。しかも、一本や二本じゃない。三好橋から中村橋にかけて、載天記念に植樹された二百以上の木のすべての幹に、血まみれの死体をつるす。それでもまだ息のあるものは、ぶらさげたまま、さらにリンチを加える。……人間のすることとも思えない地獄の刑場だった。完全に死んだ人間は、つるされたツナを切られ、川の中に落とされる。川の中が何百という死体で埋まり、昨日までの清流は真っ赤な血の濁流となってしまった。

横浜では虐殺された朝鮮人の死体の多くが川や海に投棄されたらしい。地理的に離れているので上記の証言と関係があるのかどうかは不明だが、震災後半年近くたって、横浜市子安の海岸に数百名の朝鮮人の死体が漂着したという記事(やまと新聞1924.2.10)が出ている。[3]

虐殺鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着

  昨日の暴風に打揚げられて

  当局面倒がって責任のなすりあひ

横浜在子安方面では九月一日の大震災当時気荒い漁夫連が多く居住して居たととて数百名の朝鮮人を殺害しその大部分は海中に放棄してしまったが八日の暴風の為め波浪高く腐爛した肉をつけた白骨数多同海岸へ打ち揚げ而かも神奈川署では完全な骨組をしていないからと市役所へ廻すのを面倒がりどこへでも埋めてしまへと取り合わぬので同海岸にはバラバラとなった人骨累々として鬼気人に迫るの物凄さである(横浜電話)


美田賢二郎証言[4]

 なにしろ天下晴れての人殺しですからねえ。私の家は横浜にあったんですが、横浜でもいちばん朝鮮人騒ぎがひどかった中村町に住んでいました。

 そのやり方は、いま思い出してもゾッとしますが、電柱に針金でしばりつけ、なぐるける、トビで頭へ穴をあける、竹ヤリで突く、とにかくメチャクチャでした。

 何人殺ったかということが、公然と人々の口にのぼり、私などは肩身をせまくして、歩いたものだ。そのなかでも、川へ飛び込んだひとりの朝鮮人を追って、日本人が舟で追う光景は、いまでもはっきりと脳裏に焼きついています。

 しばらく水中にもぐっていた朝鮮人が水面に顔を出したのは五分もたってからです。行くえがわからず、やみくもに舟を進めていた日本人は、顔を出した朝鮮人に向かって全速力で突進を開始した。このようすに気づいた朝鮮人は瞬間的に逆方向に泳ぐ、その形相のすざまじいこと。だがどんなに体力に自信があるとはいえ、しょせん舟にかなうわけはない。朝鮮人の頭めがけてトビが飛ぶ。ブスという音とともに血が吹き出し、みるみるあたりは真っ赤に染まっていく。それでも気がすまないのか、トビで引っかけた朝鮮人をズルズルと舟へ引き寄せると、刀で斬りつける。竹ヤリで突く、全身ズタズタにしてしまった。もはや、ぐったりとなった朝鮮人の顔は、肉がはじけとび、すでに人間の顔のかたちをとどめてない。川岸で、その惨状を見ていた私の背中を冷たい汗のしずくが流れ落ちた。くやしかったことでしょう。(談)

この証言は、以前こちらの記事で紹介した西河春海氏(東京朝日新聞記者)の遭難手記の中で「労働者風の髭男」が語っていた内容[5]とよく一致している。 

 「旦那、朝鮮人は何うですい。俺ア今日までに六人やりました。」

 「そいつは凄いな。」

 「何てつても身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサア。」

(略)

 「けさもやりましたよ。その川っぷちに埃箱があるでせう。その中に野郎一晩隠れてゐたらしい。腹は減るし、蚊に喰はれるし、箱の中ぢやあ動きも取れねえんだから、奴さん堪らなくなって、今朝のこのこと這ひ出した。それを見つけたから皆で掴へようとしたんだ。」

(略)

 「奴、川へ飛込んで向ふ河岸へ泳いで遁げやうとした。旦那石つて奴は中々當らねえもんですぜ。みんなで石を投げたが、一も當らねぇ。でとうとう舟を出した。ところが旦那、強え野郎ぢやねえか。十分位も水の中へもぐつてゐた。しばらくすると、息がつまつたと見えて、舟の直きそばへ頭を出した。そこを舟にゐた一人の野郎が鳶でグサリと頭を引掛けてヅルヅル舟へ引寄せてしまつた。………丸で材木といふ形だアネ。」
といふ。

 「舟のそばへ來れば、もう滅茶々々だ。鳶口一でも死んでゐる奴を、刀で斬る、竹槍で突くんだから………」

場所も中村町付近で一致しており、この川の中での虐殺は、まず間違いなく美田証言中のものと同じ事件である。一人は舟に乗って直接殺戮に加担し、もう一人は川岸からそれを目撃したのだ。

江口渙証言[6]

 本郷三丁目まできたときだった。竹ヤリを持った十五、六人の一団が菊坂のほうから出てきて燕楽軒の角を曲がった。真っ先には、はんてんに半ズボン地下足袋の男が巡査に腕をとられて歩いてくる。頭にまいた白い布には大きく血がにじみ、それが赤黒く顔半面を流れている。顔つきは疑いもなく朝鮮人だ。

 「やられたな」と、私はすぐ感じて後の竹ヤリを見た。みんな興奮しているらしく、早口にしゃべるので、何をいっているのか聞きとれない。

 一団は、交差点の角を曲がって、春日町のほうへ急ぐ。私も思わず、後をつける。大きな漬け物屋の前だった。竹ヤリを持ったひとりが大声で叫んで、後ろから朝鮮人の尻をけった。朝鮮人が前にのめった。いっしょに巡査までがよろけたが、すぐに振り返って手を上げた。「よせ。よせ」といったらしい。するとどうだろう。「巡査のくせに鮮人の味方をするのか。この野郎」という声がして、たちまちバットが巡査の顔に打ちおろされた。

 手を顔にあてて巡査が倒れた。と、いっしょに朝鮮人がヒザをついた。あとは、もうムチャクチャだった。みんなで朝鮮人をとりかこんで打つ。ける。なぐる。竹ヤリでつく。だが相手は声も立てず。逃げもせず。抵抗もしない。ただ頭を抱えてうずくまって、されるままにまかせていた。

 そのうちに、手から足からも力がぐったりぬけていくのが見えた。私はもうそれ以上見てはいられなかったので、逃げるように春日町のほうへ急いだ……。

殺気立った自警団が朝鮮人を護送する警官にまで暴力を振るったことは次の証言からも分かる。また、これは「朝鮮人暴動」がまったくのデマだったことの、警察当事者側からの証言にもなっている。

佐藤伝志証言[7]

 神奈川県戸部署の巡査になって間もなく、関東大震災にあった。軽井沢派出所が私の受け持ち交番だったが、本署との連絡用電話が絶たれたため、まったくのツンボさじきにおかれてしまった。震災当日の九月一日は住民の避難指揮や災害処理で手が離せず、二日、夜明けとともに本署に出向いた。

 「朝鮮人が暴動を起こす」の報を聞いたのはこのときである。署の内外は緊張した空気につつまれていた。そんなやさき、数十人の朝鮮人が武装して集会を開いているとの知らせが入った。「それッ!」とばかり、居合わせた者全員が現場に急行したが、そこには人影ひとつなかった。右だ、左だ、いや向こうだと走り回っているうちに、恐ろしいもので、朝鮮人暴動は、もはや既成の事実として疑わなくなっていた。だれも彼もがそんな疑心暗鬼になり、私たちも、しまいにはサーベルを振り上げ、本気で追いかけた。

 家屋の倒壊、断水、停電、出火……で平静さをまったく失っていた一般住民の激昂ぶりは私たちに輪をかけてすさまじかった。町内ごとに自警団を組織し、竹ヤリ、日本刀、角材をたずさえ、徒党を組んで“朝鮮人狩り”をやった。町の辻で朝鮮人を取り囲み、袋だたきにしている光景も幾つかあった。いずれも、暴徒とは想えない一般朝鮮人市民であり、人がきをわけて入ってなだめようとするのだが、そのじぶんには、警察官といえどもヘタに口出しすると命が危ないというありさまだった。私自身、危やうく竹ヤリで突かれ、トビ口で頭を割られるところだった。

 結局、まる一昼夜探索しても、朝鮮人の武装蜂起を裏づける事実は何一つなく、このままでは犠牲者が出るばかりだということで、署が朝鮮人保護にのりだした。近くの学佼の雨天体育場に五~六十人を収容したと記憶している。

 このあと、三日から私は、県知事宅の警護をいいつかったが、市民、県民のいざこざの収拾や陳情こそあったが、朝鮮人による襲撃や暴動はまったくなかったことを追述しておきたい。若気のいたりで、サーベルに代えて日本刀を腰にさし、いざ暴動となれば右に左に切り結んでやろうなどと考えたものだが、ウワサ、流言飛語のたぐいが、どんなに恐ろしいものであるかを、まざまざと知らされた一週間であった。(談)


飯田長之助証言[8]

 私ァ、本郷に住んでましたがね、朝鮮人が井戸のなかに毒を入れてるッて、フレがでまわり、それにごていねいにうちの古井戸のフタに(井)なんて印を白墨で書いてくヤツまであって、近所の若い衆はみな、竹を鋭くそいで油をひき、作ったヤリをしごきながら、近所でちょいと見かけねェ衆が通ると、おっかねェ顔して「おいこら、イロハ……しまいまでいってみろ」なんて脅かした。通行人が答えられないと「あやしいヤツだ」なんてこづきまわしたりしてましたよ。

 二、三日たって少し落ち着くと、商売のほうが心配になって、州崎の養魚場を見に行った。その途中の道に、朝鮮人らしい死体がゴロゴロしてる。震災で死んだのは黒こげになっているが、暴行されて死んだのは、皮膚が生っ白いから一目でわかるんだ。ひでェのは、半分焼け残った電柱に朝鮮人がしばられていて、そのかたわらに“不逞鮮人なり。なぐるなり、けるなり、どうぞ”と書いた立て札があって、コン棒までおいてある。そいつァ顔中血だらけになっていたが、それでも足けりにしたり、ツバを吐きかけていくものがいてねェ……。

 その後、江戸川をこえて、いまの浦安橋のたもとへ米をとりに行った。捕安の渡し場(当時はポンポン蒸気が唯一の交通機関で、もちろん橋もなかった)では、サシコを着込んだ消防団の連中が主になって自警団をつくり、そいつらが、ポンポン蒸気からおりてくるヤツにあやしい人間がいないか調べまわってた。

 そこへたまたま、日本人の奥さんをもった実直な商人でとおっている近隣の朝鮮人がおりてきた。すると、皆で「朝鮮人だ」とワッと寄っていった。

 男は「私の妻は日本人だ。ぼくは何も悪いことしない。頼むから、助けてくれ」と必死の形相で哀願している。団の責任者も「この人はだいじょうぶだ。やめろ」ととめていたが、なんせ気が立っている連中のこと、聞く耳がない。責任者のことばが終わらねェうちに、鳶口とびぐちが三、四つ男の頭の上にふり落ちる。次の瞬間には、長い竹ヤリが、腹をブスッとつらぬく。

 男は、ものすこい顔で苦しみもだえながら、なんとか逃れようとしていたが、左右前後からヤリでつかれ、あげくは川の中へドブンと放り込まれてしまいましたよ。

 なんせ朝鮮人が悪いとみな頭っから信じこんじゃってるからどうしようもねェ。私も、何も殺さなくてもと、この惨劇の場を見ながら思ったが、腹の中じゃァ、朝鮮人だから殺されてもしかたがないという妙な気持ちがいくぶんかはなかったとはいいきれない。いま思えば、まったくバカげたはなしだが……。

 その後も、夜の渡し船で、朝鮮人が五十人くらい襲ってくるというウワサが出て、渡しが着いたとたん、四、五人に切りつけ、川の中に落としてしまった。もちろん、朝鮮人なんか乗ってなくて、殺されたのは日本人ばかり。ひどいウワサがあったものだ。

 江戸川を毎日、三、四人の死体が針金の八番線でじゅずつなぎになって流れてきた。みな朝鮮人が殺されたんだ。青い囚人服みたいのを着ていたが、みんな死体ばかり見てるので、そんなのが流れてきても、とくべつ驚かなねェ。とにかく、東京中が何か異様な雰囲気でしたなァ、あのころは。(談)

※ ◯の中に「井」

 北沢初江証言[9]

 四日になって私たちは田端から母の故郷の福島に向かったのですが、その車中で、すごい光景を見てしまいました。

 途中の駅で罹災者にイモの差し入れがあったのですが、車中で一人の男がイモをもらったままにしていたのです。すると誰かが「イモを食わないのは、朝鮮人だ」と叫び始めた。屈強の男たちが四、五人、この“朝鮮人”を追い駆け回し、隣の客車まで逃げた男を連れ戻してきておいて、頭といわず、からだといわず、ところかまわず、なぐる、けるの乱暴を加えたので、男は口から血を吐いてとうとう死んでしまいました。

 車内のかなりの人がそれを見て「バンザイ」などといって大喜びしているのです。私はなんと無残なことをするのかと腹立たしく思いましたが、まわりの人がこわくて黙っているしかありません。

 そのほか、白河の少し手前でも、同じような朝鮮人を見い出し、列車の中でなぐり殺してしまいました。

 大地震で日本国中の日本人たちが、狂っていたとしか思われません。私たちは集団になると、とんでもないことをしでかす民族かもしれないと思うと、いまでもゾッとします。(談)


続いて、追い回され、殺される側だった朝鮮人被害者の証言。

金学文証言[10]

 九月一日のひるごろ突然大地震に襲われました。当時わたしは、東京市水道局の玉川揚水場で働いていました。仕事は水取口にたまった砂などをとりのぞくことでした。朝鮮での生活が苦しく、職を探して日本に渡ってまだ一年しかたたず、日本語はやっとききわけることができる程度でした。毎日の仕事は苦しく、外出する機会もないので、東京について何も知りませんでした。

 うまれてはじめて大地震にあったので、たいへん驚き、どうすればよいのかわからず、ぶるぶるふるえていました。そのうち地震もやや静まり、監督の成沢さんの指示に従って、倒れたりこわれたりしたものを片付けていました。

 三日、「朝鮮人はみな殺す」ということが、「朝鮮人襲撃」のうわさとともに伝ってきました。わたしは、不可解でした。あのような大地震のさなかで、すべての人間が生きようと逃げまどうのに必死になっている時に、朝鮮人だけが、集団で襲撃するということは、どうしても考えられませんでした。地震の恐ろしさで、わたし自身日本語ができ、東京の地理をいくらかでもわかっていれば、いきるために避難したはずです。

 とにかく「朝鮮人を殺せ」ということをきいて、夢我夢中で成沢さんのところへ走って行き、何とかたすけてくれるようお願いしました。成沢さんは揚水場に働いていた朝鮮人労働者四人を、一番奥の部屋にかくし、入口には他の日本人労働者を立たせて、自警団の襲撃からわたしたちを守ってくれました。こうして一週間ほどすごしました。

 十日ほどすぎて、わたしたち朝鮮人労働者四人は、死体処理にかり出されました。めいめい腕章をつけさせられ前後を数名の日本人にとりかこまれて、江東の砂町方面にいきました。錦糸堀には、相愛会の建物があって、その附近には「コジキ宿」といってまずしい労働者の宿が多く、土方をしていた全羅道出身の同胞が多く住んでいました。

 これらの人は殆んど殺されたようでした。わたしたちが処理した死体には、火にあって死んだ人やトビ口や刃物で殺された人がありましたが、両者ははっきり区別されます。虐穀された人は、身なりや体つきで同胞であることが直感的にわかるばかりでなく、傷をみれば誰にでもすぐ見分けがつきました。小さな子供まで、殺されていました。あの頃のことを思うと今でも気が遠くなりそうです。

 
全錫弼証言[11]

 震災当時、私は東京の大井町でガス管敷設工事場で働いていました。飯場には朝鮮人労働者が十三名いました。

 九月一日は朝から雨だったので仕事に出られず、飯場にこもっていました。十二時ちょっと前でした。昼めしを食べようとしているところへ、激震が襲ってきました。瓦がとび、家が倒れ歩くこともできません。私は外に飛び出し、電柱にしがみつきぶるぶるふるえていました。

 そうこうするうちに地震はいくらか弱まってきましたが、横浜方面から火の手が上がり、東京市内でも火災がおこり、火勢はますます激しくなりました。

 夕方、六時頃だったと思います。あちこちから日本人が手に手に日本刀、鳶口、ノコギリなどをもって外にとび出していました。しかし、私たちはそれが何を意味しているのか少しもわかりませんでした。しばらくして、「朝鮮人を殺せ」という声がきこえてきました。私には何の理由で殺されなければならないのか、さっぱり見当がつきません。はじめのうちは、そんな馬鹿なことが……と信用しませんでした。ところが、外をのぞいてみると、道の両側に武装した人が要所々々を固めるように立っていました。

 私達の住んでいた周囲の日本人は、とても親切な人たちでした。その人達が、とんできて大変なことになった、横浜で朝鮮人が、井戸に毒薬を入れたりデパートに火をつけたりするから朝鮮人はかたっぱしから殺すことになった、一歩でも外に出ると殺されるから絶対に出てはいけない、じっとしていれば私達がなんとかしてあげるから……といってくれました。しかし私たちはそのようなことが本気に信じられませんでした。

 夜も遅くなって受持ちの巡査と兵隊二人と近所の日本人、十五、六名が来て「警察に行こう。そうしなければお前たちは殺される」と云いました。私たちは、家を釘づけにして品川警察署に向いました。私たち十三人のまわりは近所の人が取り囲み前後を兵隊が固めました。

 大通りに出ると待機していた自警団がワァッーとかん声をあげながら私たちに襲ってきました。近所の人たちは、大声で「この連中は悪いことをしてはいない、善良な人たちだから手を出さないでくれ」と叫び続けました。

 しかし、彼らの努力も自警団の襲撃から私たちを完全に守ることは出来ませんでした。長い竹槍で頭を叩かれたり突き刺されたりしました。殺気だった自警団は野獣の群のように随所で私たちを襲いました。

 数時間もかかってやっと品川警察署にたどり着きました。その間、自警団に襲われた回数は思い出せないほど多数にのほりました。

 こうしてやっと私達は、親切な近所に住む日本人のおかげで命が助かったのでした。私は四十年たった今でもその人達を忘れることができません。

 
申鴻湜証言[12]

 当時わたくしは十九才で学生でした。

 九月一日、二学期から学校を変えるために、九段上にあった「朝鮮総督府」留学生監督部へ書類をもらいに行きました。帰り道十二時ちょっと前だったと思います。市電で九段坂をおりる時激しい地震にあいました。電車は倒れ、家も轟音と共に倒壊し、またたくまに火の海と化しました。

(略)

 そこもまもなく火の粉が落ちはじめ、熱くて居られなくなったので、外へ出ようとして憲兵にさえぎられました。私は無我無中で塀をとびこえて外へ出ました。それは三時か四時頃の事です。外では人々が「上野公園へ逃げよう」と言うので私もあとについていきました。途中で偶然にも同校の日本人学生に会いました。彼は千葉県成東の出身で東京の地理にうとかったので私がつれて歩きました。又両国の女学校に通っている十三才位の女子学生が負傷して泣いているのを見て、一緒に連れて五六時間もかかって八時頃上野公園に着き三人で夜を明かしました。翌日は地震も火災もいくぶん静まりました。人々は田舎へ避難する為にぞろぞろ動き始めましたので、私達は千葉の学友の家に向かいました。女子学生の家が市川だったので三人で総武線の線路づたいに歩き夜になって市川に着きました。女子学生の家はお寺でした。親は死んだ娘が帰って来たというので大変喜びわが子の恩人とばかり大いに歓待され、お寺で一晩休んで翌三日成東へ向いました。

 ところが市川の町ではすでに「朝鮮人は殺す」といううわさが流れていたので、私は学生証を破り捨て二人で汽車に乗りました。日本の友人は私を窓ぎわに坐らせ、自分は通路側に坐りました。次の駅(船橋駅だったと思います)で混棒、鳶口などをもった消防団や青年団が多勢乗りこんできて、「そこの海岸に今、朝鮮人が船で来襲して町に放火し、井戸に毒薬を投げ入れ、女子供を殺している。この車にも朝鮮人がいるから今から征伐する」と叫びながら乗客を一人一人調べました。私たちの所まで来た時、友人は「朝鮮人だったらどうする」と言ったので連中にずい分なぐられました。おかげで私は無事にその場を切り抜けられました。しかし私の目の前にいる人が朝鮮人だというので引きづり降ろされました。あの見幕では殺されたものと思います。

 この様に各駅毎で同じような事がくり返えされ、私は恐怖の余り口もきくことができないくらいでした。こんな訳で成東までは行けそうになかったので、八街で汽車を降り、私が下宿していた家主の山本氏の本家に行きました。そこで二、三日様子をみることにして、夕食を食べ始めようとしたときでした。

 どやどやと武装した自警団がやって来て「先程学生二人が来たようだが、彼等の正体を調べたい」と主人に迫りました。私達はふすまのうしろに隠れました。主人は彼らに向って「確かに東京の家に下宿していた学生二人がきたが、しばらく休み先程成東へ帰りました」と言いはりました。彼等は「家に入っていくのを見た者はいるが出て行くのを見た者はいない。家の中を調べさせてもらおう」とすごい見幕でした。こうして押し問答しているうちに山本氏の親戚で顔ききの新聞記者がやってきて、やっとのことで彼らを追いかえしてくれました。しかし、このままではすみそうにもありません。私は新聞記者の意見にしたがい、東金警察署へ行き「保護」を受けることにしました。新聞記者ははちまきをし私を自転車に乗せて、たむろしている自警団に「ごくろうさん」と大声をあげながらその場を切り抜け、夜中に警察につきました。そこにはすでに多数の同胞が収容されていました。

(略)

やっとのことで駅に着き、習志野の収容所へ送られました。相当の日数がたつまで私は死の恐怖から抜けだせませんでした。始めは食事ものどを通りませんでした。一週間以上もたったでしょうか、やっと殺されないことが分かりました。(略)収容所の中で殺されたことはありませんが逃げだそうとして殺された者はいました。重傷者の内死んでいった人もいました。そのうち欧米から調査団がやってきた時、彼らに虐殺の真相を話したというので、多くの学生が殴られたりしました。一ヶ月程して学生は釈放され学校に戻るように言われました。しかし私は、学校を継続する気になれませんでした。十一月になって学生調査団が生れ、各地の朝鮮同胞虐殺の実態調査を始めました。私たちは埼玉へ調査にいって随分ひどい目に会い、命からがら逃げかえったりしました。この調査は警察の干渉などもあってそれ以上続けることができず、私は十二月に故郷へ帰りました。

 その後、一九三八年再び日本にやってきて、命の恩人である八街の山本氏の家をたずねました。しかし山本氏も新聞記者もすでに死んでいました。

このように、朝鮮人被害者の証言では、日本人の友人知人がかくまってくれたおかげで命拾いをしたというパターンが非常に多い。逆に言えば、身近に助けてくれる日本人がいなかった場合、よほど幸運と体力に恵まれていなければ、生き延びるのは難しかったのではないだろうか。


朝鮮人暴動に関するリアルな被害証言、目撃証言は一つもなく、逆に何の罪もない朝鮮人が虐殺された事件についての証言はいくらでも出てくる。この、証言の圧倒的な差が、すべての真相を物語っている。

いずれの方角から調査しても、関東大震災時に日本人が「朝鮮人虐殺」をしたという痕跡はないのである。

などという戯言(「なかった」P.6-7)はいったいどこから出てくるのか。ろくに調べもせずに虐殺否定論を主張する者たちは恥を知るべきである。

[1] 湊七良 『その日の江東地区』 労働運動史研究37号(1963年7月) P.30-32
[2]『日本人一〇〇人の証言と告発』 潮 1971年9月号 P.98-100
[3] 山本すみ子 『横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺』 大原社会問題研究所雑誌668号(2014年6月) P.38
[4] 潮 P.100
[5] 横浜市役所市史編纂係 『横浜市震災史』 第5冊 1926年 P.431-433
[6] 潮 P.101
[7] 潮 P.103
[8] 潮 P.101-102
[9] 潮 P.111
[10] 朝鮮大学校編 『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』 1963年 P.145-146
[11] 同 P.146-147
[12] 同 P.152-155

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