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関東大震災時の朝鮮人虐殺 -- 芥川龍之介には執着するが志賀直哉は無視する朝鮮人虐殺否定本

 

芥川龍之介は、田端の自宅で関東大震災に遭遇した。このときの経験を、芥川は「大正十二年九月一日の大震に際して」という文章にまとめており、これは全文をネット上でも読むことができる。[1]

 

工藤美代子関東大震災朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版 2009年)(以下、「真実」と呼ぶ)は、この芥川の文章を引用して、次のように書いた。(P.30-32)

 

「僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草を喞くわへたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤もつとも雑談とは云ふものの、地震以外の話の出た訳ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、『嘘だよ、君』と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう』と云ふ外はなかった。しかし次手ついでにもう一度、何でも○○○○はボルシエヴイツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉も挙げると、『嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又『へええ、それも嘘か」と忽ち自説(?)を撤回した。

 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云ふものはボルシエヴイツキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少なくとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。

 尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである(『ドキュメント関東大震災』)

 

 伏字部分(○○○は原文のママ)は、現代史の会編『ドキュメント関東大震災』(草風館)ほか関係資料によれば、朝鮮人を指す蔑称が入るものと思われる。芥川龍之介は大火の原因を一部朝鮮人の犯行と見ていたようである。

 芥川龍之介菊池寛に対する激憤の行方として、自死を選んだように思えてならない。死因は時代への絶望だとされるのが一般的な解釈だが、それは決して軽いものではないことがうかがえる。また「市民」という新たな概念を芥川が使っている点を考えると、芥川にも大正デモクラシーの影響が及んでいたことも否定できない。だが、「デモクラシー」の中身にロシア革命の影響が含まれるとすれば話は別だ。

 いずれにせよ、勃興する共産主義の南下を芥川のように日本の危機とみる時代認識抜きには大正という時代は考えられないのではないだろうか。

 

この文章から芥川の菊池寛に対する憤激(それも自死に至るほどの)を読み取れるというのは、なかなかすごいことである。「自説(?)」と書いてある内容が芥川の本心からの主張であるとか、「少なくとも信じてゐるらしい顔つきを装わねばならぬ」「陰謀の存在」を芥川が本気で信じていたとか考えているのなら、その人は小学校の国語から勉強し直したほうがよい。

当然この珍解釈は厳しく批判されたわけだが、よほど悔しかったのだろう、「真実」の改訂版である加藤康男『関東大震災朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック 2014年)(以下、「なかった」と呼ぶ)では、次のように「反論」を試みている。(P.48-49)

 

 二○一四年四月に刊行された『九月、東京の路上で』(加藤直樹著)は、サブタイトルに″1923年関東大震災ジェノサイドの残響“などと謳っており、韓国報道機関と変わらぬ反日トンデモ本と言わざるを得ない。

 いちいち相手にして反論する紙幅はないのだが、一点だけ芥川龍之介に関し、重大な誤読があるので指摘しておきたい。

 先に述べたように芥川は盟友・菊池寛に、関東大震災の大火の原因は○○(原文は時節柄伏字だが、要するに朝鮮人による放火だという意味)だそうだ、と語ったところ、「嘘だよ君」と否定されボルシエヴイツキの手先だそうだ、とも言ったが、また「嘘さ」と相手にされない。

 いかに友人・菊池寛といえども、芥川の憤怒は収まりがつかなかった。このようなデモクラシーを謳歌する時代の潮流に芥川の絶望の一端があったのではないか―と私は述べたのだ。

 ところが、意図的なのか文学への理解力不足によるものかは知らぬが、加藤直樹氏は、


菊池寛といえば芥川の盟友である。――菊池寛への憤怒が芥川自殺の原因だったとか芥川が『共産主義南下』を日本の危機と見ていたとか――もはや日本近代文学史を大きく塗り替える革命的珍説としか言えない」

 

と、芥川の自死の原因を読み切れない。表層的な誤読により、芥川が覚えた大正デモクラシーがもつ本質的な恐怖感を理解できず、結論だけジェノサイドへ導こうとする。

 

ちなみに、『九月、東京の路上で』(以下、「路上で」と略す)は、正確に引用すると、この部分で次のように書いている。(P.158-159)

 

 絶句するほかない。菊池寛といえば芥川の生涯の盟友である。芥川の6通の遺書のうちひとつは菊池寛に宛てたものだし、その葬儀では菊池寛が友人代表として弔辞を読み上げている。誰でも知る通り、「芥川賞」を創設したのはほかならぬ菊池寛である。その菊池寛への憤激が芥川の自殺の原因だったとか、芥川が「共産主義の南下」を日本の危機と見ていたとか――もはや日本近代文学史を大きく塗り替える革命的珍説としか言えないが、根拠はまったく示されてはいない。

 言うまでもなく、「もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである」という一文に、平均的なリテラシーのある読者はふつう、「皮肉」を読む。工藤は「私は嘘つきだ」という人に出会ったら、彼のことを素直に「嘘つきだ」と思い込むのであろうか。

 

「なかった」が引用しなかった部分を太字にしてみたが、見ればなぜその部分を引用できなかったかは明白だろう。またこれは、「真実」「なかった」が常習的に行っている恣意的引用、省略部分の存在を示さずにカットしてつなぎ合わせる手法[2]の一例ともなっている。

 

「なかった」はさらに、「路上で」の帯にも文句をつける。

 

 さらに、同書『九月、東京の路上で』のオビ惹句は次のようになっている。

 

朝鮮人あまた殺されその血百里の間に連なれり われ怒りて視る、何の惨虐ぞ  萩原朔太郎

 

 著者は朔太郎のこの一文を見つけてさぞ小躍りしたことだろうが、それは早とちりというものだ。

 たしかに萩原朔太郎全集(筑摩書房刊、第三巻)で、同文は「近日所感」と題されて掲載されている。だが、萩原朔太郎は「事件」そのものを見たわけでも調査したわけでもない。

 彼は当時、群馬県前橋市に住んでいたが、東京の親戚を見舞うため徒歩で中山道を上る際に耳にした噂話を、散文詩として雑誌(大正十三年二月号『現代』に発表したに過ぎない。ノンフィクションではないことをまず断っておきたい。

 あたかも目撃し、流血を見たかにように書いてあるのはすべて詩人の想像の領域である。

 

確かに、萩原朔太郎は「事件」を目撃してはいない。しかし、それを言うなら、芥川龍之介も、谷崎潤一郎(「なかった」P.54-56)も、別に何かを見たわけではない。見事なブーメランである。

 

そして、「真実」「なかった」は、もう一人の、震災を体験した大事な作家のことを書き漏らしている。志賀直哉である。

志賀はその日、京都粟田口の自宅近くで震災を知った。列車で帰京の途中だった父と、麻布にある父の家が心配になった志賀は、翌日自ら東京に向かう。そして、このときの体験を「震災見舞」[3]という文章にまとめている。

 

 震災見舞

 

 九月一日、午後、電柱に貼られた号外で関東地方の震災を知る。東海道汽車不通とあるに、その朝特急で帰京の途についた父の上が気にかかる。列車へ電報をうつ為、七条京都駅へ行く。

 もう列車には居られますまい。案内所の人に云はれ、日暮れて粟田へ帰る。

 それ程の事とも思はず寝る。

 翌朝、家人に覚され、号外を見せられる。思ひの外の惨害に驚く。麻布の家、心配になる。父の留守女ばかり故一層気にかかる。

(略)

 信越線廻りで川口町まで汽車通ずる由、H君聴いて来る。H君は一度山科へ帰り、途中の食料を用意し、停車場で再び落ち合ふ事にして別れる。

(略)

 T君に送られ、三時何分の列車にてたつ、客車の内、込まず、平日に変りなし、窓外の風物如何にも平和。瀬田の鉄橋を渡る時、下に五六人の子供、半身水に浸って魚漁りをしてゐる。

 伊吹山

 やがて名古屋に着く。名古屋に来り初めて幾らか震災の余波を見るやうに思ふ。停車場は一杯の人だつた。

(略)

 八時四十分、臨時川口町直行と云ふに乗る。旧式な三等車の窓際に陣取ったが後から後から乗つて来る人で箱は直ぐ一杯になつた。皆東京へ行く人だ。名古屋を中央線で出端れようとする辺に新式な公園があり、其所の音楽堂のイルミネーションが此場合何となく気持に適はなかつた。

 短いトンネルを幾つとなく抜け、木曽川について登る。

 塩尻でも、松本でも、篠ノ井でも、下車して次の列車を待って呉れと云はれる。然し乗客達は直行を引返す法はないと承知しなかつた。その度、長い間、愚図々々と待たした揚句汽車はいやいやさうに又進んで行く。

(略)

 かう云ふ場合、現場に近づき確な情報を得るに従ひ事実は新聞記事より小さいのが普通だのに、今度ばかりは反対だ、それが不安でかなはぬと云ふ人があった。

 汽車は停まつて二時間半余りになるが却々出さうにない。吾々は京都を出て一昼夜になる。

(略)

 軽井沢、日の暮。駅では乗客に氷の接待をしてゐた。東京では××(鮮人)が××(爆弾)を持って暴れ廻ってゐるといふやうな噂を聞く。が自分は信じなかつた。

 松井田で、××(巡査?)二三人に野次馬十人余りで一人の××(鮮人)を追ひかけるのを見た。

 「×(殺)した」 直ぐ引返して来た一人が車窓の下でこんなにいつたが、余りに簡単過ぎた。今もそれは半信半疑だ。

 高崎では一体の空気が甚しく険しく、××(朝鮮)人を七八人連れて行くのを見る。救護の人々活動す。すれ違ひの汽車は避難の人々で一杯。屋根まで居る。

 駅毎高張提灯をたて、青年団在郷軍人などいふ連中救護につとむ。

(略)

 四日午前二時半漸く川口駅着。夜警の町を行く。所々に倒れた家を見る。

(略)

 日暮里下車。少し線路を歩き、或処から谷中へ入る。往来の塀といふ塀に立退先、探ね人の貼紙が一杯に貼つてある。所々に関所をかまへ、通行人の監視をしてゐる。日本刀をさした者、錆刀を抜身のまま引きずつて行く者等あり。何となく殺気立つてゐる。

(略)

 上野公園は避難の人々で一杯だつた。上野の森に火がつき避難民全滅といふやうな噂を高崎辺で聴いたが嘘だつた。避難小屋の間を抜けて行くとすえ臭い変な匂ひがした。

 交番の傍に人だかりがしてゐる。人の肩越しに覗くと幾つかの死体が並べてあり、自分は女の萎びた乳房だけをチラリと見てやめる。

(略)

 山から見た市中は聴いてゐた通り一面の焼野原だった。見渡すかぎり焼跡である。自分はそれを眺める事で心に強いショックを受けるよりも、何となく洞うつろな気持で只ぼんやりと眺めて居た。酸鼻の極、そんな感じでは来なかつた。焼けつつある最中、眼の前に死人の山を築くのを見たら知らない。然しそれにしろ、恐らく人の神経は不断とは変つて了つてゐるに違ひない。それでなければやりきれる事ではないと自分は後で思つた。それが神経の安全弁だと思つた。此安全弁なしに不断の感じ方で、真正面まともに感じたら、人間は気違ひになるだらう。入りきれない水を無理に袋に入れようとするやうなものだ。袋は破裂しないわけに行かぬ。安全弁があり、それから溢れるので袋は破れず、人は気違ひにならずに済む。

(略)

 ニコライ堂は塔が倒れ、あのいい色をした屋根のお椀がなくなって居た。

 神田橋はくの字なりに垂れ下がつて渡れない、傍の水道を包んだ木管の橋を用心しいしい渡る。

 二昼夜の旅と空腹で自分は可成り疲れて居る。所々で休み、魔法瓶の湯を呑む。

 そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけ休んでゐる時だつた。丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者が落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。

「――叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかつたのがある――」刺子の若者が得意気にいった。「――××(鮮人)が裏へ廻つたてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけるとそれが××(鮮人)でねえんだ」刺子の若者は自分に気を兼ね一寸此方を見、言葉を切つたが、直ぐ続けた「然しかう云ふ時でもなけりやあ人間は××(殺せ)ねえと思つたから、到頭やつちやつたよ」二人は笑ってゐる。ひどい奴だとは思つたが、不断左う思ふよりは自分も気楽な気持でゐた。

(略)

 麻布の家は土塀石塀等は壊れたが、人も家も全く無事だつた。(略)

 父は清水から汽船で前日横浜に上陸し、(略)川崎の労働者の家の框かまちに一夜を過し、翌朝漸く俥を得て帰つて来たと云つた。(略)

 夕方、柳が兼子さんと共に見舞ひに来てくれる。柳の家も無事、(後で房州にゐる兄さんの不幸を知る)兼子さんの実家も無事といふ事だった。二人の帰りを送りがてら一緒に出る。柳が×××(朝鮮人)に似てゐるからと離れる事を兼子さん気にする。

(略)

 ××(鮮人)騒ぎの噂却々なかなか烈しく、この騒ぎ関西にも伝染されては困ると思つた。なるべく早く帰洛する事にする。一般市民が××(鮮人)の噂を恐れながら、一方同情もしてゐる事、戒厳司令部や警察の掲示が×××(朝鮮人)に対して不穏な行ひをするなといふ風に出てゐる事などを知らせ、幾分でも起るべき不快な事を避ける事が出来れば幸だと考えた。左ういふ事を柳にも書いて貰ふ為、Kさんに柳の所へいつて貰ふ。

(略)

 

志賀直哉は、虐殺場面を直接目撃こそしていないものの、日本人でさえ「勢い」で殺されかねなかった当時の殺伐とした雰囲気や、過酷な体験の連続によって鈍麻してしまう精神の有り様をよく伝えている。これこそノンフィクションである。

「真実」「なかった」はなぜこれを取り上げないのか。

 

[1] 芥川龍之介 「大正十二年九月一日の大震に際して」 青空文庫

[2] 工藤美代子/加藤康男「虐殺否定本」を検証する トリックその4

[3] 谷川徹三編 『現代叢書31 志賀直哉の作品 上巻』 三笠書房 1942年 P.228-239

 

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