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関東大震災時の朝鮮人虐殺 -- あまりにも無残な一例

関東大震災時の朝鮮人虐殺には、無残な事例がいくらでも見つかるのだが、中でも『横浜市震災誌』に記録されたこの一例[1]は、あまりにもむごい。無残とも、理不尽とも、形容する言葉が見つからない。

遭難と人心騒擾に関する実見記     中島徳四郎

 

 私は大地震の時は恰度ちょうど用事があつて外出し、自宅の下の境の谷停留所にて電車に乗り、発車すると、此この大地震、夫れも乗客が先を争ふて飛び出るので、婦人や子供等に静に出なさいと注意して自分も下車して、其附近を眺めると、石垣は破壊せられ、土堤は崩れる、家屋は倒壊する、土地は四五尺の幅に亀裂し、樹木は倒れる、自分も地震の中を狼狽しながら廻り道を辿って自宅の脇に帰って恐ろしい事もあったと、ふと前を見ると、隣家の土蔵はこなこなに破壊せられて居る。二階家は屋根の瓦が落ちて、酷く破壊せられて居る。隣接地の神奈川県立第一横浜中学校は、校舎の大部分が破壊せられて居るので、驚きながら自分の家を見ると、土地は三尺以上も地辷りして、家は斜に傾いて居る。屋根の瓦も余程落ちて居るので、二度吃驚、急に家に近寄って見ると、玄関の戸も動かないので、中に入ることもならず、裏の方にと庭門に廻ると、家内も子供も庭先きの小高い所に避難して居るので、まあ無事であつたかと悦んで、心も漸ようやく我に帰つて、周囲を見ると、自宅よりも一段小高い處の瓦家数戸は目茶々々に潰れて、而も崖と共に下に落ちて、其下の亜鉛葺数軒を圧潰して居る。(略)

 遠く横浜全市街を眺めると、此処彼処に火災が起つて、其燃る恐ろしい天を焦す火焔が、終日終夜見えた。就中なかんずく神奈川のスタンダード石油会社のタンクに火が移つた時は、其の火焔の恐ろしさは何とも譬へ様がない。直径何十間と言ふ火柱が何千尺と高く樹てられた様に見えた。又其の光明は何里四方にまで反射したのであらうか。また終日終夜の火焔で横浜の空は全く黒煙がみなぎつて、翌朝になつても太陽が見えぬ、暗夜の様であつた。

(略)

 地震や火災に驚いて居るさへ沢山なのに、其上掠奪に苦められると言ふ有様、何と云ふ不幸の事であるかと思ふた。又朝鮮人が井戸に劇薬を投じたり、爆裂弾を投じて放火したり内地人を強姦したり、あらゆる暴行を為しつつあり、其れ故郡部の方では、専ら警戒を努めて居るとの事を耳にしたが、間もなく其方面から「今朝鮮人が百五十名程、ピストルを携へて内地人を襲撃せんとして比坂下に押し寄せた。内地人にして十五歳以上の男子は武器を持つて、之を撃退せしめらるべし。女子は学校運動場内に避難せらるべし」との警報があつたので避難民は忽ち顔の色を変へて手に手に棒や短刀や鉄棒やを携へて応戦の準備に忙しかつた。運悪く自分の家は、肘掛け窓の鉄棒を二十本程抜き去られた。自分達は其時より自警をする事となった。

 中学校運動場の坂上では朝鮮人に応戦して朝鮮人を銃殺せりとの報があつた。又時々喇叭らっぱで集まれの号令を為すあり、又何れよりか朝鮮人が捕縛され、巡査に護送せられ、中学校へ来るのが沢山ある。

 再び「甲府連隊は、今神奈川に到着したるも、比山に到着する迄には、尚約三時間を要すべし。諸君は其間厳重に警戒を努められたし。」との警報が来た。

 毎夜付近を警戒し、日没後通行する者は何人たるとを問はず、誰何すいかする。答弁の怪しき者は、直ただちに一刀の下に切り殺すと云ふ物騒の社会に化した。全く戦地にあるが如くに感じた。

 在郷軍人は要所々々に剣銃で警戒して居る。自宅は四五間先の中学校裏門にて、在郷軍人が四五人宛常に警戒して居る。日没後自宅の庭先の大松の小陰より出でて、中学校裏門へ差し掛る者があるので在郷軍人が誰何して、原籍を問ふと、山梨県と言ふたが郡名村名が言へぬので、直に一刀を腰部へ浴せて、深さ一寸幅五寸骨膜に達する痛手を負ふて、血汐は周囲へ飛散した。被害者は其儘倒れて居つた。幾千人となく通行する人が之を見るので、被害者は着衣の単衣で顔を匿かくしたが、朝鮮人が殺されて居るので、之を見る為、集まる者も少くない。中には「貴様等の心得違ひから、我々は此この難儀をする」とて蹴つたり打つたりする者もある。其後三四日を経て雨が降つたので、避難民も一層殺気立ち、通行者の一人が、日本刀で数箇所切り付けた。又連れの一人は鉄棒で打つて打つて打擲ちょうちゃくし、其上顔の姿が判らぬ様に、こなごなにしたが、負傷者は死にきれず、其夜は八時頃、雨で人足絶えたので、其場より十四五間も離れたる当家の庭先の土手へ匍匐はいつくばつて来たので、避難者が見て終ついに之を打殺した。死体は約一箇月も其儘放棄せられてあつたのは実に困つた。人は病気に罹つたり、怪我をしたりすると、生命は誠に脆い様だが、急所が外れるとなかなか強い様に思はれる。


自警団の誰何にうまく答えられなかったこの人は、いきなり腹を斬られて重傷を負い、倒れたままその場に放置された。そしてその後何日もの間、通行人や野次馬によって好き勝手にいたぶられる。刀で何箇所も切られ、顔形が分からなくなるまで鉄棒で殴られる。人通りが絶えたのを機に、雨の降る中、何十メートルも這って逃げようとしたが、とうとう見つかって止めを刺された。どれほどの恐怖と苦痛だっただろうか。

しかもこの被害者に対する筆者の感想が、「死体が放置されていて困った」「人間は急所が外れるとなかなか死なない」である。まるで動物以下の扱いだ。

日本人は、父祖たちが犯したこの罪から目をそらしてはならない。

 

[1] 横浜市役所市史編纂係 『横浜市震災誌』 第五冊 1927年 P.590-596

 

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