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初期の近畿天皇家では兄弟殺しの簒奪事件が続発した(その4)

安康(20代)―> 雄略(21代)

セックススキャンダルで兄の木梨之軽王を葬って大王となった穴穂(安康)だが、この男はその後、あっさり殺されてしまう。古事記の説話の中でも特に印象深いものの一つ、「目弱まよわ王の変」である。


前回も書いたが、男浅津間若子宿禰(允恭)を父、忍坂大中津比売を母とする兄弟姉妹は、穴穂を含め9人いた。

  • 木梨之軽王(キナシノカルノミコ)
  • 長田大郎女(ナガタノオホイラツメ 紀:名形大娘)
  • 境黒日子王(サカイノクロヒコノミコ 紀:境黒彦)
  • 穴穗命(アナホノミコ)=安康(20代)
  • 軽大郎女(カルノオホイラツメ)
  • 八瓜之白日子王(ヤツリノシロヒコノミコ 紀:八釣白彦)
  • 大長谷命(オホハツセノミコ 紀:大泊瀬稚武)=雄略(21代)
  • 橘大郎女(タチバナノオホイラツメ 紀:但馬橘大娘)
  • 酒見郎女(サカミノイラツメ)

穴穂が即位した時点で軽王と軽大郎女は死に追いやられており、残りは7名である。


即位した穴穂(安康)は、まず大雀(仁徳)の子の一人だった大日下王(オホクサカノミコ 紀:大草香)を殺してしまう。

古事記 安康記:

 天皇、同母弟いろせ大長谷王子のために、坂本臣等が祖根臣ねのおみを、大日下王のもとに遣して、詔らしめたまひしくは、「汝が命の妹若日下わかくさか王を、大長谷王子に婚はせむとす。かれ貢るべし」とのりたまひき。ここに大日下王四たび拝みて白さく、「けだしかかる大命おほみこともあらむと疑おそりて、かれ、外にも出さずて置きつ。こは恐かしこし。大命のまにまに奉進たてまつらむ」とまをしたまひき。然れども言こともちて白す(言葉だけで返答する)事は、それ礼ゐやなしと思ひて、すなはちその妹の礼物ゐやしろ(礼儀を表す贈り物)として、押木の玉縵たまかづら(根臣に)持たしめて、貢献たてまつりき。根臣すなはちその礼物の玉縵を盗み取りて、大日下王を讒よこしまつりて(讒言して)曰さく、「大日下王は勅命を受けたまはずて、おのが妹や、等し族うがら(同格の相手)の下席したむしろにならむ(使い女にさせるものか)といひて、横刀たちの手上たがみ取りて、怒りましつ」とまをしき。かれ天皇いたく怨みまして、大日下王を殺して、その王の嫡妻むかひめ長田大郎女*1を取り持ち来て、皇后としたまひき


この説話で明らかにおかしいのが末尾の部分だ。臣下の虚言を信じて大日下を殺してしまったというお粗末はともかく、大日下の妹を弟の妻にしようとしてのいざこざの結果、なぜ殺した大日下の妻を「取り持ち来て」自分の妻にする必要があるのか。古田武彦氏はこう分析する[1]。

 むしろ、次のように考えてみよう。安康の真の目的は、はじめから「大日下王の妻を得る」ことにあったと。こう考えると、一種の混乱と矛盾に満ちたこの説話も、一転して、その筋がハッキリと見えてくる。つまり、安康は、大日下王の妻の長田大郎女に執心した。その目的をとげるため、ことにかこつけて大日下王を殺してしまった。こういうことだ。

 根臣の虚言問題は、この大日下王殺しが、安康の責任ではなく、根臣のふらちにあやまられたせいだ、そのように告げたいための作り物の話だ。

 安康記は、兄の安康の仇を討つことを大義名分として挙兵した雄略(第21代)、およびその子(清寧、第22代)の頃作られた。――そのような立場に立てば以上の経緯はきわめて分りやすい。


この、殺された大日下王と長田大郎女との間の子が目弱王である。説話では、当時まだ7歳だった目弱王が安康を殺している。

 これより後に、天皇神牀かむとこにましまして、昼寝したまひき。ここにその后に語らひて、「汝いまし思ほすことありや」とのりたまひければ、答へて白さく「天皇おほきみの敦あつき沢めぐみを被りて、何か思ふことあらむ」とまをしたまひき。ここにその大后の先の子目弱王、これ年七歳になりしが、この王、その時に当りて、その殿の下に遊べり。ここに天皇、その少わかき王の殿の下に遊べることを知らしめさずて、大后に詔りたまはく、「吾は恒つねに思ほすことあり。何ぞといへぼ、汝の子目弱王、人と成りたらむ時(成長したとき)、吾がその父王を殺せしことを知らぱ、還りて邪きたなき心あらむか(自分を憎むのではないか)」とのりたまひき。ここにその殿の下に遊べる目弱王、この言を聞き取りて、すなはち竊ひそかに天皇の御寝ませるを伺ひて、その傍かたへなる大刀を取りて、その天皇の頸を打ち斬りまつりて、都夫良つぶら意富美おほみ(大臣)が家に逃れ入りましき。

 

そして、安康が殺されたことを知った大長谷(雄略)が挙兵して目弱王を殺すのだが、この男は「仇」である目弱王だけでなく、自分の二人の兄、黒日子・白日子まで殺してしまう。しかも、殺した理由は滅茶苦茶としか言いようがない。ちなみに、安康は子を残さずに死んだため、この二人も次の大王となりうる候補者だったはずである。

 ここに大長谷王、当時童男をぐな(少年)にましけるが、すなはちこの事を聞かして、慷愾うれた(嘆き)忿怒いかりまして、その兄黒日子王のもとに到りて、「人ありて天皇を取りまつれり。いかにかもせむ(どうしましょう)」とまをしたまひき。然れどもその黒日子王、驚かずて、怠緩おほろかにおもほせり(なおざりな態度だった)。ここに大長谷の王、その兄を罵りて、「一つには天皇にまし、一つには兄弟にますを、何ぞは恃たのもしき心もなく、その兄を殺りまつれることを聞きつつ、驚きもせずて、怠にませる」といひて、その衿を握りて控き出でて、刀を抜きて打ち殺したまひき。またその兄白日子の王に到りまして、状ありさまを告げまをしたまひしに、前のごと緩おほろかに思ほししかぱ、黒日子王のごと、すなはちその衿を握りて、引き率て、小治田おはりだに来到きたりて、穴を掘りて、立ちながらに埋みしかぱ、腰を埋む時に到りて、両つの目、走り抜けて死せたまひき。

 また軍を興して、都夫良意美が家を囲みたまひき。ここに軍を興して待ち戦ひて、射出づる矢葦の如く来散りき。(略)ここに都夫良意美、この詔命おほみことを聞きて、みづからまゐ出て、凧ける兵つはもの(武装)を解きて、八度拝みて、白しつらくは、「(略)往古むかしより今時いまに至るまで、臣連(臣下)の、王の宮に隠ることは聞けど、王子みこの臣の家に隠りませることはいまだ聞かず。ここを以ちて思ふに、賎奴やっこ意富美は、力を竭つくして戦ふとも、更にえ勝つましじ(勝てないだろう)。然れどもおのれを恃たのみて、陋いやしき家に入りませる王子は、死ぬとも棄てまつらじ」とかく白して、またその兵を取りて、還り入りて戦ひき。

 ここに力窮まり、矢も尽きしかば、その王子に白さく、「僕は手悉いたでひぬ。矢も尽きぬ。今はえ戦はじ。如何にせむ」とまをししかぱ、その王子答へて詔りたまはく、「然らば更にせむ術すべなし。今は吾を殺せよ」とのりたまひき。かれ刀もちてその王子を刺し殺せまつりて、すなはちおのが頚を切りて死にき。


以下が古田武彦氏による謎解きである[2]。

 (二)問題の目弱王の乱。生き生きと語られ、一読、印象鮮明な、否、一度聞いたら忘れられぬ話だ。だが、考えてみると不審だらけだ。

 第一、この安康の昼寝語りを誰がこの語り手に伝えたのだろう。語った安康は、殺されてしまった。御殿の下で聞いた目弱王も、死んでしまった。では、母の長田大郎女だろうか。彼女の行方は、説話では語られていない。しかし、母親が子供の犯行の背景を、とくとくと他に語るものだろうか。

 第二、それ以上に、肝心の目弱王の犯行、それ自身本当だろうか。一体、それを誰が見たのか。殺した者も、殺された者も、すでにいない。そしてその犯行は、二人以外に誰もいないところで行われたはずなのだ。

 要するに、別個の誰かが、そう判断し、その判断を噂として流布させた。そういう流布させた誰かがいたこと、これは疑えない。それが真相かどうか、誰もすでに知りえないのである。

(略)

以上の矛盾と不審、これを解くために、ことの筋道を順序立てて列記してみよう。

 (一)安康はある日、誰かに殺された。

 (二)それは「あの目弱王に殺されたのだ」という噂が誰かによって流された。

 (三)目弱王は、危険を感じ、守り手(乳母の家などか)の都夫良意美の家へ逃れた(もちろん、王の側近者の導きによるものであろう)。

 (四)大長谷王(雄略)は「兄の安康天皇の仇を討つため」という大義名分をかかげて挙兵した。

 (五)しかし、二人の兄(黒日子王・白日子王)はそれに同調しなかった。

 (六)大長谷王はまず、この二人の兄を殺してしまった。

 (七)次いで、大長谷王は、都夫良意美の家を囲み、目弱王と共に、これを斃った。

 (八)そのあと、大長谷王は王位(天皇位)に即位した。雄略(第21代)である。

 (九)その雄略(もしくは第22代清寧)の治世に、先にあげた形の説話が作られ、公布された。

 リアルな事実の進行は以上のようであったとわたしには思われる。一連の異常事の成果を手にした者、それが雄略天皇その人であったこと、それを疑うことは誰人にもできないのではあるまいか。


大長谷(雄略)が即位した時点では、かつて9人いた兄弟姉妹はもう4人しかいなくなっていた。しかも、生き残った男子は大長谷ただ一人である。

  • 木梨之軽王(キナシノカルノミコ)
  • 長田大郎女(ナガタノオホイラツメ 紀:名形大娘)
  • 境黒日子王(サカイノクロヒコノミコ 紀:境黒彦)
  • 穴穗命(アナホノミコ)=安康(20代)
  • 軽大郎女(カルノオホイラツメ)
  • 八瓜之白日子王(ヤツリノシロヒコノミコ 紀:八釣白彦)
  • 大長谷命(オホハツセノミコ 紀:大泊瀬稚武)=雄略(21代)
  • 橘大郎女(タチバナノオホイラツメ 紀:但馬橘大娘)
  • 酒見郎女(サカミノイラツメ)


その後の経緯を簡単にまとめると、雄略の後は順当に息子の清寧(22代)が継いだが、清寧には子がなかった。そこで、以前雄略が(またしても)殺してしまった市辺忍歯王(イチノベノオシハノミコ)の遺児である顕宗(23代)と仁賢(24代)を迎え、この二人が順に大王となった。ちなみに、市辺忍歯は履中(17代)の長子であり、墨江之中津の「反逆」事件がなければ恐らく大王となっていたはずの人物である。

仁賢の息子が武烈(25代)で、この武烈にも子がなく、武烈が死ぬと、三国(福井県)から進出してきた大豪族袁本杼(オホド:継体)に国を奪われてしまう

こうして、応神から始まった王朝は、肉親間の殺し合いを繰り返したあげく、11代で滅んだ。大王の代数としては11代だが、世代数で数えると7代である。継続年数はざっと200年といったところか。


*1:履中の娘の一人と思われる。同名の穴穂の姉とは別人。
[1] 古田武彦 『古代は輝いていた 2』 朝日新聞社 1985年 P.282
[2] 同 P.282-283

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。

 

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