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マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

通州事件のユネスコ記憶遺産登録というオウンゴールを目指す「つくる会」

歴史認識

ユネスコ記憶遺産(Memory of the World)に南京大虐殺関連文書が登録されたのが悔しくてたまらない「つくる会」が、対抗して通州事件の資料を登録申請するらしい。

産経ニュース(12/11):

通州事件ユネスコ記憶遺産に申請へ つくる会「世界に知ってほしい」 中国人部隊の邦人200人殺害

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に中国の「南京大虐殺文書」が登録された問題で、「新しい歴史教科書をつくる会」(高池勝彦会長)は11日、2017年の記憶遺産登録を目指し、日中戦争の発端となった盧溝橋事件直後に200人以上の日本人が中国側に殺害された「通州事件」の資料をユネスコに申請すると発表した。

 通州事件は1937年7月29日、北京東方の通州で日本人が中国人部隊に襲われた事件。申請する資料は、東京裁判に提出された証言や外務省の抗議声明などの公的文書のほか、当時の新聞の号外なども予定している。同会は「通州事件が忘れられている現状を意識的に変えなければならない。広く世界に知ってほしい」と訴えている。

(略)

面白いのはこの動きを報じた産経の見出しだ。同じネット記事が何度か魚拓を取られているのだが、12月12日と16日との間のどこかの時点で、見出しの文言が差し替えられているのである。

  
産経がこっそり差し替えたように、通州事件を起こしたのは国民党軍でもなければ共産党軍でもなく、これを中国軍とは呼べない。ではどこの軍隊か? やったのは、日本が華北分離工作の一環として作った傀儡地方政権「冀東防共自治政府」[1]の保安隊である。

土肥原奉天特務機関長は、チャハル省から河北省に移ってきた宋哲元に華北五省の自治政府樹立を迫り、国民政府の懸命の切り崩しに出会うと、まず11月24日、早稲田大学出身で日本人の妻をもつ親日政治家の殷汝耕に通州で自治宣言を発表させ、25日塘沽停戦協定の非武装地帯を区域とする冀東防共自治委員会を発足させた(12月25日冀東防共自治政府と改称。なお“翼”は河北省を指す)。これにたいし国民政府は、なかばは日本に押されて、なかばは日本に口実をあたえないための先手として、12月18日河北・チャハル両省を管轄する翼察政務委員会(“察”はチャハル省を指す)を北平につくり、宋哲元を委員長に任命した。こうして6月の二つの協定につづき、35年末の二つの政治機構の出現で、日本による華北分離はいちだんと進行した。

  
この冀東防共自治政府の役割は、密輸と麻薬という手段で中国を弱体化(毒化)させることだった[2]。

 1935年(昭和10)末に冀東・冀察の二つの政権が作られると、日本の資本と商品は華北になだれを打つように進出した。(略)これは、政府への大規模な借款という米英の投資の仕方と異なり、中国の商工業と競合し、それを圧迫するものであったから、中国の民族資本家を抗日へ押しやる結果を招いた。

 35年末から冀東での密貿易が盛んとなったが、36年2月、冀東政権は関東軍の指導のもとにこれを冀東特殊貿易として公認し、国民政府の定める関税率の七分の一ないし四分の一という低率の査験料(輸入税)を設定した。日本商品は冀東に殺到し、満鉄調査部の表現によれば、冀東から「怒涛の如く支那各地に迸出はいしゅつし、今や遠く上海方面まで南下し、支那市場に一大衝動を与ふるに至」った。国民政府の関税収入は大打撃をうけ、市場を奪われた中国の商工業者はますます抗日へ傾いた。

 冀東特殊貿易は、アヘンや麻薬の密輸・密売をともなうことで、いっそう犯罪的性格を帯びた。その実態を示すような日本側の資料はほとんど完全に隠滅されてしまったが、中国人の作家林語堂の小説“Moment of Peking”(1939年、佐藤亮一訳『北京好日』)が、冀東密貿易と麻薬をめぐる日本の犯罪を生々しく描き、告発している。日本人は麻薬入りのゴールデンバット(たばこ)を売りつけ、さらに天津の日本租界内の中国人学校のそばで麻薬入りのキャンデーまで売ったという。

 “軍用品”とか“日本軍司令部行き”とかの荷物はしばしばモルヒネかヘロインであった。(略)

その上、この密貿易による利益は大半が日本軍に吸い上げられ、更なる中国侵略工作の資金として使われた[3]。

 冀東政府顧問宮脇賢之助によれば査験料収入は3月から8月まで計545万元であったが本収入はすべて通州特務機関の監督のもとに置かれ、200万元は内蒙工作、200万元は保安隊費用として使われ、殷汝耕には機密費20万元が渡されたのみという。いずれにせよ特務機関を中心に杜撰な支出が行なわれたのは間違いない。

当然、現地住民の日本軍・日本人への恨みは深かった。冀東政府配下の保安隊にしても、侵略者の手先として同胞弾圧の道具に使われることへの内心の反発は強かっただろう。保安隊幹部の一人張慶余は、息子たちから利敵行為をなじられ、父子の関係を断つとまで言われていた[4]。
 
通州事件は、こうした背景のもと、盧溝橋事件をきっかけに日本が中国に対して全面戦争を仕掛けるという状況下で起きた。もちろんどのような理由があろうと民間人の集団虐殺や非人道的行為は許されることではないが、これはそもそも日本による中国侵略の過程において、中国国内、それも侵略の拠点となっていた場所で起きた事件であり、中国軍が日本に侵攻してきて、たとえば九州のどこかの町で住民を集団虐殺した、といった事件ではないのである。南京大虐殺と対比させたり、これを相殺するために使えるような事件ではない[5]。虐殺規模自体にも数百倍もの差がある。

 (注:1937年7月)その翌29日から30日にかけて通州事件が発生した。冀東政権の所在地の通州で、日本軍に育成されてきた通州保安隊が反乱を起こし、日本軍守備隊・特殊機関さらに一般居留民を襲い、学生らの群衆も加わって、無差別の虐殺と略奪をおこなった。日本側の犠牲者数は、守備隊の戦死18・戦傷19、特務機関の戦死9、居留民については385名中の223名という数字と、日本人104名・朝鮮人108名(「大多数は阿片密売者及醜業婦」)という記録とが残されている。反乱の原因は、日本軍機による誤爆への憤激であるというのが日本での一般的見解であるが、近年の中国では意図的な抗日の決起とみなす文献があり、前出の『中国版 対日戦争史録』は「日本軍の侵略行為に激怒した通県……の保安隊は、日本のかいらい政権を倒し、日本特務機関をせん滅した」と記述している。

実際には、大戦末期のソ連軍侵攻に伴うものを除けば、日中戦争の全期間を通して見ても、日本人の側が集団虐殺の被害にあったというのは、この通州事件と済南事件(規模はさらに小さい)くらいしか見当たらない。これは客観的に見て、驚くほどの少なさである。
 
ちなみに、この通州事件に関連して、こんなエピソードがある[6]。

ある日本人通訳

 大隊本部に日本人のYという通訳がいました。この人は通州事件(中国の保安隊が日本人居留民多数を殺害した事件)で自分の親が中国人に殺されたか何かされたらしく、「仇をとるために千人斬りをやるんだ」と言っていました。

 道が分からないようになると、道案内をつけます。夜中、皆が寝静まった頃、住民を誰か一人たたき起こして、服を着るヒマも与えないまま、有無を言わさず連れてくるんです。それで、翌日まで道案内させ、用が終わると帰します。安心しきって帰りかける、その後ろから、その通訳が刀で斬りつけます。そこが山の稜線であれば、切り落とした首もろとも谷に突き落としてしまう。私は彼がそれをやるのを二、三度見ました。周りの仲間たちはその度に「またやったか」と言っていました。彼が全部で何人斬ったかは分かりませんが、終戦の頃に「そろそろ目標を達成しそうだ」と言っていました。四五大隊の本部としてははじめから相当作戦をしているわけで、その度にそのY通訳は一つの作戦で二・三人は殺してるわけです。

千人はオーバーだとしても、下手をすればこの「Y通訳」一人で通州事件の被害者数並みの殺戮を行っているのではないだろうか。そして当時の日本軍には、中国に対する憎悪と敵愾心を煽られた、無数の「Y通訳」がいたのである。
 
通州事件の記憶遺産への登録は、やれるものならやってみればいい。「つくる会」や安倍政権はこれを「中国人の残虐性」を宣伝する材料として最大限に利用したいのだろうが、日本以外の国際社会に対しては、日本による中国侵略の実態をさらに詳細に知らせる結果にしかならないだろう。

[1] 江口圭一 『昭和の歴史(4) 十五年戦争の開幕』 小学館 1988年 P.358
[2] 同 P.389-390
[3] 臼井勝美 『新版 日中戦争』 中公新書 2000年 P.44-45
[4] 武月星他著、山辺悠喜子訳編 『盧溝橋事件風雲篇』 季刊中帰連 9(1999年6月)号 P.39
[5] 江口圭一 『盧溝橋事件と通州事件の評価をめぐって』 戦争責任研究 25(1999年秋季)号 P.4-5
[6] 坂倉清 『私の兵士時代の加害行為』 季刊中帰連 19(2001年12月)号 P.31-32
 

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