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画像で見る「神武天皇陵」でっち上げの経緯

神武陵にされる前のミサンザイ

式年祭についての記事でも書いたように、現在の「神武天皇陵」は、幕末の文久2(1862)年、恐らく神武の埋葬地ではない「ミサンザイ」に決定された。その後、明治から昭和にかけて、このミサンザイは巨大で荘厳な「天皇陵」に作り変えられていくことになる。

まず、この地が神武陵に比定される前はどうだったか。「文久の修築」前の状態を示す絵図が残っている[1]。

当時のミサンザイは、田圃の中の小さな塚に過ぎない。そこには榎一本と茨のような灌木が一株生えていた[2]。ちなみに、旧洞村の古老の話によると、ここはもともと糞田(くそだ)と呼ばれており、牛馬の処理場だったかも知れない[3]、という。

「文久の修築」による変貌

これが、15,062両(現在の価値に換算して約3億円)をかけた修築を経て、次のような姿に変貌する[4]。囲われた陵域の中央に見える二つの点がミサンザイの塚である。

改変が繰り返される「神武陵」

神武陵は、その後も修築という名の改変を繰り返され、変貌を続けていく。1879(明治12)年から1907(明治40)年にかけて編纂された官製百科事典「古事類苑」には、次のような陵図[5]が掲載されている。中央奥に見えるのがもとのミサンザイだが、盛り土と石垣で八角形に固められ、もはや原形をとどめていない。

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広大な森を新たに造成

大正期になると、いったん八角形に作ったこの墳形が、今度は円墳に変えられている[6]。さらに、新造したこの陵の周囲の土地を収用し、クロマツ、ヒノキ、カシなどを植えて、厳粛な雰囲気を醸し出す広大な森が新たに造成された[7]。

古田 (略)で、あの面白かったのは、紀元二千六百年の時に巨木を持って来てね全国から、植えたっていう……。

住井 そうそう、そうそう。

古田 それを、ああやって皆が感心してね。

住井 うっそうとしています。

古田 うっそうとしているから感心して、さすが神武天皇だっていうね。

住井 そうなんですよ。

古田 何言ってんだとおっしゃった話がね。

住井 時々ね、ここでまあ勉強会やるとね。ほうぼうから御婦人たち五、六十人集まって来て下さるんですよね。で、この前もここでやった。私、ここに座ったら、その辺に座ってた御婦人がね、私が神武御陵というのは新しいと言ったら、「あんなに大きな木があるんだから、そんな新しいことはない、私は現地へお参りして来ました」といってね。「あんな大きな木があるんだから、そんな新しくちゃあんなにならない」と。だから、「あんた、植えた時から大きかったんだよ」という話をしたらね、あっけにとられた顔をしてましたよ。

古田 はあ、私もあれ読んでびっくりしました。私なんかも行ってね、はじめから、まあ大きいけれども新しい、ああいう大きな木が元々から生えている場所と違うじゃないですか、回りがね、全部ね。

住井 そうそう、そう。

古田 そういうずうっと原野の中にあればね、そりゃ元からと思いますけど、あんな所にあるの、もうあとから植えたに決まってると思うて、こっちは始めから見ておりましたがね。ところが、結構世の中には今おっしゃったように……。

住井 だまされる。

古田 感心する人もおるんですねえ。

住井 九割九分はだまされる。

演出される「神秘」「荘厳」

この上に、もとはただの田圃だったこの土地を神秘的に見せるための演出が加えられる[7]。

林 この前僕橿原神宮駅で降りて初めて神武天皇陵の参道に入ったんですね。そしたら玉砂利を敷きつめ、あたりはすごい樹木が生い繁っている。陵の前はいかめしく柵をめぐらしていましたが、結局、あれは天皇の秘密、タブーというものを作っておいて、(略)つまりあれ完全に最初からシャットアウトするとだれも興味を持たないから、入れるところまで入れてあおっておきながら禁じるというね、その天皇制のテクニックというか、大したもんだなァと感心しました。

もちろん、天皇や皇族にここを参拝させ、それを報道させるのも演出の一環である。

 

ROAD TO JINMU

Photo by 名古屋太郎 / CC BY-SA 3.0

幕末の下級武士たちがでっち上げたペテン

もともと天皇制とは、明治政府を作った者たちが、自分たちを徳川幕府より上の存在として権威付けするために作り出したイデオロギーに過ぎない。いわゆる「勤皇の志士」たちが、天皇を「玉(ギョク)」と呼び、単なる道具と見なしていたのは有名な話である。

あなたが橿原の「神武天皇陵」を訪れ、そこに悠久の歴史や神秘を感じるなら、あなたは下克上を目指す幕末の下級武士たちがでっち上げたペテンに、いまだに騙され続けていることになる。

[1] 後藤秀穂 『皇陵史稿』 木本事務所 1913年 P.192
[2] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一新書 1994年 P.161
[3] まれびと 「おおくぼまちづくり館と洞村跡地
[4] 『天皇陵の真相』 P.162
[5] 『古事類苑』 帝王部/山陵上 P.974-975
[6] 『天皇陵の真相』 P.164
[7] 同 P.145

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