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反戦童話「かわいそうなぞう」が露呈した戦後平和教育の欠陥

児童文学作家土家由岐雄による童話『かわいそうなぞう』。1951年に発表された後、1970年に絵本として出版されて200万部を超える大ヒットを記録、小学校の教科書にも採用され、代表的な「反戦童話」「平和教材」となった。戦後生まれの日本人なら、子どもとして、またはその親として、一度は読んで涙したことがあるのではないだろうか[1]。

 そのころ、日本は、アメリカとせんそうをしていました。せんそうがだんだんはげしくなって、東京の町には、朝もばんも、ばくだんが、雨のようにおとされました。そのはくだんが、もしもどうぶつえんにおちたら、どうなることでしょう。おりがこわされて、おそろしいどうぶつたちが、町へあばれでたら、たいへんなことになります。それで、ぐんたいのめいれいで、らいおんも、とらも、ひょうも、くまもだいじゃも、どくやくをのませて、ころしたのです。

 いよいよ三とうのぞうも、ころされることになりました。まず、ジョンからはじめることになりました。

 ジョンは、じゃがいもが大すきでした。ですから、どくやくを入れたじゃがいもを、ふつうのじゃがいもにまぜてたべさせました。けれども、りこうなジョンは、どくやくのはいったじゃがいもを、長いはなで口までもっていくのですが、すぐに、ぽんぽんとなげかえしてしまうのです。

(略)

しかたなく、たべものをひとつもやらずにいますと、かわいそうに、ジョンは十七日めにしにました。

(略)

 つづいて、トンキーとワンリーのばんです。(略)

 まい日、えさをやらない日がつづきました。トンキーもワンリーも、だんだんやせほそって元気がなくなっていきました。そのうちに、げっそりとやせたかおに、あの小さな目が、ゴムまりのようにぐっととびだしてきました。耳ばかりが大きく見える、かなしいすがたにかわりました。

(略)

 ある日、トンキーとワンリーが、ひょろひょろと、からだをおこして、ぞうがかりのまえにすすみでてきました。おたがいに、ぐったりとしたからだを、せなかでもたれあって、げいとうをはじめたのです。

(略)

 ついに、ワンリーもトンキーもしにました。てつのおりにもたれ、はなを長くのばして、ばんざいのげいとうをしたまま、しんでしまいました。

(略)

 わたしたちは、ぞうのおりにかけつけました。どっと、おりの中へころがりこんで、やせたぞうのからだに、すがりつきました。ぞうのあたまを、ゆすぶりました。足やはなをなでまわしました。みんな、おいおいと、声をあげてなきだしました。

 その上を、またも、ばくだんをつんだてきのひこうきが、ゴーゴーと、東京の空にせめよせてきました。

 どの人も、ぞうにだきついたまま、

 「せんそうをやめろ!せんそうをやめてくれ!やめてくれ!」

と、心の中でさけびました。


この童話が感動的なのは、戦争中に上野動物園で多くの猛獣が「処分」されたという実話に基づいているからだが、実際の経緯とは、創作上の都合では済まされない重大な違いがある。児童文学評論家長谷川潮は、1981年に発表した評論「ぞうもかわいそう」で、この点について厳しい批判を加えている[2]。

 猛獣虐殺は、東京がほとんど連日連夜の空襲を受けるようになってから、行なわれただろうか。答えは否であり、ゆえに右のような叙述は事実の時間的経過に反する。

 東京への初空襲は、一九四二(昭和17)年四月十八日のことである。本土南方洋上の航空母艦ホーネットから進発したB-25中型爆撃機十六機のうち十三機が東京を襲い、都内六か所を爆撃した。(略)

 初空襲は一種の奇襲であり、第二回の空襲が一九四四(昭和19)年十一月二十四日に行なわれるまでの約二年半の間には、空襲はなかった。そして二回目以降に、連日連夜のような空襲になるのである。つまり、虐殺のあった一九四三年には、ただの一度も空襲はなく、ゆえに爆弾も落とされなかった。(略)

 結果的には雨のように爆弾が落とされたのだから、空襲開始後に殺したように書いても、大した違いはないと言えるだろうか。決してそうではない。実際に危険が生じているということと、危険を予測してというのでは、虐殺を必要やむを得ないものと見るか、他の手段の可能性があったのではないかと考えるか、という差を生む。つまり、虐殺の責任者が国民への義務を果たしたものとして肯定されるか、あるいはなんらかの疑いをはさまれる立場に置かれるか、の違いである。

空襲の危険が切迫していない状況下で、政府・軍部はなぜあえて猛獣虐殺※1を行わせたのか。その狙いを最初に喝破したのは、野坂昭如※2だった[3]。

 昭和十八年というと、まだ日本人は戦争に勝っているものと、信じこんでいました、いくら軍部が空襲をいい立てても、そう本気では考えず、また軍部にしても、それまで「醜敵一機だに侵入を許さず」と太鼓判押していましたから、実は敗戦が続いている実状を、今更説明しにくい。

 そこで動物を、それほどの必要もないのに、犠牲にしようと考えたのです。ライオンや象が殺されるときけば、否応なく切迫した事態に気づかざるを得ないし、また、かわいい動物殺すのも、鬼畜米英のためと、国民の憎しみをあおることもできます、みんながそのことだけを考えてくれれば、結局は、軍部の責任である敵の空襲についても、非難されなくてすむ。

猛獣虐殺を直接命令(1943年8月16日)したのは同年7月に東京都長官に任命されたばかりの内務官僚大達茂雄だが、命令の背後にあった大達の意図を、古賀忠道氏※3が次のように語っている[4]。

八月半ばのことでした。私は東京都の公園部長に呼ばれましたので,急遽行ってみると,当時園長代理をしていた福田三郎さんも一緒でした。そして今度,都長官の命令で猛獣を処分することに決定したから了承してくれとのことでした。(略)これは後に聞いたことでしたが,その頃はまだ国民は,みんな戦争には勝っていると思っていたのです。しかし都長官になる前にシンガポールつまり昭南市長をやっていた大達さんにはもうほんとうの戦況がわかっていたのでしょう。東京都長官になって内地に帰って国民の様子を見てこれではいかん,戦争はそんななまやさしいものではないのだ,ということを国民に自覚させねばならないということを痛感したのでしょう。そして大達さんはそれを言葉で言い表わすのではなく動物園の猛獣を処分するということにより国民に警告を発するという方法を取ったのでした。

猛獣とはいえ草食動物である象は、田舎に疎開させれば食べさせていくことはできる。実際、上野動物園の人々は、仙台市動物園と交渉してトンキーを疎開させる了承を得、その手続を進めていた。しかしこの計画は大達長官に一蹴される[5]。猛獣による危険の除去ではなく、殺して警告を発すること自体が目的だったからである。

仙台市動物園からはゾウのメス一頭を引き受けましょうと返事が届いた。(略)八月二三日には、仙台市動物園から技術者一名が来園し、ゾウのメス「トンキー」と、生後間もないヒョウの子を受け取ることになり、田端駅の貨物掛と鉄道輸送の打ち合わせも済ませた。このことを公園課長に連絡すると、井下課長は、了解を得ようと都長官へ報告におもむいた。すると、都長官は激怒したらしい。その日の福田さんの日記には

 「一、課長と面談、仙台へ象運搬ノコトヲ話ス。

  一、課長ヨリ電話ニテ都長官ハ中止セヨトノコトナリ、都ノ責任問題ヲ云ハルト。」

と記されている。

餓死させられた三頭の象は、それぞれ8月29日(ジョン)、9月11日(ワンリー)、9月23日(トンキー)に死亡した。しかし、ワンリーとトンキーが衰弱しながらもまだ生きていた9月4日、東京都は盛大な動物たちの「慰霊法要」を行っている[6]。

この慰霊祭は一般紙だけでなく子ども向けの新聞(「少国民新聞」など)でも大々的に報道され、戦意高揚と、動物たちを「殺させた」敵への憎悪を煽るために利用された[7]。

 法要が行なわれたこと、それに児童、生徒が参列したこと、子ども向けの新聞をも含めて大きく報道されたこと、などを総合して見れば、隠そうとするのではなく、知らせることのほうに意図があったと推定していいだろう。(略)

 ただし猛獣の死を報道するといってもそれは単に事実として客観的に伝えるのではなく、戦争への意欲をかきたてることを目的としていた。『毎日新聞」の記事の中から、その意図が露骨に示されている二、三の文章を引用しよう。

 

  都民に親しまれてゐたこれらの猛獣まで処分しなければならなくなった決戦の波が今都民の胸に強き決意をわきたたせる(リードの一部)

  あの世で永年お世話になった坊ちゃん、嬢ちゃんのため、健気にこの決戦を戦ひ抜かうとする少国民のために健やかな成長を祈るのであらう(末尾の部分)

  「空襲は必至だといふことを無言のうちに国民に知らせて死んで行ったのです」(福田園長代理のことばとして)

 

 動物園に来た多数の手紙の中には次のようなものがあったという。少年少女をも目標に包みこんだ猛獣虐殺作戦とそのプロパガンダは、みごとに成功したようである。

 

  戦いのためとは言いながら本当にかわいそうです。そしてこれらの動物達を殺させた米、英を討たねばなりません。軍人を志望している僕です。戦場でこの殉国動物の仇討をしてやりたいと思います。そうすれば、僕を喜ばしてくれた動物も喜んでくれると思います。(『実録上野動物園』から)


『かわいそうなぞう』は、事実に反して象たちの「処分」を激しい空襲下でのやむを得ない措置として描くことで、彼らを殺させ、利用した加害者の姿をきれいに消してしまった。だからこの童話の「せんそうをやめろ!」という叫びは、起こってしまった戦争による犠牲者たちの「運命」をただ悲しむだけで行き場を失い、そのような犠牲を不可避にした者たちへの責任追求には決して向かわないのである。

これは『かわいそうなぞう』だけの問題ではない。戦後日本の「平和教育」は、もっぱら戦争被害の悲惨さを描き、だから「二度と戦争をしてはいけない」と訴えるのがパターンだった。しかし、あの戦争を誰がなぜ引き起こし、その戦争で日本は何をしたのか、またその過程で誰がどのように加担したのかを追求することなく、ただ「戦争はいけない」と叫んでいても、戦争の再来を止めることはできない。

加害責任の追求なしに戦争被害の悲惨さを訴えるだけでは、むしろ、そのような悲惨を繰り返さないためにこそ、「今度は勝たなければならない」となりかねない。そこに隣国の軍事的脅威を持ってくれば、先制攻撃を仕掛けるまであと一歩だろう。

戦後日本の「平和教育」の罪は重い。『かわいそうなぞう』は、その欠陥を象徴する作品だと言える。

※1 抵抗できない動物たちを一方的に殺すのは明白な虐殺であり、これを「処分」とか「措置」などと呼ぶのは、日本お得意の、言い替えによる意味のすり替えである。
※2 『戦争童話集』(1975年7月)収録の「干からびた象と象使いの話」
※3 上野動物園初代園長。1941年7月、応召により園を離れる。事件当時は陸軍獣医学校教官。

[1] 土家由岐雄 『かわいそうなぞう』 金の星社(フォア文庫)1982年
[2] 長谷川潮 『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』 梨の木舎 2000年 P.15-16
[3] 長谷川 P.19
[4] 東京都 『上野動物園百年史』 第一法規出版 1982年 P.170-171
[5] 小森厚 『もう一つの上野動物園史』 丸善ライブラリー 1997年 P.59-60
[6] 『上野動物園百年史』 P.178
[7] 長谷川 P.23-24

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