読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

稲田防衛相就任を祝して「百人斬り」事件を振り返る(2)初めて語られた真相

■地方の名士

「百人斬り競争」ですっかり有名になった向井・野田両少尉は、その後もいわば「地方の名士」として、たびたび新聞に登場したり、地元で講演を依頼されたりするようになる。下は、大阪毎日新聞鹿児島沖縄版(1938年1月25日付)に掲載された野田少尉に関する記事である[1]。
※ 向井・野田両氏の最終軍歴は少尉ではないが、ここでは「百人斬り競争」実行時の階級である「少尉」に統一して表記する。

百人斬り

二百五十三人を斬り 今度千人斬り発願

さすがの“波平”も無茶苦茶

野田部隊長から朗信

南京めざして快進撃を敢行した片桐部隊の第一線に立って、壮烈無比、阿修羅のごとく奮戦快絶“百人斬り競争”に血しぶきとばして鎬しのぎを削った向井敏明、野田毅両部隊長は晴れの南京入りをしたが、その血染の秋水に刻んだスコアは一○六=一○五、いづれが先きに百人斬ったか判らずドロンゲームとなったが、その後両部隊長は若き生命に誓ってさらに一挙“千人斬”をめざし野田部隊長は□□の敗残兵掃蕩に二百五十三人を斬った、かくして熱血もゆる両部隊長の刃こぼれした白刃に刻んでゆく“血刃行”はどこまで続く?……

このほど豪快野田部隊長が友人の鹿児島牌枕崎町中村碩郎氏あて次のごとき書信を寄せたが、同部隊長が死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な雄姿そのままの痛快さがあふれてをり、“猛勇野田”の面目躍如たるものがある――


 目下中支にいます……約五十里の敵、金城鉄壁を木ッ葉微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまった、極楽に行きかかったのは五回や十回じゃないです、敵も頑強でなかなか逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来たわけです、小銃とか機関銃なんて子守歌ですね、迫撃砲や地雷といふ奴はジャズにひとしいです、南京入城まで百五斬ったですが、その後目茶苦茶に斬りまくって二百五十三人叩き斬ったです、おかげでさすがの波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬をやろうと相手の向井部隊長と約束したです、支那四百余州は小生の天地にはせますぎる、戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくってくれました

(略)

 まだ極楽や靖国神社にもゆけず、二百五十三人も斬ったからぼつぼつ地獄落ちでしょう、武運長久(われわれは戦死することをかく呼んでいます)を毎日念じています、小生戦死の暁は何とぞ路傍の石塊を拾ひて野田と思ひ酒、それも上等の酒一升を頭から浴びせ、煙草を線香の代りに供へられ度、最後に大元帥陛下万々歳……(写真は野田毅部隊長)

こちらは東京日日新聞(1939年5月19日付)で報じられた、その後の向井少尉に関する記事[2][3]。

百人斬り

戦死した競争相手に「孫六」手向けの斬れ味

向井中尉漢水戦線にあり

【漢水東方地区にて十八日西元特派員発】 わが木村、恒広、中西の諸部隊が炎熱百度を超え、クリークの水も沸く物すごい暑さの中を湖北平原の山岳地帯に堅固な陣地を築いていた敵将張自忠麾下の敵兵十数個師を包囲攻撃中、これに従軍した記者は、ある日寺荘という小部落で奮戦中の向井中尉にひょっこり出会った。

同中尉は一昨年南京戦の折、戦友の野田中尉と百人斬りを約して愛刀関孫六で敵兵百七人を斬り殺した勇敢な青年将校である。南京戦後長く伸びた髭を落として戦友野田中尉とさらに五百人斬りを約し、徐州、大別山、漢口、鏑祥と各地に奮戦、敵兵三百五人を斬ったが、野田中尉が海南島において戦死し、今は一人で約束の五百人斬りを果たすために奮闘している。

実は向井中尉の念願は千人斬りだそうで、記者が「孫六は斬れますか」とはなしかけると、朴訥な中尉は次の如く語った。

 「よく斬れます。ちょっと剣先がひっかかりますが、自信を持っているから大丈夫です。出征いらい病気もせず、いつも第一線に立って負傷せず、不思議なようです。長期戦に耐え得るように体ができているのでしょう。ただ部下を死なせて申し訳ないと思っています。それだけが残念です。遺族の方々に悔やみの手紙を出したのみで、千人斬りがやれないので残念だ。私は野田中尉と別れてから一人で約束の五百人斬りを果たすために一生懸命やっています。今日まで三百五人斬りました。部隊長が槍をもっておられるので、負けないように奮闘する決心です」

(写真は一昨年南京戦線における百人斬り競争当時の〈右〉故野田少尉と〈左〉向井少尉)

※野田少尉は戦死などしておらず、これは誤報。野田死亡説が流布した理由については、彼が後に参謀本部付南機関に配属され、特務工作の仕事に従事するようになった結果、公的な場から姿を隠すようになったこととの関連が指摘されているが真相は不明。[4]

上の記事での野田少尉は、「百人斬り競争」のときと同様、勇猛果敢な豪傑風の言動を続けている。ところがその同じ野田氏が、母校である小学校の後輩たちへの講演では、まったく違う話をしているのだ。

■野田少尉の母校での講演 ― 志々目証言

野田少尉は1939年の春に母校である鹿児島県師範学校附属小学校を訪れ、在校生たちに「百人斬り競争」の話をした。これを聞いた志々目彰氏は、後に野田氏の話の内容とそこから受けた印象を次のように書いている[5]。

 戦記雑誌『丸』が11月号で「日中戦争の全貌」という特集をしている。その中に当時毎日新聞社会部陸軍報道班員鈴木二郎氏の「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」という貴重な回顧録がある。

 この文章は、栄誉をかけた“百人斬り競争”として二名の青年将校が南京攻略戦の中で二百名以上の中国兵を日本刀で切り捨てたことから始まっている。ところがこの事を、私は小学校の時本人から聞いて知っていた。それは私にとって“中国体験”のはじまりでもあった。

                 *

 それは小学校卒業の一年前、昭和十四年の春だったにちがいない。生徒を前にA先生が「いちばん上級となった君たちに」といったのと、これで上級生がいなくなってせいせいするぞという解放感で気持ちが弾んでいたのとを記憶している。A先生はわが校の先輩であるというパリパリの青年士官をつれてきた。陸軍士官学校を出てまだ何年もたたないというその若い将校のキビキビした動作、ピンと前の立った士官帽をはっきりと思い出す。

 私の出た学校は鹿児島県師範学校附属小学校。父は県庁の下級官吏で、本来この学校へこどもを出せる階級ではなかった。私も附属特有のお坊っちゃんムードが嫌いで、それに勉強も好きでなかったから、毛並みのいい級友たちとは一歩距離があった。鹿児島というところは軍人の産地で、中学で少しできる奴は身体がよければ海軍兵学校陸軍士官学校へ進む土地柄であった。(略)

 さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったのかもしらないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。
 

「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……

 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……

 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……

 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……

 二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」
 

 これを聞いて、私の頭には新聞写真で見たような敵の陣地が浮かんできた。腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵……なぜ中国兵は逃げないのだろう? 反抗しないのだろう? 兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか。

 そのほかにも「中支戦線」や戦場生活の話を聞いた筈だが、忘れてしまっている。

「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる……」という言葉は今でもはっきり覚えている。「ニーライライ」というのは、お前来い来い、という意味だそうだ。これは竹内好さんや安藤彦太郎さんたちのいう“兵隊シナ語”の一種でもあったのだ。

 その頃の私たちには、斬られた中国兵のために憤り、或いは同情する“ヒューマニズム”はなかった。その中国の兵たちにも自分のような弟がいるかもしれないなどとは、思ってもみなかった。軍人になろうとしている兄貴を慕っていた私だから、そんな類推ができない筈はなかったのに……

 だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという“勇士”の体験談は、私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ。それ以上のことは幼い自分には分らなかった。これでいいのだろうか、そんな軍と軍人で果して“聖戦”が可能なのだろうか。陸軍幼年学校に入り、国軍の生徒としての教育をうけるようになってから、そのことをあらためて思い出すようになっていた。(後略)

「百人斬り競争」とは言うが、連載記事で描かれたような戦闘中に敵兵を斬ったケースはむしろ例外で、ほとんどは投降した無抵抗の中国兵を据物斬りにしたものだったという真相が、当事者の口から初めて語られたことになる。

なお、この志々目証言は後の「百人斬り訴訟」で原告側から攻撃されるが、志々目氏の小学校の同級生である辛島勝一氏も同じ講演で野田少尉から捕虜を斬殺した話を聞いたと述べており、判決でその信憑性が認められている[6]。また、野田少尉はこのとき鹿児島一中でも講演をしており、全校生徒を前に剣道場で捕虜の据物斬りの格好をして見せたとの証言を秦郁彦が確認している[7]。

[1] 星徹 『「百人斬り競争」を裏づける新史料を発見!』 週刊金曜日 2004年4月23日号
[2] 小野賢治 『報道された無数の「百人斬り」』 戦争責任研究 2005年冬号
[3] 笠原十九司 『「百人斬り競争」と南京事件』 大月書店 2008年 P.199-200
[4] 同 P.209
[5] 志々目彰 『日中戦争の追憶 “百人斬り競争”』 月刊中国 1971年12月号
[6] 笠原 P.203
[7] 同 P.136

(1)事件当時の報道←【前記事】
【次記事】→(3)逮捕・裁判・処刑

 

「百人斬り競争」と南京事件―史実の解明から歴史対話へ

「百人斬り競争」と南京事件―史実の解明から歴史対話へ

 
南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌

南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌

 
南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか (平凡社新書)

南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか (平凡社新書)

 
中国の旅 (朝日文庫)

中国の旅 (朝日文庫)

 
南京への道 (朝日文庫)

南京への道 (朝日文庫)