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幣原喜重郎が脅迫しに来た憲兵を説得してしまった話

1940年、日中戦争が泥沼化する中、ナチス・ドイツ的な国家総動員体制を目指して大政翼賛会が作られると、既存の政党はすべて自発的に解散し、これに合流した。しかし、当時貴族院議員だった幣原喜重郎は最後まで参加を拒否した。

このとき、国策に抗う幣原を、「面白くない事態が起こるかもしれない(=命の保証はできない)」と憲兵隊が恫喝し、意志を曲げさせようとしたのだが、自宅まで脅迫に来た憲兵を幣原が逆に説得してしまうという「事件」が発生した[1]。もちろん、やってきたのが幣原の話を理解できるだけの理性を備えた憲兵だったからこんなことが起こり得たのだが、ちょっとユーモラスな話なので紹介する。

 戦時中、国論を統一するため、というよりも国論を圧迫するために、大政翼賛会というものが組織された。そしてそれが議会では、翼賛政治会となった。私は前から勅選議員として貴族院に議席を持っていたが、貴族院事務局から手紙が来て、翼賛会にお入りにならないが、賛否の返事をもらいたいといって来た。私はすぐ、賛成という方を消して、不賛成の返事を出した。すると事務局の主任の人から電話で、「反対というあなたのご返事でしたが、それではかどが立ちますから、あなたのご返事は来なかったことにしておくわけに行きませんか」と言って来た。私は、「それはいけません。私は実際そういう返事を出したのは入会を拒絶する意味なんだから、何も恐れることはありません」というと、「それじゃ致し方がありません」といって電話を切った。

 するとその日から二日ばかり後に、私のところへ憲兵が来た。(略)それがいかめしい姿勢で、「私は隊長の命によって本日訪問いたしました。そのおつもりでお聴き下さい。あなたは翼賛会に入ることを不賛成と返事されたそうです。どういうわけか知りませんが、これでは国内の一致の態勢をあなたが破壊されるという責を免かれません。それでは面白くない事態が起って来るかも知れませんから、そのご返事は撤回されてはいかがでしょうか。これは隊長の命によってあなたにご注意申しあげる」

 大体こんな意味のことをいう。私はこれに対して、「ご注意は承りました。しかしあの返事は自分で書いて出したもので、その決心を変える意思は毛頭ありません」ときっぱり答えた。そしてさらにその憲兵に向って、

「ところで一つあなたに訊きたいが、アメリカでは開戦布告には国会の承認を求めることになっているのですが、こんどのアメリカの対日宣戦については、一人を除いて他の全部が賛成の投票をしました。反対したのは誰かというと、婦人議員一名だけで、これが敢然反対投票をしたのです。(略)あなたが私のところへ言って来たように、あなた一人で国民の一致を破ることはいけませんから、やはり賛成投票をしてはどうですかと説き付けたならば、その婦人はあるいは強いて反対投票を言い張らなかったかも知れない。しかるにその婦人が断然反対投票をしたということは、それは誰もその婦人の善心をまげようと努めなかったことを証明していると思います。これが重要な点です。これに反してドイツの国会というものは、ヒトラーの演説は新聞に詳しく報道されるけれども、議場で政府案が可決されたか、否決されたか、などということは少しも報道されない。これは当り前のことで、議員は全員一致でヒトラーに賛成することに決まり切っているから、それを報道する価値がないからです。あなた方は、ドイツのように不自然の全会一致がいいか、アメリカのように一人でも反対する者は反対させ、自然の全会一致または大多数の賛成によって決するという形をとる方がいいか、よく考えてご覧なさい。私は反対する者には反対させ、賛成したい者が賛成すれば、これは自由意思で賛成したということがはっきりして、投票の本当の価値というものが発揮されると思うアメリカの例がいいか、ドイツの例がいいか、あなたはどう考えますか」

 憲兵は私のお説法を聴いて、しばらく黙って考えていたが、突然椅子から立ちあがった。そして挙手の敬礼をした。

「よく判りました。私は隊長の命令で来たのですが、あなたのご意見がごもっともですといってこのまま帰れば、私は隊長から必ず譴責されます。たとえ譴責を受けても、私はあなたのお考えの方がいいと思いますから、私は二度とあなたのところへ説得に来ません。よく判りました。どうかあなたはご自分の所信に邁進して下さい」

と言って、その憲兵は帰った。私は憲兵にもなかなか面白い人物があると思った。

この憲兵は三週間ほど後にまた幣原を訪ねてくるのだが、今度は脅迫ではなく、分厚い本を抱えてきて、わからないところを教えてくれという。幣原と憲兵はまるで教師と生徒のような関係になった。そんなことが何度か続き、やがて憲兵将校を養成する学校に入学できるところまできた。ところがその後間もなくして敗戦。幣原はこの憲兵の行方を探そうとするのだが、名簿や記録がすべて焼けていて、ついに探しだせなかったという。

ところで、米国連邦議会で開戦決議にただ一人反対した女性議員といえば、現代の我々がまず思い浮かべるのは、9.11同時多発テロ後の報復戦争に反対したバーバラ・リー議員(民主党・下院)だろう。このときの彼女の議会演説(和訳付き)を、こちらで読むことができる。今では彼女と、決議に賛成した420名の議員たちのどちらが正しかったかは明白だが、建国以来初めて本土の中枢部を攻撃されてアメリカ中が逆上していた当時の雰囲気の中で開戦に反対するには、大変な勇気を必要としただろう。

幣原も、満州事変の拡大防止に力及ばず下野した後は、自宅の塀に「国賊」「売国奴」などと落書きされ、通行人から邸内に投石までされたという。当時の新聞(神戸新聞1931年9月20日)には、次のような庶民の声が掲載されている[2]。

車夫(海岸通り) 一体から幣原があかんよって支那人になめられるんや。向ふから仕掛けたんやよって満州全体、いや支那全体占領したらええ。そしたら日本も金持になって俺らも助かるんや。

交通巡査 大いに膺懲すべしだ。

市電車掌 やりゃいいんです。やっつけりゃいいんです。大体支那の兵隊といへば卑怯な遣り方ですからね。……うんと仇討、賛成ですね。

商店主(元町通り) とも角、いままで培って来た満州のことです。捨てて堪りますか。私はこれででも日露戦争に出たんですからな。

料理屋女将(花隈) これで景気がよくなりますと何よりです。

マスコミやネットに煽られて際限なく右傾化・排外化していく日本社会の雰囲気はこの頃とよく似ており、極めて危うい。幣原やリー議員のような信念の人しか反対できなくなった時には、もう手遅れなのだ。

[1] 幣原喜重郎 『外交五十年』 中公文庫 1987年 P.204-208
[2] 江口圭一 『昭和の歴史(4) 十五年戦争の開幕』 小学館 1988年 P.109

 

外交五十年 (中公文庫プレミアム)

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昭和の歴史〈4〉十五年戦争の開幕 (小学館ライブラリー)

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