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「アジアの人々」という表現への違和感と納得感

違和感を感じる理由

自分でも時々使ってしまうのだが、この表現には以前から違和感を感じてきた。なぜなら、日本も当然アジアの一部であるにもかかわらず、日本人が「アジアの人々」と言う場合、そこに日本人は含まないことが暗黙の前提となっているからだ。

ちなみに、さきほど「アジアの人々」でググってみたところ、結果のトップ3は次のようになった。

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これが、例えば「周辺諸国の人々が見た太平洋戦争」「東南アジアの人々と出会い語らう」「日本は戦争被害国の人々に何をしたのか」などであれば違和感はないのだが、やはりごく自然に「アジアの人々」が使われている。

福沢諭吉『脱亜論』が象徴するアジアへの蔑視と他者意識

このような、同じアジア人への他者意識の源流としては、やはり福沢諭吉の『脱亜論』に注目せざるを得ない。これは福沢が創刊した新聞『時事新報』の社説として1885(明18)年3月16日に掲載されたものだ。

以下にその全文を再録する。ただし、さすがに読みにくいので、旧漢字は常用漢字またはかなに置き換え、また適宜ふりがな、改行と注釈を加えた。

世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し(波及し)、至る処、草も木もこの風に靡なびかざるはなし。蓋けだし西洋の人物、古今に大に異なるに非ずと雖いえども、その挙動の古に遅鈍にして今に活発なるは、ただ交通の利器を利用して勢に乗ずるが故のみ。

ゆえに方今東洋に国するものゝ為に謀はかるに、この文明の東漸の勢に激げきして(怒り興奮して)これを防ぎ了おわるべきの覚悟あれば則ち可なりと雖いえども、苟あたかも世界中の現状を視察して事実に不可ならん(事実上不可能であること)を知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を掲げて共に文明の苦楽を共にするの外あるべからざるなり。

文明は猶なお麻疹ましん(はしか)の流行の如し。目下東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延するものの如し。この時に当りこの流行病の害を悪にくみてこれを防がんとするも、果してその手段あるべきや。我輩断じてその術なきを証す。有害一辺(有害なだけ)の流行病にても尚且なおかつその勢には激げきすべからず。いわんや利害相伴ふて常に利益多き文明においてをや。まさにこれを防がざるのみならず、力つとめてその蔓延を助け、国民をして早くその気風に浴せしむるは智者の事なるべし(知識人の義務である)

西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永(嘉永年間)の開国を発端として、国民漸ようやくその採るべきを知り、漸次に活発の気風を催ふしたれども、進歩の道に横はる(妨害する)に古風老大の政府(徳川幕府)なるものありて、これを如何いかんともすべからず。政府を保存せんか、文明は決して入るべからず。如何となれば近時の文明は日本の旧套きゅうとう(古いしきたりや慣習)と両立すべからずして、旧套を脱すれば同時に政府もまた廃滅すべければなり。

しからば則ち文明を防てその侵入を止めんか、日本国は独立すべからず(存立できない)。如何いかんとなれば(なぜかといえば)世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さゞればなり。是に於てか我日本の士人は国を重しとし政府を軽しとするの大義に基き、又幸に帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一切万事西洋近時の文明を採り、独り日本の旧套きゅうとうを脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所はただ脱亜の二字にあるのみなり。

 我日本の国土は亜細亜の東辺に在りといえども、その国民の精神は既に亜細亜の固陋ころう(古い習慣や考え)を脱して西洋の文明に移りたり。しかるにここに不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云ふ。この二国の人民も古来亜細亜流の政教風俗に養はるゝこと、我日本国に異ならずといえども、その人種の由来を殊こと(別に)するか、ただしは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝(残し伝えられている)教育の旨に同じからざる所のものあるか、日支韓三国相対し(この三国を比べると)、支と韓と相似るの状さまは支韓の日におけるよりも近くして、この二国の者共は一身に就き又一国に関して改進の道を知らず。

交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非あらざれども耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、その古風旧慣に恋々するの情(こだわる様子)は百千年の古いにしえに異ならず、この文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、その実際においては真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払ふて残刻不廉恥を極め、なお傲然として自省の念なき者の如ごと

我輩を以てこの二国を視れば今の文明東漸の風潮に際し、とてもその独立を維持するの道あるべからず。幸にしてその国中に志士の出現して、先づ国事開進の手始めとして、大にその政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、もしも然しからざるにおいては、今より数年を出でずして亡国となり、その国土は世界文明諸国の分割に帰すべきこと一点の疑あることなし。

如何いかんとなれば(なぜなら)麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら、支韓両国は其伝染の天然に背そむき、無理にこれを避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶たちて窒塞(窒息)するものなればなり。輔車ほしゃ唇歯しんし(車の添え木と荷台や唇と歯のようにお互いを必要とする関係)とは隣国相助くるの例たとえなれども、今の支那朝鮮は我日本のために一毫の援助とならざる(少しも助けにならない)のみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するがために、時にあるいはこれを同一視し、支韓を評するの価を以て我日本に命ずる(日本をも支韓と同じようなものと評価する)の意味なきに非ず

例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃たのむべきものあらざれば、西洋の人は日本もまた無法律の国かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠もこれがために掩はれ、朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人もまた共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば、枚挙に暇いとまあらず。

これを例へば比隣軒を並べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然しかも残忍無情なるときは、稀にその町村内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜に掩はれて湮没(埋没)するものに異ならず。その影響の事実に現はれて、間接に我外交上の故障を成す(日本外交の支障となる)ことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云ふべし。

されば、今日の謀はかりごとを為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興おこすの猶予あるべからず、むしろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接するの法(対応のしかた)も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、まさに西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は共に悪友を免かる可らず。我は心において亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。

この『脱亜論』については、無署名記事であることから福沢自身の筆になるものではないとか、福沢が肩入れしていた金玉均らによる朝鮮王国内クーデターが失敗したことへの苛立ちから書かれたものだとかの議論があるが、ここに見られるような中国朝鮮への蔑視と侵略の正当化は福沢の思想においてほぼ一貫しており、これが例外的なものと見ることはできない。[1]

(1) 「脱亜論」の内容は、本書資料篇の発言分類では[文][蔑][植]の三点から成り立っている。本章2で考察した中期福沢の保守思想確立の書である『時事小言』が「文・蔑・植」をふくむ九つのマイナスの発言分類を網羅した著作であることはすでに見た。つまり、[文]明史観から見て[蔑]視せざるをえない国は[植]民地支配も止むをえないという「文・蔑・植」からなるアジア認識は、諭吉にとっては「脱亜論」より四年も前に提出済みのものである。(略)

(2) つまり、「脱亜論」の内容にはなに一つ新しいものはないのである。唯一、新しいのは「脱亜」という言葉であり、この表現が直截で分かりやすく印象的な表現であるために、後世の人の記憶によりつよく刻印されることになった。しかし、幕末初期啓蒙期以来、林則徐や洪秀全への愚弄に見たように、欧米帝国主義列強の武力侵攻をともなう強圧外交に対して、「蟷螂の斧」をふるおうとするアジア諸国民を一貫して「野蛮」「未開」「暴民」「土人」の行為と罵り続けてきた福沢諭吉は、もともと初期から「脱亜」の姿勢をとっていたのであり、その自らの一貫した姿勢をここで「脱亜」と表現しただけのことである。(略)

明治以来の日本人は、福沢に代表されるように、「文明開化」した自分たちは遅れた「アジア」とは違う、だから自分たちは欧米列強と同じようにアジアから「奪う側」として振る舞っていいのだ、と自らの野蛮な帝国主義的欲望を正当化してきた。福沢が「むしろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし」と述べたように、日本人は自らアジア諸民族の一員であることを捨てたのだ。

日本人が再びアジア諸民族の仲間に戻るには、今まで自分たちがやってきたことへのケジメをつける必要がある。その具体的な方法についてはこちらの記事で述べた。そうして初めて、日本人は「アジアの人々」などという持って回った言い方をしなくて済むようになる。

[1] 安川寿之輔 『福沢諭吉のアジア認識』 高文研 2000年 P.127-129

 

福沢諭吉のアジア認識―日本近代史像をとらえ返す

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