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教育勅語「国民道徳協会訳」という悪質な嘘訳

なぜか「定訳」扱いのデタラメ「国民道徳協会訳」

作られてから既に120年以上も経つ教育勅語は、原文のままでは現代人には理解するのが難しい。そのため、つい現代語訳に頼りたくなるわけだが、教育勅語の現代語訳というと、なぜか「国民道徳協会訳」と称するものがまるで定訳であるかのように扱われている。例えば明治神宮のサイトで教育勅語の解説に使われているのもこれだ。

だが、実際に読んでみると、この「国民道徳協会訳」はデタラメもいいところで、明らかに勅語の印象を良くするよう意図的に内容が改変されている。正確な現代語訳とはかけ離れたものと言わざるを得ない。

以下、この訳のどこがどうおかしいのか、逐条的に見てみよう。

「国民道徳協会訳」を逐条的に検証する

原文

国民道徳協会訳

朕惟おもフニ

我カ皇祖皇宗

國ヲ肇はじムルコト宏遠ニ

徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。

天皇ただ一人しか使うことが許されない自称「朕」を単に「私」と訳していいのかという問題はとりあえず置いておくとしても、「私達の祖先が」では、まるで日本人の祖先みんなが協力して国を作ったかのようだ。だが、原文が主張しているのはあくまで「我カ皇祖皇宗」、つまり天皇家の祖先が国を作ったということであって、それ以外の国民、とりわけ民百姓の祖先になど出る幕はないのである。

また、この原文のどこにも「遠大な理想」「道義国家の実現」などという目的意識はない。原文が言っているのは、この国は自分たち天皇家の祖先が作り、歴代天皇が「深く厚い徳をもって」これを統治してきた、ということだけだ。(もちろんこれ自体が嘘だが。)
 

我カ臣民

ク忠ニ克ク孝ニ

億兆心ヲ一ひとつニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ

此レ我カ國體ノ精華ニシテ

教育ノ淵源亦また實ニ此ここニ存ス

そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

まず、ここで「我カ臣民」を「国民」と訳しているのが大きな間違い。「臣民」とは明治憲法で神聖不可侵とされた天皇の臣下としての民のことであって、近代国民国家の主権者としての「国民」ではない。勅語で「克ク忠ニ克ク孝ニ」が美徳とされているのは、それが天皇の臣下にふさわしいあり方とされていたからだ。国民道徳協会訳は、それが現代の「国民」にも当てはまるかのようにすり替えている。

また、ここにも「道義立国の達成」という、原文のどこにも見当たらない主張が出てくる。原文が言っているのは、先祖代々天皇への忠義と親への孝行(これも嘘だが)を尽くしてきた臣民のあり方(=國體ノ精華)こそが教育の根本だということであって、道義立国の達成のための教育などというのは明らかな捏造である。

ちなみに、例えば稲田朋美がこう発言している[1]ように、教育勅語を支持する極右政治家の皆様は、とても「道義国家」がお好きなようだ。

 稲田朋美防衛相は8日の参院予算委員会で、天皇を頂点とする秩序をめざし、戦前の教育の基本理念を示した教育勅語について、「日本が道義国家を目指すというその精神は今も取り戻すべきだと考えている」と述べた。社民党の福島瑞穂氏に答えた。

(略)

 稲田氏は「教育勅語の精神である日本が道義国家を目指すべきであること、そして親孝行だとか友達を大切にするとか、そういう核の部分は今も大切なものとして維持をしているところだ」と述べた。

実際にはいま見たとおり、教育勅語のどこにも「道義国家」など出てこない。まさかこの人、国民道徳協会訳だけ読んで「道義国家」が教育勅語の精神だとか思い込んでるんじゃないだろうね。いや、いくらなんでも、まさかねぇ。(笑)
 

なんじ臣民

父母ニ孝ニ

兄弟ニ友ニ

夫婦相和シ

朋友相信シ

恭儉きょうけんレヲ持シ

博愛衆ニ及ボシ

學ヲ修メ業ヲ習ヒ

以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ

進デ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ

常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵したが

一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

ここはいわゆる「十二の徳目」の部分だが、国民道徳協会訳では、これらの徳目中で最も重要な「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」を、まったく違う意味に(意図的に)誤訳している。だいたい、「真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません」では、具体的に何をどうすればいいのかさえ不明だ。

原文が言っているのはそんな曖昧なことではない。国家の重大事(戦争)には一身を捧げて皇室の繁栄(天壤無窮ノ皇運)を手助けせよ、ということだ。捧げるものは「真心」などではなく命、捧げる相手は「国」などではなく天皇家である。
 

是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス

又以テ爾なんじ祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

ではなぜ(自分の与り知らないところで)戦争が始まると、たった一つしかない命を捧げて天皇家に奉仕しなければならないのか。それは天皇の言う「爾なんじ」、つまり「お前たち」が、天皇の「忠良ノ臣民」(忠実順良な家来)だからだ。これをすべての「臣民」の脳裏に刷り込むことそこが教育勅語の真の意図であり、意味するところなのだ。(だからこそ教育勅語は教育現場で内容を議論したりするものではなく、絶対的真理として「奉読」「暗唱」すべきものとされた。)

勅語が、天皇家の祖先がこの国を作り歴代天皇が「深く厚い徳をもって」これを統治してきた(=日本は天皇家のものだ)と主張するのは、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」を正当化するためである。さらに言えば、他のすべての徳目もまた、平時には文句を言わずよく働き、戦時には命まで差し出して天皇家の繁栄に奉仕する「忠良ノ臣民」を量産するためのものでしかない。だから勅語には決して、平和を愛することや正義や平等を希求することが徳目として加えられることはないのである。
 

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ

子孫臣民ノ倶ともニ遵守スヘキ所

之ヲ古今ニ通シテ謬あやまラス

之ヲ中外ニ施シテ悖もとラス

朕爾なんじ臣民ト倶ともニ拳々服膺シテ

みな其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾こいねが

明治二十三年十月三十日

         御名御璽

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

勅語の冒頭と同じくこの結びの部分でもまた、「皇祖皇宗」(天皇家の始祖と歴代天皇)を日本人全体の祖先にすり替える詐術が使われている。もちろんその狙いは、勅語の内容を、天皇からの一方的な指図ではなく先祖代々日本人が共有してきた意識であるかのように見せかけることにある。

毒を糖衣で包んで現代日本人に飲ませようとする「国民道徳協会訳」

以上見てきたように、「国民道徳協会訳」とは、教育勅語の本質を隠蔽し、「いいことも書いてある」かのように見せかけて現代の日本人に受け入れさせることを目的として作られた意図的誤訳(嘘訳)なのだ。「君が代」を、天皇ではなく「あなたの幸せ」を願った歌だ、とか言うのと同じタイプの詐術である。もちろん、そうやって騙していったん受け入れさせてしまえば、教育勅語はたちまちその本性を現して「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」を強制する道具として最大限に活用されることになる。

ちなみに、名前から一見それなりの学識者が訳したかのような印象を与える「国民道徳協会訳」だが、実際には自民党の衆院議員だった佐々木盛雄なる人物が勝手に作った代物であるらしい[2]。いつものことだが、右派のやることは嘘と隠蔽ばかりだ。
 
[1] 『稲田氏「教育勅語の精神、取り戻すべきだと今も思う」』 朝日新聞デジタル 2017.3.8
[2] 『教育勅語「国民道徳協会訳」の怪』 日夜困惑日記@望夢楼 2005.7.19

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