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「共謀罪」法制化を熱望する特高官僚の後継者たち

■ 「特高だった伯父 悲惨な戦後」

こういう題で掲載された朝日新聞への投稿が、氏家法雄氏のツイートで紹介されていた。

 伯父の一人は特高特別高等警察)だった。戦時中、東京で出世して活躍中だと幼少の私たちは聞かされていた。戦争末期、空襲を避け伯母と子供たち4姉妹が疎開終戦間もなく伯父も転居してきた。東京での生活や仕事の話は、親族にも何も話してくれた覚えがない。
 伯父は何かにおびえているように仕事もせず本家の裏の長屋にこもりきり。異様な姿であった。食糧事情は悪く、日当たりの悪い長屋住まいからか長女が結核にかかり間もなく死亡し、次女も1年余り後に逝った。一家を気遣って父は米や川魚などを差し入れていた。伯父も数年病に伏し寝たきり生活の後、逝った。葬儀に立ち会った村の古老が、なぜか「罰が当たったんかのう…」とうめくようにつぶやいた。教育者だった別の伯父は「人倫にもとる仕事をしてはならない」と中学生の私の目を見て謎めいた言葉を告げた。衝撃的な忘れがたい記憶だ。
 稀代の悪法として歴史に刻まれている治安維持法は、被疑者だけでなく警察官らにも過酷な運命をもたらしたのだ。後年、現代史をたどる中で、伯父一家も戦争政策の裏面の犠牲者だったのでは……と推し量った。そして今、「共謀罪」法案の審議が日本の未来を暗くしている。

投稿者には悪いが、この「伯父」にはまったく同情できない。この人はなぜ「何かにおびえているように仕事もせず」引きこもっていたのか? 戦時中、特高警察官としてやってきた行為への復讐が怖かったからだろう。敗戦によって日本を覆っていた狂信的ドグマが崩れた結果、自分がいったい何をしてきたのか、初めてその罪の大きさに直面したわけだ。その結果としての引きこもりだ。

この「伯父」の末路を「被疑者だけでなく警察官らにも過酷な運命」などと並べて語ることは絶対に許されない。特高に虐殺され、あるいは命を縮められた被害者と、その加害者である特高を同列に「犠牲者」扱いするのは、治安維持を名目に行われた残虐過酷な弾圧の犯罪性を曖昧にし、その国家責任を隠蔽する行為でしかない。

特高による逮捕者は、政府統計では75,681人とされているが、実数は十数万人と推定されている。そのうち警察署内で虐殺された者が80名、獄中での拷問・虐待による死者が114名、病気で獄死した者は1,503名にのぼる。発狂した者や釈放後に病死した者の人数は今も不明のままだ。[1][2]

■ 戦後も平然とのさばり続けた特高官僚たち

そもそも、この「伯父」のように自らの罪を認識するに至った特高は例外と言ってよい。大半の特高、とりわけ課長級以上の特高官僚は何の反省もせず、もちろん罪業に見合った処罰もされず、戦後も平然とのさばり続けた。

一般には、戦後、特高警察は廃止され、特高警察官は罷免されたと認識されている。確かに、1945年10月4日に出された「思想警察全廃」「特高警察全員の罷免」を明記したGHQ指令によって、組織としての特高警察は消滅し、下級の特高警察官たち(おそらく上記の「伯父」も含む)はほぼ全員退職させられた。だが、日本政府は指令の時点で特高官僚の職にあった者は休職処分としたものの、それ以前に特高官僚の職歴がある者たちには何の処分もしなかった。[3]

 中川成夫という男の例で見てみます。中川は広島県出身で、警視庁巡査となり特高課に配属され、特高課員として巡査部長、警部補、警部に昇格、さらに警視にも抜擢されて高輪署長、築地署長、板橋署長などを務めたあと板橋区長、つづいて滝野川区長に任命され、職を「罷免」されることもなく46年に退官しています。中川は小林多喜二虐殺にも関係したのを始め、悪名は東京地方で治安維持法弾圧を受けた人々のあいだでとどろいていました。(略)中川だけにとどまるものではありません。特高警察で残虐な拷問をした権力犯罪者達がほとんど野放しにされたのが、GHQ「罷免」であったのです。

 前にも紹介していますが、中川は映画館経営をしていた関係から東映取締役興行部長となり、妻を代表者に幼稚園経営もおこない、64年には東京都北区教育委貝、68年北区教育委員長になっていますが、まさに戦後も大手を振るっていたのです。

多喜二虐殺の主犯格は警視庁特高長安倍源基、その指揮下で特高課長毛利基、警部中川成夫、山県為三らが直接手を下した[1]。

翌1946年、いわゆる「公職追放」が始まるが、特高関連の追放対象者は1937年7月7日(日中戦争開戦)から45年9月2日(降伏文書調印)までの間に特高警察関係者の地位にあった者に限られたため、多くの元特高官僚が処分を逃れた。このときも、日本政府は追放対象者の期間や役職を限定するために奔走している。概算として、特高官僚のおよそ三分の一は罷免にも追放にもならず、そのまま戦後の行政に関わり続けたと見られている。[4] 例えば、福井県特高課長、静岡県特高課長の経歴を持つ石井栄三(敗戦時は朝鮮総督府警務課長)は、戦後も追放されないまま警保局警務課長、内務省人事課長、内務大臣秘書官、警視庁警務部長、東京警察管区本部長、警察予備隊警務局長、国家地方警察本部警務部長、警察庁警務部長を歴任して、1954年8月警察庁次長、55年7月には警察庁長官にまで登り詰めている。[5]

■ 「共謀罪」法制化を熱望する者たち

その公職追放もわずか数年後の1951年から52年にかけて解除され、多くの元特高官僚が警察をはじめとする行政機構に戻ってきた。追放を逃れて残っていた者たちも合わせ、これら元特高官僚たちが戦後の民主的行政制度の骨抜き、改悪の牽引役として「活躍」していくことになる。そして今、公安警察を中心とする、こうした元特高官僚の精神的子孫たちこそが共謀罪の法制化を一番熱望しているのだ。

こんな者たちに、断じて「現代の治安維持法」を与えてはならない。

[1] 『小林多喜二を虐殺した特高 罪に問われたの?』 しんぶん赤旗 2005/2/17
[2] 柳河瀬精 『告発!戦後の特高官僚』 日本機関紙出版センター 2005年 P.10
[3] 同 P.214-216
[4] 同 P.220-225
[5] 同 P.95-97

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