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中国人は日本軍を歓迎した? そりゃするだろう。逆らえば命がないんだから。

【卑劣】学び舎教科書採択校に右派が集団攻撃

難関校として有名な私立灘中(神戸市)をはじめ、学び舎の歴史教科書「ともに学ぶ人間の歴史」を採用した中学校に、右派からの抗議・恫喝が殺到しているという。

毎日新聞(8/8)

教科書 慰安婦言及 灘中など採択学校に大量の抗議はがき

 慰安婦問題に言及する歴史教科書を採択した全国の国立、私立中学校のうち判明しただけで11校に昨年、内容が「反日極左」だとして採択中止を求める抗議のはがきが大量に送られていた。「執拗(しつよう)な電話もあり脅迫のようで怖かった」と語る教諭もいる。(略)

 慰安婦問題を取り上げたのは、出版社「学び舎」(東京都)発行の検定教科書「ともに学ぶ人間の歴史」。この教科書について、産経新聞は昨年3月19日朝刊で「中学校の歴史教科書のうち唯一、慰安婦に関する記述を採用」「最難関校を含む30以上の国立と私立中が採択」と報じ、神戸市の私立灘中学校などの名前を挙げた

(略)

 和田校長によると職員の話し合いで採択を決めて間もない2015年12月、自民党の兵庫県議から「なぜ採択したのか」と聞かれた。「OB」や「親」を名乗る匿名の抗議はがきが舞い込み始めたのは16年3月ごろ。大部分は、中国での旧日本軍進駐を人々が歓迎する場面とみられる写真を載せた絵はがきに抗議文をあしらった同一のスタイルだった。

 さらに、差出人の住所や氏名を明記し抗議文をワープロ印刷したはがきが大量に届き始めた。やはり大部分が同一の文面で、組織的な抗議活動をうかがわせた。地方議員や自治体の首長を名乗るはがきもあり、抗議は半年間で200通を超えた。和田校長は取材に「検定を通った教科書なのに政治家を名乗ってはがきを送ってきたり、採択した学校の名前を挙げて問題視する新聞報道があったりして政治的圧力を感じた」と振り返る。

(略)

抗議はがきの主な内容

 学び舎の歴史教科書は中学生用に唯一、慰安婦問題(事実と異なる)を記した「反日極左」の教科書だとの情報が入りました。将来の日本を担う若者を養成する有名エリート校がなぜ採択したのでしょうか。反日教育をする目的はなんなのでしょうか。今からでも遅くはありません。採用を即刻中止することを望みます。

灘中のような難関校で学び舎の教科書が選ばれたのは、単純にその内容が優れていたからだ。

その教科書の内容が気に食わないからといって、親やOBと称して匿名で採択校に集団的・組織的攻撃を行う。いつもながら卑怯なやり口だ。

侵略軍を現地住民が「歓迎」するのは当然の生存戦略

ところでこの人たちは、中国で日本軍が歓迎されていた「証拠写真」があるから日本軍による残虐行為は嘘だと言いたいらしい。妄想力だけは十分以上にあるのにまともな想像力がないからそんな写真に飛びつくのだろう。

考えてもみればいい。自国軍は既に後退し、丸裸となった街や村に侵略軍が進軍してくる。身を守るために無力な住民にできることは何か? 全財産を失い難民となることを覚悟の上で逃げ出すか、侵略軍に迎合して被害の最小化を図るか、選択肢はこの二つしかないだろう。実際、南京攻略戦の途上で日本軍の進撃路にあたった不幸な街や村の多くは後者の戦略をとった。

一口に日本軍と言っても、部隊によってその資質は様々だったから、やってきた部隊が比較的まともな部類であれば、大事な食糧をごっそり「徴発」される程度で済む場合もあった

黒須忠信(上等兵・仮名)日記[1]:

[11月22日](略)陳家鎮に午后五時到着、米味噌醤油等の取集めで多忙な位である、或は濡もち米を徴発或る者は小豆をもって来て戦地にてぼた餅を作っておいしく食べる事が出来た、味は此の上もなし、後に入浴をする事が出来て漸ようやく我にかへる、戦争も今日の様では実に面白いものである、(略)

[11月23日] 午前四時起床、出発準備を整ひ食事をすます、陳家鎮の支那家屋では日の丸国旗を揚げて日本に好意を表し我が軍の行軍通路には藁等をす[し]きて援助をする処さへあった(略)

[11月25日](略)午后四時祝塘郷に着して宿営す、(略)我等五分隊二十四名は宿舎に着く毎ごと大きな豚二頭位宛あて殺して食って居る、実に戦争なんて面白い、酒の好きなもの思ふ存分濁酒も呑む事が出来る、漸く秋の天候も此の頃は恵まれて一天の雲もなく晴れ渡り我等の心持も明朗となった。

とはいえ、反抗などしたら命はない。

近藤栄四郎(伍長・仮名)日記[2]:

[11月16日] 五時起床にて朝食の準備して六中隊段列を誘へ[ひ]たるも出発の時間ある様なるに就き一足先に出発する、(略)此先どの位行進なすやら見当つかぬ為某町らしき処にて宿る。

 途中敗残兵の屍体等参見する、(略)支那民を使って荷物を負はせ服従しなければ直ちに射殺であるから仕方なくついて来る、でも処々に屍体あり、また行軍中も射殺実況を見た事も数度、戦敗国の惨。

 団子等して食ふ、途中食物や砂糖等徴発しての行軍等今日も八里位か。

 隣りに支那人の男六十位と女一人と女病人一人がゐる、火などたかせる、彼等の恐怖心や如何程ならん。(略)

しかし、相手が悪ければいくら「歓迎」しても無駄

しかし、相手が悪ければ、もちろんこんな程度では済まない。以下は南京市から東へバスで30分ほどのところに位置する村での事例[3]。

 (略)山へ避難した光秀さんら女性たちが村へもどったのは14日だが、あくる15日、村人たちは集まって、日本軍が村に現れたときの対応の方法を相談した。「歓迎大日本」と書いた旗をたてて迎えれば、家を焼かれないし虐殺もされないという噂をきいていたので、その準備をした。

 許巷村は200戸ちかくあって、その多くは道路ぞいに東西に細長い街村状に並んでいた。16日の午後、村はずれで見張りに出ていた親戚のおじが「日本軍が来た!」と叫んで村に知らせた。かねて打ち合わせておいたとおり、村の男たちは「歓迎大日本」の旗を何本もかかげ、村の道の両側に並んで出むかえた。光秀さんは寝台の下にかくれ、その前に木の肥たご(糞尿を運ぶ桶)を置いた。(略)外は騒然となっていたが、かくれているので何が起きているのか分からない。(略)

(略)

 村人たちが「歓迎大日本」の旗とともに出むかえたところへ到着した日本軍は、歓迎に応ずるどころか、その旗を奪って近くの積み草にさすと、男たちを並べていろいろ検査した。帽子のあとなどをみて兵隊かどうかを調べたらしいのだが、結局は兵役年齢に相当すると勝手に判定された若者が全部選ばれて100人くらいになり、そのなかに弟の陳光東(16)もいた。細長い村の中では比較的西の方の家の者が多かった。

(略)

 田んぼに連行された青年たちは、たがいに向きあってひざまずく格好で二列に並ばされた。この田んぼは陳家のもので、約0.8畝ムー(50平方メートル弱)のせまい面積だった。青年たちの列の一部は、L字状に道路ぎわの土手ぞいに並ばされた。そのまわりをとりかこんだ日本軍は、銃剣で一斉に刺殺した。死にきれず何度も刺され、「助けて!」と叫ぶ青年もいた。

(略)

 集団虐殺が行なわれたのは午後4時ごろだった。女たちは家で寝台の下などへかくれていたが、午後5時ころになって「沈」の妻(35,6歳)は夫のことが心配になり、様子を見るため虐殺現場のそばの「史」家へ行き、そこで惨劇を知らされた。夫もその弟も殺されて、彼女は声をあげて泣きながら外へ出た。まだいた日本兵がこれを見つけ、虐殺現場に近い池のそばへ連行し、強姦してから殺した。

(略)

 光秀さんの母は9人の子供を産んでいたが、男の子ばかり4人が死に、育った5人のうち光東は最後の男の子だったので特にかわいがっていた。その光東も夫も殺されたため、悲しみのあまり発狂状態になり、深夜に外へ出て大声で叫んだり、疲れると道ばたで寝てしまったりするようになった。頭にはれものもでき、翌年の春死んだ。

 集団虐殺や強姦などで地獄絵と化した許巷村は、これでは今後もどうなるか見当もつかないので、若い女性はみんな避難することになった。あくる12月17日、光秀さんも妹をつれて、棲霞というところにアメリカ人がつくった避難所へ、ほかの200人ほどの女性たちとともに行った。この日は光秀さんの誕生日(満19歳)であった。

日本軍を「歓迎」すればひどい目に遭わされずに済むという「成功例」を信じて劣悪な部隊を迎え入れてしまった村が、最も凄惨な地獄を味合わされたわけである。

[1] 小野賢二・藤原彰・本多勝一編 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 大月書店 1996年 P.346
[2] 同 P.320
[3] 本多勝一 『南京への道』 朝日文庫 1989年 P.260-264

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