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「国を愛して何が悪い」は呪いの言葉

ヘイターにも人気のセリフ「国を愛して何が悪い」

出来の悪い愛国ソング「HINOMARU」を批判されたRADWIMPSは、謝罪にもならない妙な「謝罪」をしたあげく、ライブでこれを歌って「国を愛して何が悪いんですかー!」と叫んだという。

この、「国を愛して何が悪い」という類のセリフは極右・ヘイト界隈でも人気なようだ。それだけでも胡散臭い代物であることがよく分かる。

似たようなセリフに、「自分の国を愛せない人に、他の国の人を大切に思うことはできない」というのもある。こちらはひとひねりしてあるが、言っていることはほぼ同じだ。

彼らが愛するという「国」とは何か

一見特に問題がなさそうにも見える「国を愛して何が悪い」だが、だとしたらなぜ右派やヘイターはこんなことをわざわざ言いたがるのか。

そこには、「国」という日本語特有のトリックがある。本来明確に区別しなければならない別々の概念を「国」という同じ言葉で呼んでしまうから概念の混乱が起きているのだ[1]。

 これは実は日本人の国家意識、国イメージのあり方と深くかかわっていると思います。(略)日本人にとって「国」というのは実にあいまいなものなんです。

 英語で言うと、国に該当するものとしてland, country, nation, stateと、少なくとも四つの表現があるのです。この四つはスペルが違うように全部違うものを表わしています。図Aに示すように、重なりあい共通する部分もありますけれど、全部違うものを指しています。

 landというのは自然的な国土であり、そしてcountryは人びとの集団であり、nationというのはそれの政治的統一体であり、そしてstateというのはそういうnationやcountryに作られる政府とか、裁判所とか、軍隊とか、議会とか、地方行政機構とかを持った国家機構を指しています。英語ではこの四つはいずれも違うものを指しています。(略)ところが日本人はこの違いがわからないんですね。図Bのように全部「国」としかイメージされない。(略)

 図ABは空間的に見た場合ですが、A'B'は時間的に見た場合です。

 A'のland、日本を例にとりますと日本列島という土地に人びとが住み、縄文時代、弥生時代を経て、日本というcountryが作られ――もっともその範囲は最初は「大和国」「尾張国」「三河国」などといったように狭いものでしたが――そして奈良朝とか、鎌倉幕府とか、徳川幕府とかのstateができ、そして近代にはnationとしての一体性を持つにいたる。そして国際連盟League of Nationsに加盟したり、国際連合United Nationsの一員となったりする。

 日本の歴史は、このように進展してきているけれども、まことに幸か不幸か、日本人にはこれがB'のようにしか見えない。ただ、のっぺらぼうの「国」の歴史としてしか、とらえられないんですね。

(略)

 もう一つ違う比較をしてみますと、英語的表現では「stateの政策が悪く、landの環境を破壊するので、nationの利益に反するとして、country中に非難が起こっている」という文章がきちんと成立します。ところが日本人というのは幸福なのか不幸せなのか、これを「国の政策が悪く、国の環境を破壊するので、国の利益に反するとして、国中に非難が起こっている」という意味不明の文章としてしか表現することができない。

生まれ育った土地であるlandや、そこに住む同郷の人々countryへの愛着(愛郷心)は、多くの人々が自然に持っているものだろう。(これでさえ、しばしば外部から来た住民を「余所者」として差別し、排除する心理につながる危険をはらんだものではあるが。)ところが日本では、そうした自然発生的な愛郷心が、「国」概念の混乱を利用して容易に国家体制への無条件の支持と服従にすり替えられてしまう。

さらに悪いことに、自国の国家体制を支持する(「日本が好き」)というなら、本来その対象は日本国憲法が規定する現在の国家体制とその原理(国民主権・平和主義・人権尊重)であるはずなのに、現実には、73年も前に滅亡して日本国に取って代わられたはずの、天皇主権・軍事拡張主義・人権無視を原理とする旧体制「大日本帝国」への支持にすり替えられている。

そして、天皇制が形を変えながらも温存されたことと並んでこのすり替えに大きな役割を果たしているのが、大日本帝国の象徴だった「日の丸」「君が代」が敗戦後もそのまま国家を象徴する旗と歌とされ続けていることだ。シンボルが変わらないのなら、それによって象徴される対象もまた本質的には変わっていないことになるからだ。

その結果この国では、「愛国心」というものが、旧体制を否定して成立した現「日本国」を支持するものではなく、逆に旧体制「大日本帝国」を支持し、それが犯した破滅的過ちを認めず、再びそこに回帰しようとする心的態度になってしまっている。

「国を愛して何が悪い」は呪いの言葉

RADWIMPSが「HINOMARU」と題した歌を歌って叫んだ「国を愛して何が悪いんですかー!」は、呪いの言葉だ。

呪いの言葉とは、相手の思考の枠組みを縛ることによって批判や反論を封じようとする言葉のことだ。「国を愛して何が悪い」は、誰もが自然に持っていて否定しにくい愛郷心的な心情を利用して、戦前回帰を図る策動への反対を封じようとするものであり、まさに思考の枠組みを縛って相手を支配しようとする呪いなのだ。

ちょうど今、「#呪いの言葉の解き方」というツイッタータグで、力を持つ者が作った枠組みを正当化し、相手を屈服させるために使われる言葉(「野党はモリカケばかり」「貧困は自己責任」など)との闘いかたが議論されている。

「国を愛して何が悪い」に対しても、解呪の言葉が必要だ。私なら「私の愛する国は平和で人権を尊重する民主主義的な日本国です。あなたが愛しているのはどんな国?」とでも言うだろう。

あるいは、「あんた、どうしてそんなにバカなの?」でもいいかもしれない。

[1] 江口圭一 『日本の侵略と日本人の戦争観』 岩波ブックレット 1995年 P.54-57

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