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吉田茂のふざけたジョーク

前回記事で取り上げた、敗戦直後、吉田茂がマッカーサーに「日本の統計が正確だったら、米国と戦争などしていない」と語ったという件、元ネタは吉田茂の孫である麻生太郎が著書に書いたものらしい。

東京新聞(2/19)

吉田元首相「統計正確なら戦争なかった」 幼い麻生氏に言い聞かせ

 毎月勤労統計の不正調査に関する十八日の衆院予算委員会の集中審議で、麻生太郎副総理兼財務相が祖父の故・吉田茂元首相から、不正確な統計をもとに日本が戦争に突き進んだと聞かされていたことが話題に上った。

 立憲民主党の長妻昭氏が麻生氏の著書「麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀」の記述を紹介した。(略)麻生氏は、長妻氏に「事実か」と問われ「小学生ぐらいの時に何回か聞かされた。おおむねそういうことだ」と答えた。 (清水俊介)

そこで麻生の著書を調べてみると、こう書かれていた。[1]

 また終戦直後のまだ国民が焼け野原で飢えと闘っていたころ、祖父はマッカーサーに「四百五十万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えた。結局六分の一以下の七十万トンしか輸入できなかったが、餓死者は出なかった
 マッカーサーが抗議をしてきた。
「ミスター・ヨシダ、私は七十万トンしか渡さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る
 祖父は切り返した。
「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったら、むちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら、日本の勝ち戦だったはずです」
 さすがのマッカーサーも、腹を抱えて笑い出したという。

戦後の食糧難でも「餓死者は出なかった」などと、とんでもない嘘がさらりと書いてある。実際には、都市部を中心に餓死者が続出していた。主に犠牲となったのは、戦災孤児や空襲で全財産を失った被災者など、闇市や買い出しで食糧を手に入れることのできない人々だった。[2]

 終戦の日から十一月中旬までに、神戸、京都、大阪、名古屋、横浜の五都市で七三三人の餓死者が出た。東京の同時期の状態について『朝日新聞』は、「五度目の根こそぎ収容(浮浪者狩り)が行なはれてから、まだひと月もたってゐないのに、上野の浮浪者群は、また二百名を超えさうだ。街の義人に救はれた浅草本願寺の収容者から早くも九名が死んだ。上野駅で処理された浮浪者の餓死体は多い時は日に六人を数へ、先月の平均は一日二・五人であった。終戦以来下谷区役所で扱ったものだけでも六十人を突破してゐる。現在この種の餓死者は所轄署と区役所だけで処理してゐるので、全体の統計は出てゐないが、四谷、愛宕両署でも悪天候が続いたころは毎日一人から三人の行き倒れがあったから、全部ではかなりの数に達するだらう」(20年11月18日)と報じ、上野、愛宕、四谷の三署管内だけで十一月十八日現在一五〇人の餓死者が出ている、と伝えているから、東京全地域では、おそらく一〇〇〇人を超える餓死者数になったと推定される

8月の敗戦から11月までのわずか3ヶ月の間に、東京だけで千人を超える餓死者が出た、というのだ。しかし、戦後の飢餓がピークを迎えたのは翌年の1946年である。この時期に全国でどれだけの餓死者が出たかは、それこそ《統計がない》ため不明だが、少なくとも万単位だったことは間違いないだろう。

サイト「データえっせい」さんによると、敗戦5年後の1950年時点でも、まだ9千人以上の餓死者が生じている。

 上記の意味での餓死者数は,1950年から2011年の約60年間において,下図のように推移してきています。


 食べ物にも事欠いていた戦後初期の頃では,餓死者が多かったようです。1950年(昭和25年)では,9,119人。しかし,社会が安定するとともに餓死者数はぐんぐん減り,10年後の1960年には1,362人にまで減少します。

少なくとも、この深刻な飢餓状況をGHQが把握していなかったはずはない。

はっきり言えるのは、自分はヤミやコネで手に入れた食糧を飽食しながらこんなジョークをマッカーサー相手に飛ばしていたのだとしたら、吉田茂は麻生並のクソ野郎だった、ということだ。

[1] 麻生太郎 『祖父・吉田茂の流儀』 PHP研究所 2000年 P.85-86
[2] 東京焼け跡ヤミ市を記録する会編 『東京闇市興亡史』 草風社 1978年 P.12-13

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