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3・1独立運動:「堤岩里」以外のあまり知られていない虐殺事例

百年前の3・1独立運動への弾圧としては、前回記事でも取り上げた「堤岩里(堤巌里)事件」が有名だが、これが当時最大の虐殺事件というわけでもなく、まさに氷山の一角でしかない。ここでは、当時の記録からいくつか取り上げてみる。[1]

定州の虐殺
 定州の邑民は、市日を期して示威運動を展開しようとしたが、日本兵はその気配を探知して、さきんずれば人を制するとの作戦にでて、キリスト教の牧師以下の諸教職に暴行を加え、血の雨を降らせた。民心はますます激昂し、当日集合した群衆二万五千人が、日本の銃火をおかして「万歳」を高唱した。デモ参加者五十人と、傍観していた者七十余人がともに殺戮された。
(略)

孟山の虐殺
 孟山郡には天道教徒が多かったが、独立示威運動に際しては、キリスト教徒もまた参加した。憲兵補助員をしている朝鮮人が示威運動に干渉しなかったので、運動は無事に経過した。しかし数日後に日本兵が到着した。そのとき、ある一教師の名儀を仮りて集会がおこなわれていた。日本兵は、さっそくその集会を指導した人を逮捕し、憲兵分遣所に拘留してひどい拷問を加えた。大衆は激怒し、指導者の釈放を要求して憲兵分遣所におしかけた。日本兵は群衆を分遣所の内庭に引き入れて、その門をかたく閉ざし、いっせいに射撃していっきに六十余人を射殺した。なかには気息奄々ながらまだ命のある者もいたが、銃剣で突いてとどめを刺した。(略)

江西の虐殺
 江西郡星台面沃川教会では、三月二日示威運動を展開し、教徒六名が逮捕された。翌日大同郡院場教会の独立示威団二千余名が、沃川面面事務所におしかけた。ところが、日本の憲兵と補助員の三人が突然発砲し、尹寛道、玄景黙ら六人を銃殺し、多数の人を負傷させた。独立示威団の群衆は激怒し、徒手空拳で格闘し、憲兵と補助員を撲殺した。このとき朝鮮人側の即死者は四十三名、重傷者二十余名、病院にかつぎこまれて死んだ者二十余名に達した。また同郡甑山面斗満里のキリスト教会では、婦人の布教師と十六歳になる孫が、日本人により一刀のもとに斬殺された事件があった。

大邱の虐殺
 大邱郡の独立示威運動に参加した者は二万三千人に達したが、日本軍の発砲により射殺された者は百二十二人、負傷者は八十七人であった。死者の遺族は、死体を収容し、埋葬しようと考えたが、日本兵はそのたびに遺族の行動を妨害し、死体は埋葬もできなかった。陳某という医師は、負傷者の救護をしようとしたが、日本兵は、かれを射撃し、逮捕した。独立団員金鎔海(注:金湧海の誤り)は、剛直で気骨ある人であり、その父は運動の指導者であった。示威運動の当日、宣言書を朗読していた時、日本兵が突入して鎔海の父を殴打した。鎔海は、素手で日本兵に抵抗したため、日本兵は鎔海を突き刺し、血河の巷となった。父子ともに投獄されたが、数日して死去した。

密陽の虐殺
 密陽郡の独立団は一万三千五百余人にのぼったが、死者も一百五十人をこえた。同郡のある山峡の部落は、ちょうど馬蹄のような地形で、ただ山の口に一本の道が通じているだけであった。日本兵はこの地をおさえて乱撃を加えたので、老幼男女がみな殺しにされる惨事となった。

(略)

陜川の虐殺
 三月十八日、陜川郡江陽面の人々は市場に集合し、示威運動を展開した。日本の警官は、まず鉄棒で乱打し、つぎに鳶口で突いたが、なお解散しなかったので、ついに発砲するようになった。そのとき三人が即死し、数人が重傷を負った。
(略)
 二十二日には、上栢、栢山、佳会、三嘉など五面の民衆がふたたび運動を展開し、三万余人の大群衆となった。数人の青年が、この行動をとったことについて、「われわれの運動は、あくまで絶対に平和的に展開し、少しも混乱があってはいけない」といましめた。群衆はこの指示を応諾し、行動は秩序整然としていた。しかし、日本兵七名が突然発砲したため、死傷者が路傍に倒れ、腥風血雨の惨たる光景となった。
 翌日、日本兵三十余名が各処に横行し、人を見さえすればむやみに発砲し、殴打した。このため即死者四十二名、重傷者は百余名に達した。
 また同日草渓面では、儒者、学生らが八千余人も集まって運動を展開したが、日本兵の発砲により即死者五名、重傷者数十人をかぞえた。(略)

天安の惨事
 四月一日、天安郡の人々は、並川市場で示威運動を展開した。日本兵は、デモ隊の旗手を突き刺そうとした。旗手は素手で白刃をうけとめたため、流血淋漓たる状景を呈した。日本兵は、さらに旗手の腹部を刺して殺した。指導者金求応が日本人警官に抗議すると、日本の警官は答弁に窮して、突然金求応を射殺した。金氏は、頭脳をくだかれ、四肢をめった刺しにされていた。金氏の老母は死体をみて昏倒したが、日本警官は、老母をも刺し殺した。

(略)

郭山郡の惨殺
 郭山郡の人々は、三月六日に独立示威運動を開始したが、五十余歳の老体である朴志協は、日本人に撲り殺された。警察に逮捕された者は百余人にもおよび、このうち大半のものが苛酷な拷問のために死亡した。キリスト教会は火をつけて焼かれ、損害額は一万六千円にも達した。
(略)

朔州、昌城、渭原各郡の虐殺
(略)
 すでに述べた水原の虐殺(注:提岩里事件のこと)のように、西洋人が視察調査しておおやけに伝えた事件は、その真相を天下にさらした。しかし、そのような西洋人の足跡の及ばない土地でも、村落の湮滅、人命の殺傷など、水原よりひどい例はたくさんあるにちがいないが、その実際をあきらかにすることはできない。また今回の運動は、天道教徒の行動が激烈であったため、その受けた惨禍もまたきわめて悲惨であった。しかし、これもまた報告の漏れているところが多く、詳細はつかめていない。(略)


困難な中で朝鮮側が調査し得た被害状況は次のようなものだった。[2]

集会回数

1,541

参加者数

2,023,098

死亡者数

7,509

負傷者数

15,961

被逮捕者数

46,948

焼かれた教会

47

焼かれた学校

2

焼かれた民家

715


これに対して、日本側は騒擾回数786回、参加人員49万4900名、死亡者357名、負傷者802名(「朝鮮騒擾事件道別統計表」)としており[3]、数字が大きく異なる。しかし、3月11日に原敬首相が朝鮮総督長谷川好道に「今回の事件は内外に対し極めて軽微なる問題となすを必要とす、然れ共実際に於て厳重なる処置を取りて再び発生せざる事を期せよ」と指令している[4]ことから見ても、この数字は諸外国に対して残虐行為の規模を小さく見せるために意図的に作られた数字だろう。

そして事件から百年後の今、日本政府は文在寅大統領が3・1独立運動記念式典で事件の被害者数に言及したことに対して、「懸念」を伝えたという。

mainichi.jp

 日本政府は1日、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が「3・1独立運動」に関して「約7500人の朝鮮人が殺害された」などと演説したのに対し、外交ルートで「学術的に確立された数字ではない」と韓国側に懸念を伝えた。(略)

 文氏は「3・1」記念式典の演説で、殺害者数のほか「約1万6000人が負傷、約4万6000人が逮捕・拘禁された」などと述べた。日本政府は「歴史家の間でも認識は分かれている」との立場で、外務省幹部は1日の自民党の外交関連会議で「問題意識を伝えた」と説明。だが、出席議員からは「明確に反論しなければ国際的に誤解を生む」「問題意識を伝えるだけでは生ぬるい」などと批判が上がった

こいつらはいったい何様のつもりなのか? 残虐事件を引き起こし、しかも事件後には正確な被害調査などできないよう隠蔽と矮小化に奔走した加害国側が、「確立された数字ではない」などと、どの面下げて言えるのか?

この国は、政府・与党が先頭に立って歴史修正主義に走るという醜態を、いつまで晒し続けるのだろうか。


[1] 朴殷植(姜徳相訳注)『東洋文庫214 朝鮮独立運動の血史1』 平凡社 1972年 P.216-226
[2] 同 P.183
[3] 姜在彦 『日本による朝鮮支配の40年』 朝日文庫 1992年 P.83
[4] 同 P.79-80

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