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企画・編集と検閲が区別できない人たち

表現の不自由展についての記事に、こんなコメントがついた。

ブログ主さんにお尋ねします。

僕が、自称でアーティストを名乗り、
稚拙な絵を国立美術館に持ち込み、

展示してくれ、と言ったところ
断られたとしたら、

それは、公権力による、
表現の自由を阻害する、

検閲 と言うことになるんで
しょうか?

お答え下さい。

ある人がこれにこう回答したら、

ブログ主ではありませんが、
国立美術館が、持ち込みの作品を展示する
ことはまずありません。
検閲ではなく、実力が無いから相手に
されないだけだと思います。

こんなことを言い出し、

実力があるとか、ないとか、

そんなこと、公権力が判断して
いいんですか?

僕の表現の自由は、
どこへいっちゃったんですか?

誰が、奪ったんですか?

そこから大論争に発展してしまっている。

どうやらこの人、企画や編集という仕事と、公権力による検閲の区別がつかないらしい。どちらも、ある表現を公開するかしないかを決めているから同じ、という程度の理解のようだ。

マジレスすると、自称アーティストが自慢の「作品」を美術館に持ち込んで展示を断られても、それは検閲ではない。単にその美術館で展示するに値する水準に達しているか、展示企画のテーマに合っているか、といった基準で選別されているだけだ。その選別を行なう学芸員が公務員であっても、民間美術館の学芸員と同じ仕事をしているだけで、公権力を振るっているわけではないので検閲にはあたらない。

また、展示を断ることがこの人の表現の自由を侵害しているわけでもない。なぜならこの人にはいくらでも自分の「作品」を公開する手段があるからだ。例えば、国立美術館で断られたら、自分で画廊でも借り切って個展でも何でも開けばよい。

しかし、その個展の内容に誰か(公権力とは限らない)が文句をつけて、展示をやめさせようと、単なる批判や抗議の範囲を越えて(物理的・経済的・政治的・その他の)圧力をかけてきたなら、これは表現の自由への侵害となる。(ただし、これにも例外はある。展示の内容自体がヘイト表現(マイノリティへの差別扇動)であるなど、表現の自由を保障されるべき対象でない場合は別だ。)

別のたとえをすると、私がいくら意見を投稿しても産経新聞は紙面に載せてくれないが、それは彼らの編集権の範囲内であって、私の表現の自由を侵害しているわけではない。私の意見は他の媒体なりこのブログなりでいくらでも公開できるからだ。一方、誰かがその媒体を回収しろとかブログを閉鎖しろなどと圧力をかけてきたら、それは私の表現の自由への侵害である。

表現の自由とは、任意の場に自分の表現をタダで公開しろと要求できる権利ではない。

さて、ここまで書けば理解できるだろうか。

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