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『私は貝になりたい』―― 戦後日本人の被害者意識を正当化した「不朽の名作」

『私は貝になりたい』は、1958年にラジオ東京テレビ(現在のTBS)がテレビドラマとして制作し、芸術祭文部大臣賞を受賞するなど、テレビドラマの名作として高く評価された作品だ。続いて翌年にはドラマ版と同じ橋本忍の監督により映画化もされている。

ドラマ版と映画版では大半のキャストが入れ替わっているが、主役の清水豊松は同じフランキー堺が演じている。私は先日、この映画版の方を観た。

画像出典:Amazon.co.jp

あらすじ

大戦末期、高知の港町で理髪店を営んでいた清水にもとうとう赤紙が届き、彼は内地の某部隊に配置される。30過ぎで妻子持ち、気が弱く要領も悪い清水は上官や古年兵に目をつけられ苦しい軍隊生活を送っていたが、ある夜、空襲に来たB-29が付近の山に墜落し、清水のいる部隊に搭乗員の捜索と「処分」が命じられる。

翌日の捜索で見つかった搭乗員は2名を残して既に死亡しており、その2名ももう虫の息だった。捜索隊指揮官の日高大尉(南原伸二)は、初年兵教育のためと称して、一番「たるんでいる」清水ともう一名にその2名を的にした実的刺突(銃剣による刺殺)を命じる。しかし、清水は足がすくんでまともに突けず、わずかに米兵の腕を刺しただけだった。

敗戦後、無事妻子のもとに戻って再び理髪店を営んでいた清水は、ある日突然逮捕され、巣鴨プリズンに送られてしまう。あの捕虜の処刑が戦争犯罪とされたのだった。

戦犯裁判では、「処分」を命じた軍司令官の矢野中将(藤田進)らだけでなく、清水も捕虜殺害の実行犯として責任を問われる。日本の軍隊では二等兵が命令に逆らうなど不可能だという言い分は通らず、命令を拒否しなかったのだから自分の意志で捕虜を刺したのだとされ、清水は絞首刑を言い渡される。

判決後も清水は減刑を求める嘆願書を書き続けていたが、願いはかなわず、とうとう執行の日を迎える。逃れようのない死を前にして、清水は「もし生まれ変わることができるのなら、もうこんなひどい目に遭わされる人間にはなりたくない。牛や馬に生まれ変わっても人間からひどい目に遭わされる。それよりは、誰の目にも触れない深い海の底の貝になりたい」と遺書に書くのだった。

このドラマのどこが問題か

このドラマはフィクションだが、観た人はみな、現実にあったB-29搭乗員殺害事件やそのBC級戦犯裁判に基づいた物語だと思うだろう。しかし、その裁判の実態はこのドラマで描かれているものとは大きく違う。

このドラマで描かれたものとよく似た事件としては、1945年5月14日の名古屋空襲やその後の空襲の過程で計27人の米軍機搭乗員が捕らえられ、東海軍管区司令官岡田資中将の命令により裁判抜きで処刑された事件がある。しかし、この事件の戦犯裁判で死刑になったのは岡田司令官だけであり、他の将校は終身刑から15年、斬首などにより処刑を実行した下士官と兵は10年の重労働という判決だった。しかも下士官以下は服役が免除され、ただちに釈放されている。実質的には無罪同様の扱いである。[1]

他の類似のケースを見ても、中部軍管区憲兵隊が計44名の搭乗員を処刑した事件では起訴された全員が終身刑以下で死刑判決はなく、捕虜を銃殺した准尉以下の10名は無罪となっている。また約33名の捕虜を処刑した西部軍管区のケースでは、司令官の横山勇中将以下将校9人に死刑判決が出たが、その後全員終身刑に減刑され、死刑は執行されていない。このケースでも、下士官以下は起訴さえされていない。[2]

事実の通りに作れば、清水は判決後ただちに釈放されて、物語はそこで終わりだったはずなのだ。

これら以外のBC級戦犯裁判全体を見ても、清水のような二等兵が戦犯として死刑になった例はない。[3]

 一般には、命令に従っただけの下級の兵士まで厳しく裁かれたという議論が広く信じられている向きがあるが、起訴された下級の兵の割合はきわめて低いし、起訴されたとしても死刑になる率はかなり低い。最下級の兵である二等兵の場合、死刑判決が下されたケースはあるが、すべて後に減刑されており死刑が執行された者はいない。巣鴨遺書編纂会編の『世紀の遺書』に掲載されたデータによると、死刑になった兵は、兵長一三人、上等兵一〇人、一等兵二人、計二五人となっている(略)死刑になった戦犯全体の中で二・七パーセントである。

 『世紀の遺書」のデータと法務省資料とでは、刑死者の階級が違っているものが何人もあり、前者で一等兵とされている二人は、後者では二人とも軍属になっている。しかし、どちらの資料でも二等兵(あるいは二等水兵)で死刑に処せられた者はいない。法務省資料を調べたかぎりでは、一等兵で死刑が執行されたのは、イギリス裁判の一人だけである(イギリス側の資料でも確認できる)。オランダ、オーストラリア、フランスの裁判では、死刑が確認された最下級の兵は兵長であり、上等兵以下はいない。このように兵が裁かれたのはかなり少なかったし、特に二等兵や一等兵という最末端の兵士が極刑に処せられることはほとんど皆無であった。

要するに、苦労を重ねて実直に生きてきた庶民が徴兵され、無理やり戦争犯罪に加担させられたあげく、理不尽な戦犯裁判で死刑になるという、このドラマの基本のストーリー自体がフェイクなのだ。

またこのドラマは、他のBC級戦犯裁判についてもデマを流している。

映画版では、巣鴨で他の収容者たちとの食事中に清水がこんな話を聞かされる場面がある。

A「清水さん、あんたが入ってくるのと入れ違いに、刑が決まってブロックチェンジした秋本君という人がいましてね。罪名は捕虜虐待、つまり、戦争中の捕虜収容所で、木の根を削って捕虜に食わしたんですね」

清水「木の根を?」

A「そうです」

清水「上官の命令で?」

A「いえ、自分の意志による単独行動です」

清水「そりゃ良くないや。木の根を食わすなんて」

B「ところが、その木の根っていうのはゴボウのことなんだ」

清水「ゴボウ?」

A「戦争中には、僕らの口にもなかなか入らない貴重品だったですねゴボウは。食糧事情の悪化で捕虜が栄養失調になるのを見かねて、自分でゴボウを食わしてやったんですね。それが、裁判の結果、重労働5年です」

しかし、この捕虜収容所の監視員が捕虜に親切心からゴボウを食べさせたせいで戦犯として処罰されたという話は、事実とはかけ離れた都市伝説の類に過ぎない。この件については既に id:Apeman 氏が詳細に調査されている。[4]

 残るは直江津収容所での「虐待」事件であるが、この事件を扱った上坂冬子の『貝になった男 直江津捕虜収容所事件』(文藝春秋)には、収容所長の反論が紹介されており、そのなかになるほど「木の根を食べさせたと訴えているのは牛蒡のことで、これは日本では立派な野菜であり、高価なものなのだ」という一節(引用ではなく上坂氏による要約だが)がある。これから判断するに、元捕虜たちがごぼうを木の根と誤解し、虐待の一例として訴えたという事実それ自体は確かにあったようである。だが、判決でもそれが虐待として認定されたのかどうかは不明であるし、なによりごぼうの一件は数ある訴因の一つに過ぎない。絞首刑になった収容所の職員(収容所長は死刑にはならなかった)は捕虜を殴打したこと、体力の限界を超える労働を強制したこと、劣悪な衛生環境を放置したこと(トイレを歩いた後の靴を舐めさせた、といった虐待も含まれる)などで訴えられている。被告たちも殴打などの事実は否定しておらず、300人のオーストラリア人捕虜のうち、60人ほどが死亡したとされていることを考えれば、ごぼうの一件が万一判決にも採用されていたとしても、数ある虐待の一つとしてとりあげられたにすぎないことがわかる。もちろん、過酷な労働の強制、劣悪な栄養状態・衛生状態に関して収容所の現場職員の責任を問うことがどれだけ正当であるかは、また絞首刑という量刑が妥当であったかについては大いに議論の余地はあるものの、虐待の事実そのものは確かにあったし、他方で「ごぼうを食べさせた」はせいぜい虐待の一例としてあげられたにすぎず(判決でも採用されたかどうかについては判断を保留)、少なくとも「ごぼうを食べさせたからという理由で有罪になった」とは到底言えそうにない。事実無根とまでは言えないまでも、ほとんど都市伝説化していると言って過言ではないと思う。(略)

そして、『私は貝になりたい』というこの著名な作品が、日本人の間にこのデマを広めるのに大きな役割を果たしたのは間違いないだろう。[5]

「ゴボウを食べさせて戦犯となった」というはなしについて、両親に電話して情報源を問うてみたところ、かの『私は貝になりたい』であることが判明。このエピソードが広く知られていながら具体的な情報に欠けている理由が分かったような気がする。ネット上の情報、両親の記憶も分かれていて主人公(フランキー堺)がゴボウを食べさせたと記憶している人、ドラマ中で語られる別人のエピソードとして記憶している人(ちなみに、父が前者、母が後者)というぐあい。(略)

戦争の被害者でいたかった戦後日本人の心情にぴったりはまった『私は貝になりたい』

映画版の戦犯裁判の場面では、上官の命令は「天皇陛下の命令」だから絶対服従するしかないのだと清水が言うと、お前は天皇に会ってその命令を受けたのかと検察官が反問するなど、およそ実際の裁判ではあり得ない馬鹿げたやりとりが行われている。この描写が示しているのは、事実かどうかなどどうでもよく、とにかく戦犯裁判を理不尽な「勝者の裁き」にしておきたいという製作者の意志だ。

『私は貝になりたい』という物語は、実直な庶民が戦争という時代の流れに巻き込まれ、ひどい目に遭わされたという、戦後日本人の被害者意識にぴったりと寄り添っている。悪いのは勝手に勝ち目のない戦争を始めた軍部であり、そのせいで自分たちは兵隊に取られたり、家を焼かれたり、大切な家族を失うなどさんざん苦労をさせられ、戦後も理不尽な「勝者の裁き」でいじめられた被害者だ、というわけだ。

命令に逆らえず捕虜の腕を刺しただけなのに死刑にされた架空の主人公の運命に涙していれば、自分たちが中国への侵略戦争を熱狂的に支持し、南京陥落時には提灯行列に繰り出して大騒ぎしたことや、出征先の中国や東南アジアで「命令に逆らえず」手を汚した行為のことなど忘れていられる。このドラマは、誰からも責任を問われることのない被害者でいたいという願望を満たしてくれるからこそ多くの日本人に支持され、名作と讃えられたのだ。

確かにBC級戦犯裁判には様々な問題があったが、これで最も理不尽な目に遭わされたのは、日本軍に利用され、捕虜収容所の監視員として送り込まれた結果捕虜たちの恨みを買い、戦犯として裁かれた朝鮮人や台湾人の軍属たちだろう。[6]

 日本軍はアジア太平洋戦争の緒戦で英米蘭などの多数の捕虜を捕らえたが、(略)そうした捕虜の監視員に朝鮮人や台湾人を活用しようとして、朝鮮では約三〇〇〇人の青年を募集し軍事訓練を与えたうえで、一九四二年八月から東南アジア各地の捕虜収容所に送り込んだ。台湾人は主にボルネオに送り込まれた。かれらは軍人精神を叩き込まれ、日本軍のなかで常態化していたビンタなどの暴力を日夜受けながら、収容所では捕虜と直接接する役割を担わされた。もちろん捕虜を人道的に扱わなければならないというジュネーブ条約など戦時国際法は、まったく教えられなかった。軍属とは兵以下の存在であり、上官の命令に絶対服従することを叩き込まれていた。

 監視員たちは捕虜を強制労働に駆り立てる役割をさせられ、しばしば殴打などの暴力を振るった。(略)栄養不良と強制労働、マラリアなどの病気で弱っている捕虜たちにとって、そうした暴行は命取りになることも多く、直接暴力を振るう監視員は憎悪の対象になった(略)

(略)

 ところでさらに問題なのは、一九五二年に日本が独立を回復したとき、日本政府は朝鮮人らから一方的に日本国籍を剥奪したが、朝鮮人ら戦犯は刑が科せられたときには日本人であったということで、刑の執行はそのまま継続された。ところが他方では、もはや日本人ではないとして軍人恩給などの援護の提供を拒否したのである。戦犯でなくても朝鮮人や台湾人の軍人軍属は同じように差別され、援護の対象から外された。当時は日本人だとして戦争に駆り立てておきながら、戦争が終わると日本人ではないと言って援護を拒否し、戦犯としての罪だけは押し付けるという、卑劣としか言いようのない政策をとったのである。

『私は貝になりたい』という物語で主人公になるべきだったのは、架空の日本人理髪店主などではなく、日本軍のために捕虜監視員として使役され、戦後はその責任をすべて負わされて処刑されていった朝鮮人や台湾人の青年たちだろう。彼らを主人公にした物語を作るどころか、嘘だらけのドラマを観て被害者意識に酔っていた日本人は、自らの責任に向き合えない弱さと卑怯さを恥じるべきだ。

[1] 林博史 『BC級戦犯裁判』 岩波新書 2005年 P.140-141
[2] 同 P.141-142
[3] 同 P.69-70
[4] Apeman’s diary 「「ごぼうを捕虜に食べさせて有罪になったB級戦犯」は都市伝説?」 2006/8/28
[5] Apeman’s diary 「ゴボウの件、続報」 2006/9/1
[6] 林 P.153-155

 

BC級戦犯裁判 (岩波新書)

BC級戦犯裁判 (岩波新書)

  • 作者:林 博史
  • 発売日: 2005/06/21
  • メディア: 新書