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関東大震災後の熊谷市での虐殺

前回に引き続き、民衆(自警団)の手による虐殺を取り上げる。

今回取り上げるのは埼玉県熊谷市で起きた事例だが、東京や神奈川での虐殺例とは少し状況が異なっている。
震災によって壊滅的打撃を受けた東京や神奈川では、被害に打ちのめされた民衆が流言飛語に煽られて虐殺に走ったが、北埼玉はさほどの被害を受けておらず、民衆は冷静だった。そのままであれば、東京方面から流れてきた朝鮮人被災者たちを、普通に被災者として受け入れることもできたはずである。
しかし実際には、ここで民衆による虐殺としては最大級と言ってもいい大虐殺が起こってしまった。

山岸秀著『関東大震災と朝鮮人虐殺』(早稲田出版、2002年)によれば、

 九月四日の夕刻、女・子どももいる、疲れ切っていた朝鮮人の一団が、周りを刀、つるはし、鳶口などで武装した民衆の「自警団」によって固められ、足を引きずるようにして、旧中山道を群馬に向けて歩かされていた。
 朝鮮人の周りを囲む民衆の自警団員はもちろん、少数ついていた警護の警察官も、中山道をどこまで歩いたらいいのか、目的地はどこなのか知らなかった。なぜ朝鮮人を送るのかさえわかっていなかった。重い足を引きずりながらの行き先の定まっていない、理由のはっきりしていない朝鮮人の駅伝・町送りの一行であった。
 送られてきた朝鮮人が、埼玉県北部の大里郡熊谷町(現・熊谷市)の市街中心部に入ろうとした時、街道筋を警備していた大勢の自警団員と民衆が鯨声をあげて襲撃してきた。手に手に、日本刀、竹やり、梶棒、鳶口などの凶器を持っていた。抵抗もせず必死で逃げ惑う朝鮮人を追いまわし、引きずりまわし、翌日の夜明けまでに数十人が、街中で、市民のみている前で殺戮された。

というような状況だったらしい。

以下、同書から、虐殺の目撃者や遺体の処理を行った人々の証言を引用する。

 翌朝(五日)、自転車で熊中(熊谷中学、今の熊谷高校)へ行く途中に、たくさんの死体を見ました。一番多かったのは、秩父線の踏切の手前(線路の南側)、今マンションの建っているあたりです(当時は砂利置き場になっていた)。のど笛が切られて血の塊が出ている人、肩からけさがけに切られている人、頭に穴をあけられている人などがいてそこに犬がたむろしていました。

 死んだ人達は、荒川の土手の脇にあった共同墓地に埋められました。暑い時だから死体が腐って、穴の中がぶつぶつ煮い立ちました。そのにおいは、まことに臭いものです。あまりに臭いので、誰もそばを通れなくなりました。……焼いたのは、埋めてから一週間くらい経ってからでした。

 「中家堂」〈熊谷の老舗の製菓販売店、現・本町二丁目〉のあたりで見ていました。朝鮮人を列からずり出して、殺すのです。警察はべつにとがめませんでした。……その時私は、眼の前で日本刀を持って来た人が、「よせ、よせ」というのをふりきって、日本刀で朝鮮人を斬ったのを見ました。……こんな時に斬ってみなければ切れ味がわからないといって、斬ったのだそうです。

 小此木園の所で〈熊谷老舗の茶店、現・本町一丁目、本町は宿場の頃から中心部〉、綱で縛られて護送されている朝鮮人に出会いました。……忘れられないことは……朝鮮人の背中にみんな竹槍がささっていることです。

 ……朝鮮人達が、中仙道から前の道に入って来ました。汗を流して、真黒な顔で、日本人にみんな結わえられていました。日本人は胴を結わえて一人の朝鮮人を持っている人、手と足をそれぞれ結わえて引っ張る人といました。

 熊谷寺では、生から死まで見ました。寺の庭では一人の朝鮮人を日本人がぐるって取りまいたグループが、五つほど出来ました。そして殺すたびに「わあ、わあー」「万才、万才」と喊声が上がるのです。

 翌朝〈五日〉、自転車で熊中〈現・熊谷高校〉へ行く途中に、たくさんの死体を見ました。一番多かったのは、秩父鉄道の踏切の手前〈線路の南側〉、今マンションの建っているあたりです〈当時は砂利置き場になっていた〉。……人数は二・三○人いたでしょうか、はっきりしません。その他多かったのは、皮肉なもので、熊谷警察のあたりです。本町三丁目から四丁目にかけてです。それから熊谷寺の前にもありました。

 この大原墓地へは、熊谷の警察署周辺と熊谷寺で殺された死体を運んできたのだと思います。翌日〈五日〉火葬場で働いていた竹さんが荷車に積んできました。当時は、佐渡で巡査だった鈴木さんという人が、上寺〈熊谷圭寸の別称〉の留守居をしていました。その人が焼くのがうまいので教えてもらい焼きました。まきを積み、石油をかけ、こもをかけて、焼いたのです。穴を掘ったり、焼く仕事は竹さんがやりました。……立ち会ったのは、竹さんと、鈴木さんと私だけです。……焼いてしまうまで憲兵が四、五人このまわりを、昼も夜も巡視していました。……
暑い時だから、死体は臭くなるし、ひどい殺し方でした。けさがけに斬ってあったり、傷だらけでした。死体はみんな、針金で手を縛られたままでした。だから人には見せられないですよ。当時、火葬場はあったのですが、あまり死体の数が多いので、穴を掘って焼いたのです。

なぜこんな事態になってしまったのか。
同書によれば、東京方面から伝わってきた流言によって民衆が不安を募らせる中、その真実性を裏付けるかのような埼玉県内務部長名による通牒が通達されたのが大きなきっかけとなったらしい。

    庶発第八号
    大正一二年九月二日
                          埼玉県内務部長
    郡町村宛
    不逞鮮人に関する件
 東京に於ける震災に乗じ暴行をなしたる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和し、以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其の毒手を揮(ふる)はんとする虞(おそれ)有之候。就ては之際(このさい)警察力微力であるから町村当局者は、在郷軍人分会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ、一朝有事の場合には速やかに適当の方策を講ずるよう至急相当手配相成度き旨其筋の来牒により此段移牒に及び候也

東京・横浜のケースも同様だが、民衆の不安を煽って虐殺に駆り立てた官憲の責任は極めて重い。