花岡裁判の東京高裁での「和解」から10年目にあたる。
弁護団が原告に最終的な和解条項を隠したまま被告鹿島建設と手打ちをし、後でその内容を知った原告団長(耿諄さん)は怒りのあまり卒倒したという、「恥を知れ」としか言いようのない事件だ。
この件については、そのうち詳しく書きたいのだが、今日のところは、なぜこの国の裁判所はこの手の裁判で「和解」をさせたがるのかについて、萱野稔人『カネと暴力の系譜学』から引用しておこう。
日本の司法では、国家や大企業の責任を問うような裁判になればなるほど「和解」という判決がくだされる。なぜか。それは、判例によって国家や大企業の責任を法的に確定してしまわないようにするためだ。
つまりここでは「解釈をしない」ということが、法によって国家の活動が縛られないようにするための手段となっているのである。法の意味をあいまいなままにとどめ、できるだけ国家に都合のいいようにそれを運用したいという意図がその背後にはある。