読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

「飯田哲也×小林武史対談」を読む

これも友人から教えてもらった情報だが、環境エネルギー政策研究所飯田哲也所長と音楽家の小林武史氏の対談(3月29日)がエコレゾウェブに載っていて、これが大変興味深い。

飯田哲也氏は、京都大学原子核工学を専攻し、企業や電力関連研究機関で原子力の研究開発に従事した経験があるだけに、原発に関する専門知識だけでなく「原子力ムラ」の内情にも通じている。別エントリーで紹介した「最悪シナリオ」はどこまで最悪かを書いた人でもある。

ぜひ対談全文を読んで欲しい内容なのだが、特に重要と思われる部分をいくつかピックアップして紹介する。(太字は引用者による)

 

原発はコスト以前に投資リスクが問題

飯田 原子力のコストは、まさに致命的な部分です。これには、2つポイントがあります。まず原子力はコスト以前にリスクが問題なのです。これは安全性のリスクよりもむしろ、金融投資リスクなんです。実は世界的には、特に金融機関が原子力には怖くて投資や融資ができないというトレンドがはっきりあります。今回の福島原発の事故があって、アメリカで原子力の計画をしていたNRGエナジーも、先週、原発増設計画をキャンセルしました。また日本でも、東芝東電国際協力銀行と組んで融資をしようとしていたサウステキサスという原子力発電所は、いわゆる2基の原発を当初52億ドル、1ドル100円とすると約5200億円で5年前に計画したところ、今の見通しは180億ドル・約1兆8000万円にまで高騰して、アメリカの投資家がみんな逃げてしまったんです。フィンランドオルキルオト原子力発電所でも、当初32憶ユーロ、約4000億円で原発を1基作り始めたところ、どんどん追加費用がかさんで、今や1兆5000億円くらいになっているんです。しかも、遅延に次ぐ遅延で、いつ完成するか分からない。そういった巨額投資で長期間回収しなくてはいけないものは、ものすごくリスクがあるじゃないですか。

飯田 ところが風力発電は、その場に持ってくれば早くて半日、長くても3日で発電し始めるんです。それは大げさとしても、実際には計画の段階から数えても2年ぐらいで完成するんですね。そうすると、融資を決めて2年後には投資回収ができて、1基数億円で作れるので比較的小規模で分散投資できる。そういうマネーのロジックで、完全に自然エネルギーの方が勝っているんですね。

 

◆ 「安い原子力」のトリック

飯田 そして日本では「安い」と信じられている原子力は、ここ数年、新設コストが急激に高くなっています。反対に太陽光発電はコストが毎年10%ずつ下がっているので、去年には原発のコストは太陽光を逆転したというデータがあるくらいです。日本の原子力発電所は実はコストが高いです。多分、そのテレビ番組でも言われた国の出したコストは、机上の空論で出した数字で現実の検証のないデータです。「根拠を出せ」と言っても、黒塗りで出してくるんですね。日本では、そういういい加減なデータが平気で通用しているのが困ったものです。

飯田 日本の場合はそこが電力の独占で守られているんです。そして、もうひとつの重要な問題は不公平な建設仮勘定という仕組み。これは、原発を作り始めたら電気料金からコストを回収できるという、常識では有り得ない制度です。

小林 それは、有り得ないんですか?

飯田 普通の社会で考えていくと、商品を届ける前に工場を作り始めたから先に利用料金をもらえないか、という話ですから。

飯田 自分の投資リスクは自分で取れ、ということですよね。世の中はみんなそうしているわけですから。また今回の事故ではっきりしているのは、原子力損害賠償制度で支払われる、原子力1基あたりわずか1200億円しかない保険金では、カバーできないほどの巨額の損害が出るだろうということです。しかも、その保険金すら、地震という天災だから支払われない可能性が高い。本来なら、どんな損害が発生しても、電力会社はそれを払えるだけの保険に入るべきだ、という議論が前々からあります。試算の一つとして、もしフランスの原子力発電所がすべての事故の際に青天井に保険金を支払われる保険に入ったとしたら、支払うべき保険料で電気料金が3倍になるという試算がされているんですね。そこまで考えると、日本の役人が根拠もなく計算した原発のコストがいくら安くても、まったく意味がないという話ですよね。

少なくとも、今の日本の原発は、国民が損害賠償を被ることを人質に取って運転されているということなんです。本来コストのことを言うのであれば、国民の税金に暗黙に頼った原子力ではなくて、「再びこんな事故が起きたとしても、その損害は全額保険でカバーできる保険に入りなさいよ」というのが筋だと思うんですね。

これは、例えてみるとこういうことだろう。

競合する二つの航空会社がある。ところが、A社(自然エネルギー航空)はすべてのコストを自分で負担しているのに対して、B社(原子力航空)は、ウチは国策会社だからと、飛行機が墜落した場合の損害賠償は税金で払ってもらうことを前提に経営をしている。しかも、将来投資する分の費用をあらかじめ運賃に上乗せしておく(当然運賃は上がるが、路線を独占しているので嫌でも乗客は払わざるを得ない)というズルまでやっている、という。

全然公平な競争じゃない。その上に、A社の飛行機はB社のような破滅的大事故は原理的に起こし得ない、というオチまでつくわけだ。

 

◆ 日本に原発技術などない

飯田 まず客観的な証拠として、日本は原子力技術を導入してもう50年以上経過しているのに、なぜ今さら、某企業が5000億円も払って、ウェスチングハウスを買収しなきゃいけなかったのか、ということが、すべてを語っています。例えば他の国は最初の頃は原子力技術をアメリカから輸入していたけれども、スウェーデン、ドイツ、イギリス、フランスはみんな自前の設計パッケージを持っています。日本では、設計図面には日本の企業名が書いてあるんですけれども、実態としてはエンジニアリングパッケージと呼ばれるところはどれもGEかウェスチングハウスのものなんですよ。日本の原子力企業は、設計パッケージという本質的な部分を50年経っても作ることができなかったのです。

私は原子力の空洞化についてははっきりと証言することができます。

小林 外側はハイテクに見せかけて、内側はベニヤ板っていうことですか。

飯田 それですね。もうちょっと具体的にいうと、1995年と昨年(2010年)に起きたもんじゅ福井県敦賀市にある日本原子力研究開発機構の高速増殖実証炉)の事故が象徴的です。ふたつの事故はよく似ているんです。1995年は熱電対と呼ばれる金属の温度計が折れちゃった。今回は燃料を扱う肝心機器である炉心の上に落ちちて、にっちもさっちもいかなくなっている。そういう重要部材すら、まともに設計できていない。子会社、孫会社みたいな町工場の下請け的なところに作らせているし、それを設計した人は、原子炉の中でどういう力がかかるかということをまともに計算できていない。燃料の上を通るという極めて重要な部材が簡単なビスで止めるようになっていて、落ちた瞬間にそれが潰れて使い物にならなくなっている。そういう部材はもちろん落ちないように設計されるのが当たり前で、仮に落ちたとしても、復旧可能なようにひとつの塊で作るべきです。そんな素人でも分かることがいくつも積み重なっているんです。

小林 なるほど。

飯田 …国の検査官など、そもそも経験してないから、見るところすらわからない。そういう官僚主義の繰り返しがどんどん膿のようにたまっていって、ふと気づくと、原子力ムラは本当に空っぽで中身がうつろになってしまったんですね。だから、日本には輸出できる原子力のエンジニアパッケージなどひとつもありません。優秀な技術からは程遠いのです。原子力輸出と意気込んでも、日本は下請けとして参加できるに過ぎないという現実がある。

 

◆ どうしようもない「原子力ムラ」の体質

飯田 原子力のキモの部分は、国の安全審査です。今回のような色々な事態が起きても安全であることを計算上でいろいろとシミュレーションします。神戸製鋼から電力中央研究所というところに出向派遣で行きました。そこは電力会社の売上の0.2%が寄附で、およそ二百億円規模の予算で運営されている研究所ですが、ここには2つの側面があります。寄付で運営される財団法人なので、タテマエ上は「中立」という顔で、国の安全審査の委員もやっています。でも実態は、電力会社のお金ですから電力会社に奉仕する研究所という、もう一つの顔があります。理事長などは、みんな多くは電力会社からきていましたから。

小林 はい。

飯田 その前半の側面で、原子力安全委員会のもとで新しい安全技術基準を作るという仕事に携わりました。…最後は、原子力安全委員会からの答申文書も私が書いたこともありました(笑)。その経験を通して、原子力の官僚がどういうマインドや思考方法で仕事をしているのかというのが分かりました。もちろん真面目なんですけれど、彼らの考え方というのは、本当の安全性というよりも、法律の条文の字面をどう合わせるか、なんですね。霞が関文学を駆使した、いわば「文学的安全性」とも言えます。たとえば、マスコミや反対派に突っ込まれないか?という視点で、字面をチェックするだけ。だから今回の事故でも、本当に津波の高さはこの設定で大丈夫なのか、とか津波が来て電源が失われたらどういう安全性を担保できるのか、ということを彼らは真剣に追求したわけではないのです。

 

飯田 …それから、2002年から2003年にかけての、東電のトラブル隠し。あれは、実は全電力会社がやっていたんですけども。

小林 なにを隠していたんですか?

飯田 色々な検査データです。それまでにも全部、内々に誤魔化していたんですよ。それがメディアも含めて、最後は東電が悪いというふうになってしまったんですけど、実は国の原子力安全保安院も同じ穴のムジナなんですよね。そのことがいままでちゃんと伝えられていないのですが、始まりは東電の協力会社の内部の人がトラブル隠しについて、まずは保安院内部告発したんです。そうしたら保安院はそのことを握りつぶしただけじゃなくて、東電に対して「こんなことを言ってきたやつがいるけど大丈夫か」と言ってしまった。それで、内部告発をした人はもう東電の協力会社を退社せざるを得なくなったんですが、そういうホイッスルブロワー(警告者)が現れても、国と東電が一緒に隠ぺいしようとしたんですよね。

 

◆ やはり怖いのは内部被曝

飯田 単純に放射線の被ばくという意味でいうと、確率的な影響の観点から集団でみていくと発ガン率を高めていることは間違いないと言っていいと思います。もうひとつ重要な違いがあって、それが外部被ばくと内部被ばくです。ブラジルとかイタリアなどはもともと自然からの被ばくが多いとか、飛行機に乗って浴びる被ばくというのは、レントゲンと一緒で、外から浴びるものなんですよね。それももちろん発ガン率を高める一因にはなる。でも今、福島原発から放出されて都内などで検出されているのは、内部被ばくを警戒しないといけない。あれは体内に入ってしまうと居座り続ける可能性がある放射性物質なんです。内部被ばくと外部被ばくとでは、根本的に違っています。

α線β線にはその貫通力がなくて、それこそ紙やアルミ箔一枚で防げるので、外部被ばくの怖さはあまりないんです。そのかわり、アルミ箔一枚通り抜けることができないということは身体の中に入ってしまうとそのまま体内に居座り続けるんです。α線というのはヘリウムの原子核β線というのは電子なんですけど、それが体内でDNAをひたすらぶち壊し続けるんです。だから身体に入るとめちゃくちゃ怖いんです。外部被ばくの方は瞬間の話ですから、そこでDNAが壊されても修復されれば終わるんですが、内部被ばくを起こす核種は溜まる場所が決まっていて、話題になったヨウ素131というのは甲状腺に入るから、甲状腺で一定の濃度が入ってしまうとほぼ確実にガンを発症してしまいます。それからセシウムは一旦肝臓を通って、筋肉でいわゆる骨肉腫みたいなのを起こしたり、生殖器のガンを起こしたりしてしまう。

で、ストロンチウムとかプルトニウムは、身体に入ると骨に溜まって、白血病とかを起こしてしまうんですね。ブラジルやイタリアで自然の放射線が高いと言われているのはγ線で、福島原発から放出されて都内で検出されているのはα線β線です。種類が根本的に違うので、福島で検出される放射線のレベルと、たまたまブラジルとが同じだったとしても、怖さはケタ違いに福島の方が怖いんです。

飯田 一応、そういう考えで良いと思います。ただし、その基準が本当に確かな数値かどうかというのはわからないのですが…。もうちょっと細かい話をすると、ICRP(国際放射線防護委員会)の基準というのはかなりゆるいんですね。

放射線疫学の世界ではもっと細かい緻密な理論があって、それのリスクによっては、ICRPよりは10倍以上、発ガン率も含めて高いだろうという学説もあります。ICRPは内部被ばくのリスクを、あまり考慮しないで基準値を出していると言われています。だからICRPの基準よりも低いから大丈夫、とは、必ずしも言えない。

小林 内部被ばくがそれだけ危険だといっているのに、それを捨てているの?

飯田 そのリスクをあまり評価しないで発ガン率を検証して、「このレベルだったら大丈夫」といっているのがICRPの勧告している数値なんです。だから僕はICRPの基準の10倍くらい、厳しくみないといけないと思ってるんですね。

小林 内部被ばくこそ怖いということですよね。やばいじゃない。

飯田 だから「これくらいの数値なら大丈夫ですよ、今日の数値が高くても一年間の平均摂取量で考えれば大丈夫なんですよ」と言われても、その基準としている数値より本当は10倍くらい危険かもしれないということですよね。その不確実性についてちゃんと知っておかないといけないということですね。

 

実際に原子力安全委などの現場にいた飯田氏の話からは、いかにこの国の原子力行政がいい加減に進められてきたのかがよく分かる。

一番怖いのは、原子力行政の根幹に関わる官僚や学者たちが、誰も真剣にすべての危険性を検討しつくさないまま、原発という技術的怪物に関する政策や基準を決めてきてしまったことではないだろうか。

私には、児戯にも等しいというか、ガソリンタンクの隣で子どもが火遊びをするようなことをしてきた結果、起こるべくして起きた結果が今なのではないかと思えてならない。