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桐生市鹵簿誤導事件を知っていますか?

教育勅語や日の丸・君が代を駆使した国家的洗脳教育がどれほど狂った社会を作り出したか。「桐生市鹵簿誤導事件」は、そのささいな始まりと帰結の重大さによって、それを学ぶための良い教材となっている。

鹵簿(ろぼ)とは、天皇や皇族の行列のことを言う。桐生市鹵簿誤導事件とは、昭和天皇が1934年に群馬県桐生市に行幸した際、鹵簿を先導していた警官が道を間違え、訪問先を予定とは違う順序で回ってしまったという「事件」である。いや、本当にそれだけ。事故を起こしたわけでも、死人や怪我人が出たわけでもない。

たかがそれだけのことがどんな騒ぎを引き起こしたか、江口圭一氏の著書[1]から引用する。 

(略)34年11月、群馬・栃木・埼玉の三県下で陸軍特別大演習がおこなわれた機会に、天皇が桐生市などへ行幸することとなった。桐生市は全市あげて準備を大わらわですすめた。天皇に校内を巡覧されることとなった桐生高等工業学校では、早くも6月から準備にとりかかり、行事のまだ二か月以上前の9月2日以降は寄宿寮での刺身などの生物料理を禁止し、チブス予防注射や赤痢予防ワクチンをはじめ、健康診断を再三おこない、校内の清掃・消毒に努め、奉迎の練習をくり返し、万全の準備を終えて行幸を迎えた。

 11月16日朝、御召列車が桐生駅に着き、分きざみで決められている行事日程にしたがって、鹵簿はまず桐生西尋常小学校へ向かった。ところが、先駆車に乗っていた群馬県警部本多重平・見城甲五郎は、極度の緊張に加え、奉拝者で埋もれた沿道の状況が日常とは一変していたため、途中で曲り角を間違え――運転手が間違えたのを見逃したか、間違った指示をあたえたかし――桐生西小の次に行幸が予定されていた桐生高工へ先に歯簿を導き、予定より30分も早く到着してしまった。

 桐生高工では、生徒は校門付近に一応整列していたものの、まだうろうろしているものもいた。校長西田博太郎は本館の二階にいた。そこへ思いもよらず鹵簿が出現したのである。校門のただならぬ気配と、配属将校藤田徳治中佐の「最敬礼」という裂帛の声に、西田は異変をさとった。西田は転がるように二階からかけおりたが、どのようにおりたか自分では記憶がない。とにかく西田が玄関に立ったときには、すでに天皇の車は玄関前に着いていた。しかし天皇はまだ車の中であった。先駆車の間違いに気づいた運転手が気転をきかせてわざとスピードを落としたため、行幸先の玄関に責任者が出迎えていなかったという前代未聞の失態だけはかろうじて免れたのである。西田は、桐生高工『行幸記念誌』に収められている2月19日の講演で、

私が玄関御出迎の間に合ったのは、誠に奇蹟的でありまして、私が一秒遅れれば、大変な事件が起って居ったのであります。……全く心臓が破裂しさうでした。随分ふるへて倒れさうにも思はれ、非常なる胸騒ぎが致しましたが、ぐっと丹田に力を籠め、漸く冷静になり、重大任務を果す事が出来ました。

と述べている。

 ともかく、桐生市の行幸は終わり、天皇は16日正午前の列車で次の行幸地足利市へ向かった。しかし先駆車の運転手は精神錯乱状態となり、両警部は自宅で監視のもとに謹慎した。本多は先駆の時の制服のまま端座し、御召列車が前橋を出る18日朝まで一睡もしなかった。その18日の朝、本多は妻子を無理に奉送に向かわせ、監視の2名にも「自分に代って奉送してくれ」と再三懇願して家の表に出し、一人になると、御召列車の発車を知らせる花火と同時に、日本刀でのどを切り、自殺をはかった(一命はとりとめた)。

 桐生市長・市会議長・織物同業組合長から11月21日連名で市民に「謹告書」が発せられ、翌22日、御召列車が桐生駅に着いた時刻である午前9時41分に、全市民がお詫びの黙祷をささげることとした。当日はサイレンを合図に、官庁・学校・会社。家庭から通行人にいたるまで、全市民がいっせいに宮城の方角にむかって一分間の黙祷をし、市長・市会議長は宮内省へ出頭して、お詫びの言上執奏を願った。また県知事以下の関係者は懲戒処分をうけた。

 

たかが道順を間違えただけで「死んでお詫びをするしかない」と思い詰めるほど、「現人神」天皇への畏怖と崇敬の念は、当時の「臣民」の肉体と精神に深く刻み込まれていたのだ。

しかし、「現人神」天皇は、どれほど崇敬してみたところで、臣民を救ってはくれない神だった。 

 この事件は、天皇がどれほど現人神であったかをまざまざと示している。国民にとって天皇はひたすらに恐れ多く神々しい存在であり、恐耀し畏敬し崇拝する対象であった。そこに支配しているのは超越的な絶対者にたいする畏服の念であり、人間的な敬愛、尊敬、親近といった感情がはいりこむような余地はなかった。したがって、天皇への畏服はしばしば国民の真情から遊離した外形的な儀礼となったが、同時に、学校教育などを通じて徹底的に訓練された結果、その外形的儀礼は天皇――最敬礼という条件反射をおこすまでに肉体化されてもいた

(略)

 しかし天皇をどのように崇めてみても、国民は天皇によって現世の救いをあたえられなかった。興味深いのは、桐生高工の西田校長が、先に引用した講演で、

世の中に、神様の御護りのある事を疑ふ人もありますけれども、私の今回の事は、神護即ち神のお助けがあったものと、感謝致して居ります。早速御還幸の後、天満宮に御礼に参りました。

と述べていることである。西田を加護し救済するのは天満天神(菅原道真)なのであって、現人神ではなかったのである。

 国体は重くはあったが、空疎であった。(略)


ただの人に過ぎない天皇を「現人神」に祭り上げるというフィクションから出発し、そのフィクションへの信仰を、幼少期から始まる徹底的な訓練(正しい日本語ではこれを「調教」と呼ぶ)によって肉体化するまでに叩き込む。そんな虚構の上に虚構を重ねて作り上げた空疎な「国体」が、やがて狂気を孕んで暴走し、破滅に至るのは必然だったと言えるだろう。

[1] 江口圭一 『昭和の歴史(4) 十五年戦争の開幕』 小学館 1988年

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