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天下晴れての人殺し

関東大震災時の朝鮮人虐殺について、殺害現場を見たという証言はかなりの数が残されているのに対して、「オレがやった」という加害証言はほとんど見当たらない。

いったん狂乱状態から醒めてしまえば、自分の手で人を殺したという告白が容易にできないのは当然だろう。しかし、その最中には、まさに公然と「殺し」が語られていた[1]。

 なにしろ天下晴れての人殺しですからね。私の家は横浜にあったんですが、横浜でもいちばん朝鮮人騒ぎがひどかった中村町に住んでいました。

 そのやり方は、いま思い出してもゾッとしますが、電柱に針金でしばりつけ、なぐるける、トビで頭へ穴をあける、竹ヤリで突く、とにかくメチャクチャでした。

 何人殺ったということが、公然と人々の口にのぼり、私などは肩身をせまくして、歩いたものだ。

  
そうした「天下晴れての人殺し」告白の貴重な一例が、横浜市役所の編纂による『横浜市震災史』(1926年)に記録されている[2]。

遭難とその前後     東京朝日新聞記者 西河春海

(略)

 これは三日の午後、中村町の方へ、同僚の安否を訪ねての帰りにあの日の豪雨に会ひ、千歳橋停留所附近に焼残ってゐる電車の中へ雨を避けた。その時の話しである。

 電車の中には、一の家族がゐた。焼けて赤くなった釜や瓶に詰められた水や、破れた七輪などもあった。そして車掌室は家族の為めの勝手となり、座席はベッドともなり、居間の用を為してゐる。

 われわれと一所に四・五人雨宿りの為めに入って來た。労働者風の硬い筋肉をした真黒の髭男が、その仲間と話してゐる。

 「みな焼いて置いて、今度は水攻­めと來やがる。」 「ハッハ………何うとも勝手におなりなさいさ。」

 男はウスキーを持ってゐる。

 「何うです、旦那一ぱい………。

 髭面が出してくれた茶碗に水を汲んで、それにウィスキーを二三滴たらして飲んだ。足が痛み出して堪らない。俄に降りつのって來たこの雨が、いつまでも止まずにゐてくれると好い、とさへ思った。

 「旦那、朝鮮人は何うですい。俺ァ今日までに六人やりました。

 「そいつは凄いな。」

 「何てつても身が護れねえ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでサア。」

 雨はますます非道くなって來た。焼跡からはまだ所々煙が昇つてゐる。着物も、傘もない人々は、焼跡から亜鉛の焼板を拾つて頭に翳して、雨を防ぎながら、走り廻つてゐる。

 凄い髭の労働者は話し續ける。

 「この中村町なんかは、一番鮮人騒ぎが非道かつた。一人の鮮人を掴へて白状させたら、その野郎地震の日から十何人つて強姦したさうだ。その中でも地震の夜、亭主の居ねえうちで、女を強姦してうちへ火をつけて、赤ん坊をその中へ投込んだといふ話しだ。そんなのは直ぐ擲り殺してやったが………。」

と言ふ。

 「電信柱へ、針金でしばりつけて、………焼けちゃって縄なんか無えんだからネ………。

 そして擲る、蹴る、鳶で頭へ穴をあける、竹槍で突く、滅茶々々でサア。しかしあいつ等、眼からボロボロ涙を流して助けてくれつて拝がむが、決して悲鳴をあげないのが不思儀だ」

といふ。 底にたぎる情熱を持つて、決して死をも恐れず、黙々として寧ろ死に向ふといふ朝鮮の民族性が考へさせられる。

 「けさもやりましたよ。その川っぷちに埃箱があるでせう。その中に野郎一晩隠れてゐたらしい。腹は減るし、蚊に喰はれるし、箱の中ぢやあ動きも取れねえんだから、奴さん堪らなくなって、今朝のこのこと這ひ出した。それを見つけたから皆で掴へようとしたんだ。」

 昔、或る国に死刑よりも恐ろしい刑罰があつた。それは罰人を身動きの出来ないやうな、三尺四方位の箱の中に入れて、死ぬまで動かさずに生かして置くといふのだ。俺はそれを思い出しながら聞いてゐた。

 「奴、川へ飛込んで向ふ河岸へ泳いで遁げやうとした。旦那石つて奴は中々當らねえもんですぜ。みんなで石を投げたが、一も當らねぇ。でとうとう舟を出した。ところが旦那、強え野郎ぢやねえか。十分位も水の中へもぐつてゐた。しばらくすると、息がつまつたと見えて、舟の直きそばへ頭を出した。そこを舟にゐた一人の野郎が鳶でグサリと頭を引掛けてヅルヅル舟へ引寄せてしまつた。………丸で材木といふ形だアネ。」
といふ。

 「舟のそばへ來れば、もう滅茶々々だ。鳶口一でも死んでゐる奴を、刀で斬る、竹槍で突くんだから………」

 ああ、俺には此の労働者を非難できない。何百といふ私刑が行はれたであらう。しかし総てが善悪の意識を超越して行はれてゐる。非難すべきでもなく、さるべきでもない。暗然たる淋しさのみが心を領してゆく。(略)

 
ヒゲ男は、捕まえて惨殺した朝鮮人が強姦や放火殺人を白状したと述べているが、これが嘘であることは、震災当時犯罪捜査に当たった警視庁幹部の発言神奈川警備隊を指揮していた奥平俊蔵陸軍中将の手記に照らし合わせれば明らかだろう。

朝鮮人の噂は何所から出たか今も消えぬので弱る
大元は横浜らしい

 

警視庁木下刑事部長は勿論実際捜査の任に当たつた小泉捜査課長も「朝鮮人にして日本人を殺した者は一人も無い」と断言してゐるが、それにしても鮮人に関する極端に奇怪なる流言は何処から来たのか、ずいぶん苦心して調べてゐるらしいが未だにはつきりした出所がわからない。

木下部長は「何んでも流言の元は横浜なのであるがそれ以上にはつきりしない。従つてどんな種類の人間が流言の口火を切つたのかもわからないが流言に驚いて横浜東京間就中(なかんづく)六郷附近などで無暗に警鐘を打つたりしたのが流言を産むの結果となつたものである。未だにこの流言は無くならず、色々な風説に形ちを変へては出て来るので実は困つてゐるのだ。…」と云ふ。(読売新聞 1923年9月15日)

奥平俊蔵著/栗原宏編『不器用な自画像』(柏書房、1983年)

 

騒擾の原因は不逞日本人にあるは勿論にして彼等は自ら悪事を為し之を朝鮮人に転嫁し事毎に朝鮮人だと謂ふ。適々市の郊外に朝鮮人多かりしを以て朝鮮人暴動の噂を生み迅速に東京其他の各地に伝播せるものにして、朝鮮人襲来と称し人心に大恐慌を来せる発起点は横浜なるものの如し。横浜に於ても朝鮮人が強盗強姦を為し井戸に毒を投込み、放火其他各種の悪事を為せしを耳にせるを以て、其筋の命もあり、旁々之を徹底的に調査せしに悉く事実無根に帰着せり。

  
この男は、いかに蔑視していた朝鮮人のこととはいえ、人殺しを他者に語るためには一定の正当化を必要としたのだ。もちろん実際には、その日の朝ゴミ箱に隠れていた男を殺したときと同じように、問答無用の虐殺だったのだろう。

それどころか、奥平氏が述べているように、殺された朝鮮人が「白状」したという犯行を行ったのは実はこの男を含む日本人暴徒だった、という可能性さえある[3]。(注:記事中の「○○」は「鮮人」の伏字。)

巡査と囚人と自警団が 一緒になって殺人
死体は全部火中に投じた 横浜の暴行事件発覚

 

9月2日3日の両日昼夜に亘って横浜市中村町中村橋派出所付近を中心として根岸刑務所を解放された囚人廿余名と同町自警団が合体し○○十余名を殺害し遂には同所を通行した避難民や各地から来た見舞人十名を殺し所持の金品を奪った上死体は或は針金で両手両足を縛って大岡川へ投込み或は火炎の中へ投げ焼却して犯跡を隠蔽せんとしたが奇怪なのは某署の警官数名も制服帽でこれに加はり帯剣を引抜いて傷害せしめたといふ噂で被害者中には鶴見町から見舞に来た二名の外元自治クラブ書記吉野某も無惨の死を遂げてゐる。(報知新聞 1923.10.17)

横浜だけでなく、関東一円で、こうした暴虐の嵐が何日も吹き荒れたのだ。
 
[1] 山田昭次 『関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任』 創史社 2003年 P.209
[2] 横浜市役所市史編纂係 『横浜市震災史』 第5冊 1926年
[3] 山本すみ子 『横浜における関東大震災時朝鮮人虐殺』 大原社会問題研究所雑誌 No.668/2014.6

 

関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任

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九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

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