読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。

小学生の恐ろしい作文

子どもたちが関東大震災の体験を綴った「震災作文」

「震災作文」というものがある。

関東大震災で被災地のただ中にあった小学校の子どもたちが、「そのとき」の思い出を書いた作文だ。壊滅状態となった横浜市の寿小、磯子小、南吉田第二小、東京では京橋小や横川小などの文集が残っている。

いずれにも、子どもの目から見た、被災当時の恐怖と混乱が生々しく記されている。


これらの作文の中に、当時「朝鮮人さわぎ」と呼ばれた虐殺事件が何度も出てくる[1]。

「朝鮮人さわぎ」とはいうが、騒ぎ回って人殺しを繰り返していたのは日本人の官憲や自警団であり、朝鮮人たちは理由もわからず一方的に殺されていたのである。そうした状況は、次の作文(磯子小高等科1年男子)からも読み取れる。当然ながら、「不逞鮮人」に家族や知人が殺されたなどという話は一例もない。

 夜も明けた。人々は井戸のそばへ顔を洗いに来る。だんだん明かるくなって来るにつれて人々は小さな木の様な物を持ってきて、家を立て始める。やがての事、朝鮮人が暴行して居る、と云う事を盛んに聞えて来る。又焼け残りの家の中へ爆弾を投げこむ、と云う事も聞えて来る。だんだん日も登って昼頃になった。日本人は片腕に赤いきれをしばりつけ、日本刀、竹槍、鉄の棒等を持って朝鮮人を防ぎにいった人々の話を聞いて、附近の人々は鳶等を持って警戒した。夕方になると、ピストルを放す音がおそろしい程に聞えて来る。僕の家の前の小山を見ると、日本人が朝鮮人を追いかけるのである。朝鮮人の逃げ行有様を見る。すると朝鮮人が火薬倉庫に火を附けた。と云う事を聞いて、僕と母あわてて裏の物置に入った。しばらくして出て見ると、それはいつわりであった。夜になると、陸船ママ隊が上陸した。そして野原の前を通った時、万歳万歳の声は天地も裂けんばりであった。その時僕は「これでそ大丈夫」と心の中で思った。陸船隊も通りすぎた。それで人々は、ほっと安心した様子であった。然し猛火はまだ盛んに天をこがしていた。

横浜の震災作文に描かれた朝鮮人虐殺

以下、横浜の震災作文の中から虐殺関連部分を抜粋する。

寿小 学年不明 男子

(略)二日の日の夕ぐれに雨が吹ママり出した。其の日の前夜、鮮人さわぎとなった。僕のやしきのうらに鮮人が二人殺されていた。夜が明けてから僕と母二人でやけあとへ来て見ると、市内はやけ野原であった。人々は、氷ややけかんづめなどをもって来る。はらがすき、のどがかわいていたので、氷をもらってたべながら、わがなつかしき家の後を見まわって、しっている人と震災の話をして、ともになきあった。(略)


寿小 学年不明 男子

(略)僕はねえさんと弟といもおとをつれて、山ににげたが、だんだん日がくれて.米をはないためおなかがすいてきたが、たべるものがないから、そこにあったとんもろこしをおり、それをなまでたべていたが、夜となると、あちらでもこちらでも朝鮮さわぎとなってきたから、僕が竹やりをもってまわりをかこっていると、むこうでは朝鮮人をころして万歳々々とさけんでいる。そおすると、又むこうで、朝鮮人が行ママたぞと云うと、「ずどん」と一ばつうったから、僕はおどろいて、一正ママけんめい又まわりをまもっていると、すぐまいに朝鮮人がいたと云うを、みんなは「はあー」とさけんで、たちまち朝鮮人をやすけ、僕は人ママあんしん。遠をみるとまたどんどんもえているが、まもなくけいた。(略)


寿小 5年 男子

(略)そのうちにおひるになりました。おひるごろ前の家がもえはじめました。そして、木の後にかくれていました。前の内ママは、もえおちてしまった後で、僕は水をさがしました。そして、さがしている内に、五時ごろになりました。そしたら、よその人が朝鮮人がくるからはやく内にかえりなと、しんせつにいってくれました。僕はおどろいて、あおくなって逃げました。内へ行ってみると、しばの上で朝鮮人がころされていました。そして、しばらくするともう十時でした。それからねてしまいました。


寿小 5年 男子

(略)二日目の朝、また焼あとを見物しにいきました。橋などは落ちて、渡れないので、鉄かんをわたって行きました。川には人が火ぶくれになって死んでいました。また岡には黒こげになって死んで居る人もありました。余りのどがかわいたので焼あとを掘ってのみました。それから夜は、又朝鮮人のさわぎなので、驚ろきました。私たちは三尺余りの棒を持って、其の先へくぎをつけて居ました。それから方方へ行って見ますと、鮮人の頭だけがころがって居ました。(略)


寿小 5年 女子

(略)だんだん暗くなってきて晩になった。

 私は焼けている方を見ていた。するとそばにいた人々が、朝鮮人がまだ焼けていない家へ石油をかけて火を着けて居ると言って話をして居た。

 後の方では、朝鮮人が人を殺ろしたり、あばれたりしていると言って話をしているうちに、朝鮮人が来たからお集つまりなさいと言っているので、おっかなくて身がぶるぶるふるえていた。

 真暗でたださわいで居るのであった。

 早く朝になればよいと、ただそればかり思っていた。だんだんと明るくなってきたので、うれしくてたまらなかった。

 お腹がすいてたまらないので、姉さんと二人で近所の所を見に行った。けれどなにも売っていなかったので、兄さんと姉さんがお母さんたちはどこに居るかと思ってさがしに行ってくれました。

 丁度其の時、朝鮮人が逃げて来て、後から丸たん棒や色色な物を持って追っかけて来て、其の朝鮮人をぶっていた。其の中の一人の朝鮮人は死んでしまった。後の一人は頭の真中から血が流れて来た。

 少したって姉さんはおむすびを持って帰って来た。


寿小 6年 男子

 九月一日の日に学校から帰って昼食をしていると不意に大きな地震となって、家屋は潰れて下敷となりましたが、家の職人に出してもらった。

 向うを見ると、もう火の手は上ったようなので、早速石川学校の上の山へ上って下を見渡すと、もう下町は火の海のようであった。(略)行きついた時はもう日が暮れていました。暗い向うの空を眺めると赤くなっていました。

 そのうちに鮮人が来るというので、男の人達は皆、棒を持って警衛することになりましたので、僕はすこし安心をしました。其の時向うで鮮人が二、三人殺されました。それっきり鮮人も来なかったので安心をして寝ました。


寿小 6年 女子

 襷を掛かて勝手事に余念なかりき時であった。悪魔でも踊り出したかと思わるる様な震災は天地を揺り出した。(略)父の言葉に家を飛び出た。其時は既に遅く、恐しい猛火はやや遠く四方に迫っていた。(略)地は度々揺れて騒いでいる間に日は落ちた。仕合わせに、自分の家は残された。が倒れ掛った我が家には入れず、バラックの中でうずくまった「朝鮮人」と何人かの叫び声に目を覚した。急いで母と一緒に彼岸へ行って見たが目に入ったのは哀れな避難者の群であった。万歳の声に彼岸を見れば、こは如何に大きな朝鮮人の死体、自分も思わず万歳と呼んだ。


寿小 高等科1年 女子

 (略)その夜中頃、地震だ ― 火事だという声がおこった。その内、朝鮮人がぴすとるをもって十五人ばかりきたという事だった。その夜はだれもねず、火をどんどんもして、ばんをしていた。とうとう朝鮮人はこなかった。そのあした、朝鮮人がころされているというので、私は行ちゃんと二人で見にいった。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによって見た。すると、頭はわれて血みどりになって、しゃつは血でそまっていた。皆んなは竹の棒で頭をつっついて、「にくらしいやつだ、こいつがいうべあばれたやつだ」とさもにくにくしげにつばきをひきかけていってしまった。(略)


寿小 高等科1年 女子

 (略)あくる日夜の明けない内に起きて見るとわいわいと男の人がさわいでいるので、母さんにどうしたのと聞くと、きのうの夜、朝鮮人がくるから、ねないで下さい、いいに来たから、きっと朝鮮人かもしれないといった。すると又もわいわいとちかくに聞えました。私は聞ママのする方へ行って見ると、男の人が大ぜいで、棒を持って朝鮮人をぶち殺していました。夜が明けておなかがへったので、おばさんと一所に山を下りて、食物をさがしに行きましたが、売っていませんでした。しかたなしにもとの所へ帰って来ました。帰る途中よその人が、おいしそうに食べているので、私はたべたくてたべたくてたまらなかった。(略)其の内にお父さんはおはちを持って帰って来ました。それを私達はよろこんでたべました。


寿小 4年 男子

 (略)うちはつぶれおおさわぎでした。するとむこうのほうから火がでましたので、わたしはびっくりしてぼうづ山へでました。(略)そのあくる朝おきてみると、みなさんがたが、みなぼうをもっていました。なんでぼうをもっているのかとききますと、朝鮮人がみなをこまらすからこのぼうでつついてやるんだといいましたのでした。ではわたくしに一本おくんなさいといってもらいました。それで兄さんといっしょにでかけました。するとみなさんがたが、朝鮮人をつついていましたから。わたくしも一ぺんつついてやりましたら、きゅうとしんでしまいました。またその人のあとをついていくと、またちようせんじんがぴすとるをもってうとおとしていましたからにげてきてしまいました。


寿小 4年 男子

 (略)けいばじょうのすぐそばのはたけにいっていもをとってきた。とちゅうまきやからまきをとってきて、それをもしてごはんをたいた。又は朝鮮人が川ママ戸の水の中へ毒をいれるといったのでしんぱいいしましたけれど、なんともありません水でしたので、それをくんでのんだり、ごはんをたいたりした。それから朝鮮人を十人ぐらいみました。ちはたくだくながれている。ぴすとるをもって人をうちころすのでありますから日本人はすぐてつのぼうで朝鮮人の頭をなぐってころしてしまいました。夜は朝鮮人だとさわいでいるので私はびくびくしていた。(略)


寿小 4年 女子

 (略)その中に朝鮮人のさわぎで又一しきり心配になってしまいました。それからはねむる事も出来ません。とうとう夜の明けるのをまっていて、夜が明けるとすぐ焼跡へもどりましたが、おかあさんのすがたは一こう見えません。(略)学校へはいりましたが、昼頃又大きいのがあって、天じょうにひびが入りましたので恐れてうらの原へ行きました。(略)そしてあそんでいたら向からかあさんのすがたが見えましたので、私はかけよって泣きすがりました。そして、きがらちやのおむすびを半分たべて、よろこんであるき久保山へ行くとちゅう朝鮮人のころすのをたくさん見ました。そして久保山で一ばんよじくしました。それから翌日、かあさんと私と山へさつまいもをほりに行きました。そしてふかしてみんなでたべました。


寿小 5年 男子

 (略)不安な一夜は明けた。父と小僧はすぐ食物をさがしに出た。三十分許り立つと焼けたかん詰を十個許りもって来た。皆でそれを飯ママべた。それからつれ立って港橋を渡り二丁許り来て自分の家の焼跡を見た。又新しい涙が出て来た。それから寿学校へ来て、こわごわながら中で休んでいた。そこへ父の友達が来て「君、磯子の僕の家へ来給え」と親切に云われたので「随分大へんだな」と思ったが勇気を奮って歩き出した。その途中真黒にこげた死体。水に浮いている死体。鮮人を殺している所……書く事の出来ない悲凄な所を見た。ようようの事で磯子へ着いた。そこの家でも表へ幕を張って其の中にいた。中に入ると玄米のむすびを一つづつくれた。それを飯べた時の美味さは今も忘ない。その真夜中「それ、鮮人だー」という声々共にピストルの音が二発聞こえた。皆驚いて飛起きた。それから少しも寝なかった。その中に夜がほのぼのと明け離れた。その日から磯子青年団の人達が玄米のおかゆを皆に飯くさしてくれました。僕は三度三度其所へたべに行きました。


寿小 学年不明 男子

 (略)そしていよいよ夜になりました。すると朝鮮人が三百人来るとか三千人来るとかいって大さわぎになりました。そして□不明七時頃□不明の中を歩るいて居ると朝鮮人が立木にゆわかれ竹槍で腹をぶつぶつさられのこぎりで切られてしまいました。そして其のあくる日からはかんごくのざい人が来て朝鮮人をふせいでくれました。(略)


寿小 学年不明 男子

 (略)それから其夜中頃になると朝鮮人さわぎになった。僕は夜が早く明ければよいと思っていた。其中に夜がだんだん明けて来たのでほっと息をつきました。すると僕の前で朝鮮人が一人皆にたけやりで殺されました。それから親類の人にげんまいと白米のおむすびをもらいました。其のおむすびをむちゅうで食べてしまいました。(略)其の昼頃朝鮮人が井戸へ毒を入れたというのでこれでは飲料水ものめなくなったというので舎田ママへ親類中の者といつてしばらく舎田にいました。


磯子小 4年 男子

 (略)僕はそれからよがあけると、みんなが僕の家はみんなが水をくみにきました。うちではおくみなさいといいました。それから、朝鮮人が大ぜいきました。それから刀槍薙刀や槍やで朝鮮人をのこらずころしてしまいました。それから、二、三日たって、朝鮮人をころしたからもういません。僕たちはやといいきました。僕のおとうさんも青年男で、まいにちやけいにいきました。(略)


磯子小 4年 男子

 (略)それから、又この家を出て、こんどは工場へいった。工場にはたくさんな人だった。又朝鮮人のさわぎでした。それからだんだん工場もいそがしくなってきたからといってくれましたから工場のえいの中にはいっていた。こんどは朝鮮人もころされて川からながれてくるのを見ると、きみがわるい。それから学校も出来たから学校へいって友だちとあそべました。(略)


磯子小 5年 男子

 (略)朝おきて見るとまっかになっていました。すると朝鮮のやつだと山でどなっていました。僕は又こわくなって家へはいってしまいました。すると見ながボウをもって、てにあかいきれをまいていました。僕はぼうをもってあそんでいると、一人の朝鮮人がしんでいました。僕はぼうでぶってにげてきました。(略)


磯子小 5年 男子

 九月一日に大地震が寄ママった。はっと思うと家はつぶれた。(略)それで一日の夜はとっぷりと暮れた。その夜、鮮人があばれこんで来たので大人の人が太い棒で頭をなぐったらたおれて死でしまった。其の夜、北方の方はまさに燃えて居た。近所の人が鮮人が来たと言ったので、大人の人は棒を持って待って居ると、鮮が来のでなぐり殺した。それで其の夜は鮮がこなかったので、大人の人は寝た。そのうちに鮮が来たと言うので又目をさまし、大人の人は棒を持って待って居ると鮮が来たのでなぐり殺してしまった。それからこわくなってしまった。


磯子小 5年 女子

 (略)又二日になると朝鮮人におわれていました。近所の人々はみなやりをもったり刀をもったりして朝鮮人のくるのをまっていました。小さな子は朝鮮人がくるといってなくやら大さわぎでした。人の語をきくと、もう朝鮮人が一人おさまってころされようとしているということをききました。私はぞくっとしましたが、すこしたつと、又幾人をさったという人の声に私はそのたびにぞくぞくとしてきましたが、今になったらばちがよいと思います。(略)私は橋の下の方に朝鮮人がしんでいる所を見ました。頭がなくているのを見ました。


磯子小 5年 女子

 (略)それから二日ころになるとちょうせんじんがにげたので、みんなおとなのひとは、てつのぼうをもってちょうせんせいばつにいきました。それからかんごくのかんしたちはみんなぺすとでつたり、てつのぼうでころしたり、それからそのころしたちょうせんをかんごくまえのうみへながしました。(略)


磯子小 6年 男子

 (略)又モオソロシイ朝鮮人ノサワギ。世間一パン武器ヲツカイ、朝鮮人トタタカイ、マルデ戦国時代ノヨウデアル。朝鮮人ノ死体マルデ石ガコロガッティルヨウデアル。(略)


磯子小 高等科1年 男子

 (略)三日になると朝鮮人騒となって皆竹やりを持たり刀を持たりしてあるき廻った。其おして朝鮮人を見ると、すぐ殺すので大騒になった。其れで朝鮮人が殺されて流れてくる様を見ると、きみの悪いほどである。又食料を見つけにいったりして其れたべていたのである。朝鮮人騒は約二週間の間であった。(略)


磯子小 高等科1年 女子

 (略)二日の朝となった。水もなく顔もろくに洗う事が出来ない。その内に朝鮮騒ぎとなった。道行く人は誰も彼も竹槍や刀を持ちていない者はない。此処彼処で人の大声が聞えて来る。其の声が何となく物凄い。

 山の方を見ると朝鮮人が坂をドンドン駈登るその後から巡査が追駈けて行くが、途中で滑ったりして中々追つかない。私は巡査が滑るのを見ると朝鮮人がにくらしくてたまらない。

 此んな風なので女は一切道を歩くに一人では歩かせなかった。

 本当に可愛そうな話がある。それは男であるが、老人であるので兵隊さんに何かいわれたが物のいい方が遅い為に殺されたそうだ。こんなのは真に気の毒である。きっと朝鮮人のようなかっこであるからまちがえられたでしょう。又おしやつんぼも多分あの中間に入ったかわからない。家の前の川へは毎日五、六人位い朝鮮人が何ともいわれぬ色に染って浮いて来る。時には流のぐ合により毎日一所に止っている事等があるので見まいとしても見えてしまうので、ご飯のたべられない上に余けい口に入いらない。(略)


磯子小 高等科1年 男子

 (略)九月二日は又恐ろしかったのは朝鮮人騒であった。鮮人があばれたといって巡査や又人々が刀や竹やりなどをもって鮮人せいばつだといっていた。僕はその日の夜もろくにねむれなかった。今思うと二日の日はこわかったなあとかんじる。

 九月三日は僕は天神橋の方へいって見たら、鮮人がほり割の川に二三人の鮮人が死んで流れていた(略)

作文には朝鮮人への同情も虐殺への怒りも見えない

これらの作文が書かれたのは震災直後ではない。三ヶ月から半年ほどたった後のことである。当然、「不逞鮮人」による殺人や爆弾、投毒といった噂がすべてデマだったことは、既に明らかになっていた。にもかかわらず、これらの作文には、いわれなく殺された人々への同情も、大人たちの残虐行為への怒りも、ほとんど見ることができない。

ほぼ唯一の例外と言えるのが、「あゝ鮮人」と題された、榊原八重子さん(寿小高等科1年)の作文である。

三、恐ろしき夜

(略)やっと皆んながねむりについた頃、がやがやという人声がきこえて、此方へ来るようであった。(略)私達のねている前へ来ると、土びたにぺたつとすわった。こっちでねている人はたいがい目がさめてしまったから、其の人の様子をいきをこらして見ていた。「私朝鮮人あります。らんぼうしません」といいながら、私達の方に向って幾度も幾度も頭をさげておじぎをしました。そこへ大勢の夜けいの人達が来て、其の朝鮮人に向って頭のような人がそばによって、「これお前はさっきいろといった所にいないでこんな所へ来たのだ」「私さっきの地震おっかない事あります」「うそいえ、そんな地震はいつあった」朝鮮人はだまっていた。(略)「おい」「はい」「さっきけいさつのだんなと立ち合った時には何んにも持っていないといったが、今お前のもっているのは何だ」(略)「これはさっきもらった米です」「そうか見せろ」「いえだめです」「何がだめだこれでもか」といいながら、こしにさしてあった日本刀をぎらりとぬいて、朝鮮人の目の前につき出した。朝鮮人はそれでも大事そうに小さい油紙につつんだ物をはなそうともしなかった。私は心の中で早く出せばよいのに、たかがお米なら中を開いて見せてやればよいと思った。いつまでたっても返事をしないので、こん度は大勢の人が日本刀でほうをしっぱたいたり、ピストルを向けたりしても鮮人はだまっていた。さっきの人が鮮人に向い「おいだまっていちゃあわからねえよ、なんとかしねえか」と、いって刀をふり上げて、力まかせに鮮人のほほをぶった。その時に月の光が輝やいて、そのすごさといったら身の毛もよだつくらいでした。いくらなにをされても鮮人は一言もはなさなかつた。(略)「おいしかたがねえから、けいさつへ行ってだんなの前でお話をしろよ」そういいながら大勢でよってたかってかつぎ上げて、門の方へと行ってしまった。行った後はやはり水をうったようにしんとしていた。私は翌朝までまんじりともしなかった。

四、いづこの地に

 東の空がだんだん白らんで来る頃、私は松山へ行こうと思って足をはやめた。寿けいさつの前を通りこそうと思うと、門内からうむうむとうめき声が聞えて来た。私は物ずきにも、昨夜の事などはけろりとわすれて、門の内へはいった。うむうむとうなっているのは、五、六人の人が木にゆわかれ、顔なぞはめちゃめちゃで目も口もなく、ただ胸のあたりがびくびくと動いているだけであった。

 私はいくら朝鮮人が悪い事をしたというが、なんだかしんじようと思ってもしんじる事はできなかった。其の日けいさつのにわでうめいていた人は今何地(どこ)にいるのであろうか。


琴秉洞氏は、震災作文史料の解説の中で、次のように書いている。

 当時の小学児童の率直な感想は、震災は大変恐かった、しかし、震災以上に恐かったのは「朝鮮人騒ぎ」である、ということである。

 何よりも、児童の作文自体がそのことを証明するであろう。

(略)

 横浜市内は朝鮮人虐殺のもっとも甚だしかったところだが、寿小学校・磯子小学校区域もその例に洩れない。児童ながら、虐殺の目撃証言の多いのもその故であろう。また、作文が、被殺例に触れている比率も他校の作文よりは、はるかに高い。

 それに、折角、作文を書かせながら、戦前の段階ですら、公刊することが憚かられたのも、その目撃記述のあまりの生々しさからくるのではあるまいか、とさえ疑いたくなる程の迫真性がある。

 今更ながら、児童の確かな眼と、感受性の鋭さを知ることが出来るし、また、為政者の政策が、如何に純真な児童たちに浸透してゆき、児童たちもまたこれに従順に反応しているかがよく判る典型例のようなものでもあろう。小学児童の、朝鮮人迫害・虐殺目撃証言としては白眉といえる。

 しかし、寿小学校児童の作文を読み進んで、暗然たる思いを禁じることが出来なかったのだが、高一の榊原八重子さんの「あゝ鮮人」の文に接した時、私は救われたような気持になった。

 いくら、朝鮮人が悪いことをしたのを信ぜよと云われても、信じることができない、というあの文章である。

 彼女は、朝鮮人騒ぎの最中に逃れてきた一朝鮮人をみて、すぐれた直感力と、心根の優しさで、その無実なるを自得していたのである。これが、あの嵐のような、それこそ圧倒的力で押しつけてくる朝鮮人「暴徒」論をはねつけたのである。

 なろうことなら、大人たちにこの八重子さんの総明さと優しさの何分の一かが欲しかった。大人たちが、それを持たなかったばかりに、為政者の意のままになり、未曽有の大惨劇を演じてしまったのである。

 私には、その後の八重子さんの人生行路を知る由もないが、あのすぐれた直感力、そして透徹した眼と優しさは、きっと、自身とその周辺を、常に心豊かにしていったに違いないと信じている。


しかし、当時の大人たちだけでなく、大多数の子どもたちにも、八重子さんのような優しさや感受性はなかったようだ。私がこれらの作文で一番恐ろしいと思ったのは、虐殺現場を見た話が、当たり前のように「おなかがへった」「おにぎりをもらった」「夢中で食べた」といった話と並んで書かれていることだ。朝鮮人の死には、空腹時にもらったおにぎり一個と同程度の重みしかなかったのだ。

[1] 琴秉洞編・解説 『朝鮮人虐殺関連児童証言史料』 緑陰書房 1989年

【関連記事】

 

関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―虐殺の国家責任と民衆責任

関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―虐殺の国家責任と民衆責任

 
九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響

 
関東大震災と朝鮮人虐殺―80年後の徹底検証

関東大震災と朝鮮人虐殺―80年後の徹底検証

 
風よ鳳仙花の歌をはこべ―関東大震災・朝鮮人虐殺から70年

風よ鳳仙花の歌をはこべ―関東大震災・朝鮮人虐殺から70年

  • 作者: 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し返悼する会
  • 出版社/メーカー: 教育史料出版会
  • 発売日: 1992/07
  • メディア: 単行本
  • クリック: 2回
  • この商品を含むブログ (1件) を見る