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『ゴキの墓に』 ― 猫を愛するということ

 

先日の記事「龍胆寺雄と猫」の中で、龍胆寺が早逝した愛猫ゴキの死を悼んで書いた詩『ゴキの墓に』を紹介した。

このときは猫雑誌からの断片的な紹介しかできなかったが、ようやく図書館でこの詩が収録されている全集[1]を見つけることができた。一人で読んで終わりにするのはもったいないので、全編を書き写しておく。

 

ゴキの墓に

 

ゴキよ おれはおまえを

小ベルの小屋にちかい

日あたりのいい垣根のところに

埋めよう

昼間はあたたかいし

夜は 小ベルがそばにいて

淋しくなかろうから

 

お墓はつくらない

おれはお墓はキライだし

愛するものから餞別はなむけられた

存分の涙で

おまえの野辺の送りは

じゅうぶんだからだ

そのかわりに

一句をここに書きとめておく

    このつぎは

    ひとと生まれよ

        わが家の

 

ゴキよ おまえは

いっぺんもおれから

オコられたことがないので

叱られるというのがどういうことだか

しらないでしまった

オコっても平気だから

オコリようもないのだ

 

ゴキよ おまえは

ばしっこいカアちゃん(母猫のコナミ)とちがって

間ぬけでノンビリしていたから

台所からサカナを盗んだこともないし

おぜんからベーコンを

チョロまかしたこともない

オバちゃんを見ると食欲を起こし

尻っ尾しっぽをオッ立てて甘えて

ご飯をねだりながら

そのくせオバちゃんを案内に立てないと

せっかく作って貰った台所の

ごちそうのそばへも

寄って行かない

 

この三月つきの間に

おまえは重い病気を三度やった

二度はなおって

家じゅうで盛大な全快祝いをやり

おまえは鯛のアタマを貰った

が 結局

病気はよくならなかった

その間 おまえは

食欲がなくなると

おれの手からスプーンで

卵の黄味と牛乳と砂糖のまぜあわせを

むりに口へそそぎ込まれた

おまえもイヤがり

おれもイヤだし面倒くさかったが

この栄養が

おまえをこの三月つき

生かしておいたワケだ

「これを食わないと

 おまえは死んじまうんだョ」と

いつもいいきかせながら ――

ほんとは生きたくなかったのだとすれば

ごめんよ ゴキ

おれはただおまえを

生かしたかっただけなのだ

おれとおまえの

三月つきの間の

難行苦行 ――

この三月つき

のっぴきならぬ用事でおれは東京へ出ても

時間をきめてスプーンで飲ませる

卵の黄身と牛乳と砂糖のまぜあわせの

その時間がとうにすぎて

おまえがおナカを空かせていないかと

そればかり気にしてソワソワと

落ちつけなかったものだ

街で映画を見る気にもなれなかったし

ゆっくりごちそうを食べて帰るよゆうもなかった

おまえの四つの肢あしと尻っ尾しっぽを片手で持って膝に抱いて

口からたれるしずくを受ける干かわいたタオルを腕にかけ

片手でスプーンでコーヒー茶碗の中味をしゃくって

おまえの口を無理に割って飲ませる

ムズかしさ

よごれたタオルをいちいち洗って干かわかして

代替かえをいつも用意しておく厄介さ

おれでなくては出来ないし

でも おまえはおまえで

ともかく一応この作業を肯定して

マズくない顔をして

時々首をそむけ

口に入れられるものを

飲み込んでいた

(もっとも 毒を飲ませてもおとなしく おまえは

 それを飲み込んだろうが)

 

ゴキよ おまえが死んで

この難行苦行から解放されたのを

おれは心のすみでどこかホッとしながら

それはそれで

おれの手のスプーンから

卵の黄味と牛乳と砂糖のまぜあわせ

口を割ってそそいでやる相手が

永久にもはやいなくなったのに

何というムナしさを感じることか

 

けさ早く 夜明け前の午前四時すぎ

軽い痙攣けいれんからはじまる死の発作で病いが急変してから

五時四十分に息を引きとるまで

カアちゃんはおまえのからだじゅうをなめ

おれはおまえを手枕させて抱いてねて

一時間半 脈みゃくをとった

死ぬ直前 おまえは

いつにない大きな眼をあけ

冴え冴えさえざえとした黒い瞳をしきりに左右に動かして

へやの中や

スタンドの灯あかり

おれの顔を

ふしぎにマジマジと長い間

見入っていたな

まるで

そこにみなぎっているすべておまえに向けられた愛情を

その眼で見て

心の中にたたみ込もうとするかのように ――

そして おまえは

しずかにやすらかに

息を引きとった

おれの手のひらのくぼみに

せて軽くなった頬をのせて

 

二年半前の四月三十日のあけがた

おれの寝床でカアちゃんがお産をするのを

おれは手伝って

おまえを生ませた

それと ほぼ同じ時刻に おなじ寝床で

今またおれは

おまえの短い生涯のおわりを

ひとりで こうして看とってやった

かくして今はこのへやは

おまえがいなかった昔にかえったわけだが

それにしては今

このへやにただよっている

虚無と落漠と孤独と切なさは

いったい何がもたらしたものだろう

とまり木をなくした愛情が

瓢々ひょうひょうと空をさまよって

どこかへやがて消えてゆくまでの間の

しばしのオロカしい迷いなのか それとも

ゴキよ おまえが

おれの人生に遺のこしていった

ただ一つのこれが おミヤゲなのか

 

さて

アズキ・アイスの段ボールの箱におまえを入れて

おれの居間の床の間にすえ

オバちゃんがそなえた即席づくりのお線香立てと

ママが 猫にはこれを使いなさいと

『猫』 という字を書いた欠け茶碗におれが水を入れたのをならべ

今おれは 粗末なおまえのお棺かんの方へ頭をむけて

電気按火あんかにゴロリとひとり寝ころんで

この詩を綴っているのだが

寒気さむけがするようなこころのこのムナしさは

一つは十一月末ちかいこの雨空のせいもあろう

この冷たい雨の中で

おまえを埋めるのも忍びないが

さりとて今夜ひと晩枕もとに

おまえを入れた段ボールのお棺をそのまま置くのもちょっとこたえる

軽くフタを開ければ

ただ無心に睡ねむっているのとちっともちがわないおまえが

生きている時とそのままの姿で冷たくなっているのが

眼にはいるからだ

あまり遠くない 『過去』 は

まだ 『現在』 の中にはいるのに

『死』 だけは

その瞬間に

何とはるか無限の遠いかなたにあるのだろう

だが ゴキよ

これはすべておまえのせいではない

おまえはただ生まれて

二年半生きて そして死んだだけだ

お葬式をするのは(こころのお葬式をも兼ねて)

むろん生きている おれのすることなのだ

 

では ゴキよ

さようなら

段ボールの箱の中で

冷たく堅くなってしまった

ゴキよ

さようなら

寝床で もはや二度と

抱いて寝てやれなくなった

ゴキよ

さようなら

 

              ― 25.11.1963 ―

               (冷たい雨の日)

 

詩と一緒に、龍胆寺が撮ったゴキの写真が何枚か載っていた。

 

 

 

横着でのんびり屋で、体を舐めて身づくろいするのもせいぜい三日にいっぺんくらい、鼻の頭に飯粒をくっつけたまま平気でいるような子だったゴキは、猫としてやるべきことは母猫のカアちゃんに任せっきりで、気分はずっと子猫のまま、短いながらも楽しい生を全うしたと言えるだろう。

 

ゴキほどではないとしても、人と比べれば猫の一生は短い。いくら愛情を注いでも、いずれ先立たれるとわかっていて、人はなぜ猫を愛するのだろうか。

たとえば、下の松本英子さんのマンガが、その答えのひとつを示しているのかもしれない。

 

 

[1] 竜胆寺雄全集第7巻 昭和書院 1985.8

 

ウチのハナちゃん

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