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「君が代」とはどういう歌か

昨日、TwitterでTLにこんなものが流れてきた。

 

大嘘である。

こういう嘘がまかり通るのは大変良くないので、「君が代」に関する事実を書いておく。

 

まずは明治初期における制定の経緯について。

大山巌元帥が「君が代」の制定に深く関わっていたことはよく知られている。その大山元帥の証言[1]。

「頃ハ明治三年ノ末若クハ四年ノ初ナリシナラン、薩長其他ヨリ御親兵ヲ出シタ後、未ダ久シカラザル時デアッタ、自分ハ薩藩カラ出タ砲兵ノ隊長ヲ勤メテ居タ時ノ事デアル。外国ノ陸海軍ニハ各々軍楽隊卜云フモノガ有ルニ我国ニハ此頃マデ、マダ、其レガ無カッタカラ、新タニ、之ヲ置カネバナラヌト云フノデ、年齢十六七歳バカリノ青年二三十名ヲ選ンデ横浜二遣り、同地在留英国軍楽隊二就キ練習セシメタ。

 其時、英国ノ楽長某(姓名ヲ記憶セズ)ガ、欧米各国ニハ皆其国々ニ国歌卜云フモノガ有ツテ、総テノ儀式ノ時二其楽ヲ奏スルガ、貴国ニモ有ルカト、我ガ一青年二問フタ、青年ガ之二答ヘテ、無イト云フタレバ、楽長ノ曰ク、其レハ貴国二取リテ甚ダ缺典デ在ル、足下宜シク先輩ニ就イテ国歌トモ為ルベキ歌ヲ作製スルコトヲ依頼スベシ、然ラバ予ハ之二作譜シ然ル後其歌ヨリ教授ヲ始ムベシト。

 此ノ談示ヲ受ケタ青年ハ薩藩ヨリ出タ江川与五郎ト云う軍楽練習生デ在ツタガ、早速自分ノ許二来テ此話ヲ伝ヘタ。

 当時御親兵ノ大隊長ハ野津鎮雄デ、薩藩ヨリ東上シテ居タ少参事ニ大迫某卜云フ人ガ居タガ、此江川与五郎ノ来タ時、適々野津大迫両人ガ来合ハシテ居テ、共ニ其話ヲ聴キ、成ル程我国ニハマダ国歌卜云フモノガ無イ、遺憾ナ事ダガ、是レハ新タニ作ルヨリモ、古歌カラ択ラビ出ス可キデアル卜云ッタ。

 其時自分が云うニハ、英国ノ国歌のGod save the King(神ヨ我君ヲ護レ)ト云う歌ガアル、我国ノ国歌トシテハ宜シク宝作ノ隆昌天壌無窮ナラムコトヲ祈り奉レル歌ヲ撰ムベキデアルト云ヒテ平素愛誦スル『君が代』ノ歌ヲ提出シタ。

 之ヲ聞イタ野津モ大迫モ、実二然リト、早速同意シタカラ、之ヲ江川二授ケテ、其師事スル所ノ英国楽長ニ示サシタ、自分ノ記憶スル所ノ事実ハ右ノ通リデアル。其後如何ナル手続ヲ経テ、国歌御制定二為リシカ、其辺ノ事ハ承知シテ居ラヌ云々」

「国歌二関シ大山元帥閣下ノ談話」(「君が代と万歳」昭和七年刊、所載)

 

続いて、中村祐庸初代海軍楽長の証言[2]。

「明治二年鹿児嶋藩二於テ音楽練習ノ為メ音楽生徒十六名ヲ撰定横浜ニ派遣英人音楽教師ヘントン氏二付練習セシム

 当時藩兵大隊長トシテ川村純義野津鎮雄ノ両氏在京中時々監督ノ為メ来臨セラレタリ当時吾君主ヲ謳頌スルノ楽曲ナキヲ慨歎セラレ種々詮議ノ模様ナリシガ琵琶歌蓬莱ノ曲中ニ最モ尊栄崇敬スヘキ君ケ代卜申ス古歌アリトノ事ヨリ之ヲ申分ナキ歌詞ナリトテ之ヲ撰定セラレタル様記憶セリ」

(大正三年十一月二十七日付、瀬戸口軍楽長宛書翰の一節)

 

ちなみに、大山が愛誦していた薩摩琵琶歌「蓬莱山」とは、次のような歌だ[3]。

「あなたの幸せ」などではなく、君主の治世を褒め称えた歌である。

 

蓬  莱  山

 

目出度やな、君が恵は久方の、光り長閑き春の日に、不老門を立ち出でて『四方の景色を眺むるに』『峯の小松に雛鶴棲みて、谷の小川に亀遊ぶ、君が代は、千代に八千代にさざれ石の、巌となりて苔のむすまで』命長らへて、雨塊を破らず、風枝を鴫らさじと云へばまた『尭舜の御代も斯くやあらん』

斯程治まる御代なれば、千草萬木花咲き実り、五穀成熟して上には『金殿楼閣甍を並べ、下には民の竃を厚うして、仁義正しき御代の春、蓬莱山とは是とかや』君が代の、千歳の松も常盤色、変らぬ御代の例には、天長地久と、国も豊かに治りて、弓は袋に『剣は箱に蔵め置く』諌鼓苔深うして、鳥も中々『驚くやうぞなかりける』

(『注解 薩摩琵琶歌集』 萩原秋彦(龍洋会)による)

 

当然のことだが、天皇と関係なく「あなたの幸せ」を願う歌なんかを明治政府が国歌に採用するはずがないのである。

そしていったん国歌とされると、「君が代」は国民に天皇崇拝意識を刷り込むための道具として徹底的に利用された[4]。

 

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尋常小学修身書 巻四 1937(昭和12)年 文部省発行
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[注: 戦前「君が代」に国歌という呼称がついた唯一の教科書。第4学年用]


第二十三 國歌


「君が代は、
  干代(ちよ)に
  八干代(やちよ)に、
   さざれ石の
 いはほとなりて、
  こけの
   むすまで。」

とほがらかに歌ふ聲が、おごそかな奏樂(そうがく)と共に、學校の講堂から聞こえて来ます。

今日は紀元節です。學校では今、儀式(ぎしき)が始まって、一同、「君が代」を歌つてゐる所です。

どの國にも、國歌とふうものがあつて、其の國の大切な儀式などのあるときに、奏樂に合はせて歌ひます。「君が代」は、日本國の國歌です。我が國の祝日や其の他のおめでたい日の儀式には、國民は、「君が代」を歌つて、天皇陛下の御代萬歳をお祝い申し上げます。

「君が代」の歌は、我が天皇陛下のお治めになる此の御代は、千年も萬年も、いや、いつまでもいついつまでも續いてお栄(さか)えになるやうに。」といふ意味(いみ)で、まことにおめでたい歌であります。私したち臣民が[君が代」歌ふときには、天皇陛下の萬歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります。外國で「君が代」の奏樂をきくときにも、ありがたい皇室をいいただいてゐる日本人と生まれた嬉しさに、思はず涙が出るといひます。

「君が代」を歌ふときには、立って姿勢(しせい)をただしくして、静かに真心をこめて歌はねばなりません。人が歌ふのを聞いたり、奏樂だけをきいたりするときの心得(こころえ)も同様です。外國の國歌が奏せられるときにも、立つて姿勢をただしくしてきくのが禮儀です。

 

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初等科修身 二 1942(昭和17)年 文部省発行
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[注: 国民学校初等科修身 第4学年用]


 二 「君が代」

 

君が代は
  ちよにやちよに
    さざれ石の
いはほとなりて
  こけのむすまで」

この歌は、

「天皇陛下のお治めになる御代は、千年も萬年もつづいて、おさかえになりますやうに。」といふ意味(いみ)で、國民が、心からおいはひ申しあげる歌であります。

 「君が代」の歌は、昔から、私たちの先祖(せんぞ)が、皇室のみさかえをおいのりして、歌ひつづけて来たもので、世々の國民のまごころのとけこんだ歌であります。

 祝日(しゅくじつ)や、おめでたい儀式(ぎしき)には、私たちは、この歌を聲高く歌ひます。しせいをきちんと正しくして、おごそかに歌ふと、身も心も、ひきしまるやうな氣持になります。

 戰地で、兵隊さんたちが、はるかに日本へ向かつて、聲をそろへて、「君が代」を歌ふ時には、思はず、涙が日にやけたほほをぬらすといふことです。

 また、外國で、「君が代」の歌が奏されることがあります。その時ぐらゐ、外國に行つてゐる日本人が、日本國民としてのほこりと、かぎりない喜びとを感じることはないといひます。

 

「君が代」の「君」が天皇ではなく一般的な意味での敬愛する相手だとか言うのは、この歌の果たしてきた、そして今後も果たしていくおぞましい役割を誤魔化すためのすり替えなのである。

 

[1][2][3] 古田武彦 『「君が代」は九州王朝の賛歌』  新泉社 1990年

[4] 大阪教育法研究会 国定修身教科書(日の丸・君が代・靖国神社) 1920〜1942年 文部省


市民の古代 別巻2「君が代」は九州王朝の讃歌

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