関東大震災時、朝鮮人が暴動を起こしているという流言がどこで、なぜ発生したのかについては、あまり良く分かっていない。
はっきりしているのは、そうした流言が早くも地震発生当日(9月1日)午後から横浜(東京の一部地域も?)で発生し、急速に周囲に広がっていったことくらいである。
このうち、横浜での流言発生の状況について、貴重な証言資料があったので紹介する。神奈川警備隊司令官として、壊滅状態に陥った横浜および周辺地域の救援と治安回復に当たった当事者である奥平俊蔵陸軍中将(震災当時は少将)の自叙伝[1]である。
奥平氏は9月3日に横浜方面警備の命を受け、約千名の将兵を率いて芝浦から船で横浜港に向い、翌4日早朝横浜に上陸、以後、25日に後任者に引き継ぐまで以下の地域の警備を担当している。
予の指揮する部隊は神奈川方面警備部隊と称し、其任務は最初神奈川県全部に亘わたり横浜の警備緒に就くに従ひ兵力を推進し馬入川左岸に及びしも第十五師団の部隊小田原附近に来り、次で歩兵第一旅団長の指揮する歩兵第四十九聯隊及其他の部隊藤沢附近に到着せるを以て次第に警備区域を縮小し、戸塚以東六郷川間の地区の警備に任ずることとなれり。
横浜は震源地に近いこともあって東京以上に激甚な被害を被っており、また警察署もほとんどが被災焼失した結果警察は無力化し、震災当初の数日間はほぼ無法状態に陥っていた。到着当時の横浜について、奥平氏は次のように書いている。
四日 午前六時膠州(注:船名)は港内に進入し軍隊は艀舟はしけにて谷戸橋附近に上陸す。同所には海軍陸戦隊既に到着しあり。依て協議の為同行し県庁所在地に至る。此時市民数人一朝鮮人を縛し海軍陸戦隊に連来るを見て法務官をして取調べしむ。後に聞けば法務官も一応取調べたるも別に不審とすべき処なきを以て一応海軍に預け置きたるに、市民は更に之これを海軍より引取り谷戸橋下の海中に投じ数回引上げては又沈め遂に殺害せりと謂いふ。(略)
司令部は海外移民検査所(仮県庁、市役所)に位置す。此夜兵力派遣を要求する者間断なし。本日見る処に依れば横浜市街の全部は焼失崩潰して廃嘘となり過去栄華の跡は痕跡を留めず死屍到る所に散乱し正金銀行の周囲には累々堆積しあり。屋下の死体は猶燃えつつありて悪臭鼻を衝き覚えず之を塞がしむ。夜間に至れば各所に青々たる燐火揺曳し鬼哭啾啾たる感あり。横浜駅附近に山の如く堆積せる石炭は盛んに燃えて黒煙濛々天を蔽ひ行人は悉く銃、竹槍、棍棒、鉄棒、日本刀等の兇器を携帯し凄惨の状言語に絶す。此の兇器携帯は人心の不安に影響を及ぼすこと絶大なるを以て到着後直に戒厳令の布告ありたるを公示し兇器の携帯を禁止す。(略)
(略)
大震災の震源は相模灘の海中に在り。横浜は東京よりも此震源に近きこととて激甚を極め、当時横浜の郊外根岸に住し東京外国語学校に通学せんとて横浜駅に於て地震に遭遇せる平岡歩兵大尉の談に依れば地震に伴ひ家の大部倒潰し一時間以内に全市火焔に覆はれ震動の大なる為行人立つ能はず地面を匍匐ほふくせりと謂ふ。土地到る処に大亀裂あり然しかも著しく沈下せるが如く、現存せる橋梁は橋其物丈高くなり東海道は横浜、藤沢間処々破壊して始めは自動車を通ぜず。藤沢方面に近づくに従ひ土地亀裂の程度を増し家屋の倒潰は八分通に及ぶ。其上横浜方面の騒擾は甚大にして一日より三日に亘り掠奪、争闘、殺人等盛んに行はれたるが如く之を数日間放任するに於ては革命類似の騒動を惹起せしならんと思はれた。
そしてこの騒擾の過程において、無辜の朝鮮人への責任転嫁が行われた。
騒擾の原因は不逞日本人にあるは勿論にして彼等は自ら悪事を為し之これを朝鮮人に転嫁し事毎に朝鮮人だと謂ふ。適々たまたま市の郊外に朝鮮人多かりしを以て朝鮮人暴動の噂を生み迅速に東京其他の各地に伝播せるものにして、朝鮮人襲来と称し人心に大恐慌を来せる発起点は横浜なるものの如し。横浜に於ても朝鮮人が強盗強姦を為し井戸に毒を投入み、放火其他各種の悪事を為せしを耳にせるを以て、其筋の命もあり、傍々之を徹底的に調査せしに悉く事実無根に帰着せり。勿論日本人の多くが既に悪事を為す。朝鮮人が之を為すは自然の勢である。然し意外の重大なる恐慌の原因と成りしものは不逞日本人の所為せいであると認めるのである。彼等不逞日本人等は学校備附の銃器全部を空包と共に掠奪し、避難民の集団に対し之を保護すると称し昼間は神妙なるも夜間に至れば仲間と諜合し空包を以て打ち合ひ、喊声を挙げ、朝鮮人襲来す、遁にげよ遁げよと呼ばはり、附近焼け残りの家屋にある人々は之に驚き家を空にして逃げ去れば、空家に入りて掠奪し且つ避難民の集団よりも保護料を受領せりと謂ふ。加之しかのみならず彼等不逞団は集団して程ヶ谷、根岸其他の部落を襲撃し、根岸の如きは二日より三日に掛けて二、三回の襲撃を受け、在郷軍人、青年団等之に対抗して撃退せりと謂ふ。之が為予の到着後二、三日間は夜間処々に銃声を聞き部落民の派兵の要求櫛の歯を引くが如く到り応接に遑いとまなかつた。
以上の状況に加ふるに根岸刑務所にては震災の甚大なるに恐怖し囚徒の解放が如何なる重大な結果を生ずるやを熟慮するの暇無く軽卒にも全囚徒を解放せり。之が為囚徒等は直に食事と被服とを手に入るるの必要あり、無一文なる彼等は之を掠奪に待たざるべからず。彼等の兇悪性は此の掠奪と共に兇虐残酷を発揮せるは言ふ迄もなし。而して之を朝鮮人の行為なりと称す。彼等の四散するに従ひ朝鮮人襲来の噂が拡大伝播せられたるは素より当然である。
夜間、自作自演で銃で撃ち合い、朝鮮人が襲ってきたと叫んで、付近の住民が家を捨てて逃げたところで略奪を行う。なかなか巧妙な手口ではある。こうした卑怯な不良・不逞日本人によって朝鮮人たちは無実の罪を着せられ、逆上した民衆に虐殺されたのである。
[1] 奥平俊蔵著・栗原宏編 『不器用な自画像 ― 陸軍中将奥平俊蔵自叙伝』 1983年 柏書房