加藤康男著『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック 2014年)が朝鮮人による暴動の証拠として挙げた新聞記事が、この本がもっぱら依拠する9月3日付東京日日新聞も含めまったく信用できないことについては、前回記事で説明した。
今回は、加藤氏がこれらの記事を補強する材料として持ちだしている傍証の類が、果たして傍証と言えるものになっているかどうかを見ていくことにする。
たとえば、英国のナショナル・アーカイブズから新たに発見されたという、アメリカ人旅行者の記録である。
帝国ホテルの恐怖体験記
警備当局が把握していた「鮮人による襲撃」情報が間違いではなかったことは、ここまでの新聞記事と目撃談などで明らかである。
そのなかで、炎上する警視庁の目の前、皇居前広場、日比谷公園界隈の避難民は襲撃に脅えながら二日目の夜に入っていた。
丸の内一帯から日比谷公園にかけてはすでに避難民が密集し、身動きもとれないほどの混乱状態を来していた。とりわけ皇居前広場では三十人からの朝鮮人の一団が、充満している避難民に抜刀し切りかかってきたとの情報が日比谷警察に入っている。事態はまさに切迫していた。
その日比谷公園の正面にある帝国ホテルに宿泊することになったアメリカ人の記録が今回、新たに発見された。
二人のアメリカ人旅行者が横浜で被災し、好奇心もあって東京へ向かい、帝国ホテルに投宿した。実際に彼らが見た現実がどうであったのかという実情がうかがえる。
ロンドンのナショナル・アーカイブスに外交文書として保存されていて今回、新たに発見されたファイルからその概要を見てみよう。
「一九二三年九月一日より十二日までのドティとジョンストンという『エムブレス・オブ・オーストラリア号』のアメリカ人船客の日記。
「九月一日、十一時四十五分にちょうど舟は岸壁を離れようとしていた。ところがその直後にひどい振動を感じ、陸地を見たら地震であることがはっきりと分かった。桟橋や港の建物は崩れ落ちた。グランドホテルやオリエンタルパレス・ホテル、スタンダード石油の建物が崩れ落ちた。午後五時ごろにやっとひどい出火は収まった。ようやく救命ポートを下ろして、海に浮いている人々を救い上げた。
翌日、船には千五百人以上の避難民が収容されていて、まさに足の踏み場もない状況だった。まだ火事は完全に鎮火したわけではなく、東京方面が赤々と燃えているのが見えた。
九月三日になって、二人は船を降りて徒歩で東京へ向かうことにした。
歩き始めてすぐに二人はライフルで武装した自警団に出会った。彼等は二人が朝鮮人と間違われないように、この辺すべての人達がしているように右腕に白か緑の腕章を捲くように強く勧めた。
横浜の荒廃を観察した後に二人は東京へ向かい、午後七時には品川に到着した。ここで四マイル先の帝国ホテルまで行ってくれるタクシーをつかまえた。
『朝鮮人』と『赤』については説明する価値がある。過去数年の間に多数の朝鮮人が労働力として日本に流入していた。また、日本の軍隊には、シベリアから帰国してボルシェビキの影響を受けた兵たちもいるといわれていた。
二人が帝国ホテルに到着したのは三日午後七時四十五分だった。
ホテルは崩れていなかったが真っ暗で、軍隊の護衛がホテルの前に陣取っていた。ホテル内には一時的にアメリカ大使館が移動してきていた。
アメリカ大使を探しに街へ出たが見つけることができずに、九時半にホテルへ戻った。その間、二人の乗った自動車は二百フィートごとに自警団か兵隊に停められて尋問された。
街は真っ暗だったが、まだ燃え盛る火事が続いていてその明りで道路が見えた。
三日、月曜日の夜十時二十分頃に、ホテルの管理部からすべての部屋の灯り(小さなローソクだった)を消すようにと軍部からの報せがあったと言ってきた。
朝鮮人と赤が十分以内に襲撃してくるからとのことだった。
それからホテルで野営をしていたさまざまな部隊はマシンガンを補給された。
何事もなくその夜は過ぎて、翌日二人はアメリカ大使のウッズに会って、それから横浜へ帰った。(略)」(「ロンドン・ナショナル・アーカイブス所蔵」 File No.FO/3160)
果たしてこれは、加藤氏の言う朝鮮人暴動の存在を裏付ける傍証になっているだろうか?
「実際に彼らが見た現実」はどのようなものだったのか。引用された文書の内容からは次のようなことが読み取れる。
- この二人のアメリカ人は、暴動の嵐が激しく吹き荒れていたはずの9月3日から4日にかけて、横浜から東京まで徒歩で往復したというのに、朝鮮人に襲われることもなければ暴動による騒乱の跡らしきものを目撃することもなかった。新聞記事によれば、「不逞鮮人」の集団は横浜方面から東京を目がけて進撃していったはずなのにである。
- 加藤氏は仰々しく「帝国ホテルの恐怖体験記」などと題しているが、ホテルの客たちが恐怖に怯えたのは「朝鮮人と赤」が襲撃してくるという噂のせいであって、実際にはもちろん何事もなかった。
- この二人と出会った自警団は、彼らが「朝鮮人と間違われないよう」腕に腕章を巻くように強く勧めている。これはつまり、この自警団員自身、彼らに危害を加える者がいるとすれば、それは「不逞鮮人」などではなくむしろ自警団をはじめとする日本人だと認識していたことを意味する。また、普通ならアメリカ人を朝鮮人と見間違えるなどということはあり得ない。それなのに腕章のような目印をつけろというのは、例えば突然誰何されてとっさに日本語で受け答えができない場合、問答無用で殺される危険があったということだ。もちろん、本物の朝鮮人は「不逞」かどうかなどとは関係なく、そうやって殺されていったのである。
客観的に見て、この文書は「不逞鮮人の暴動」があったことを裏付けるものではまったくなく、むしろ朝鮮人ではないことを即座に示せなければ殺されかねない「朝鮮人狩りの嵐」が吹き荒れていたことを示している。
皮肉なことだが、加藤氏がわざわざ自著に載せたこの資料は、氏の主張を補強するどころかそれが間違っていることを示す傍証となっているのだ。
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