これまでの検証により、(1)震災直後の「朝鮮人暴動」を伝える新聞記事はすべて嘘だったこと、(2)10月20日の司法省発表中に含まれる「朝鮮人の凶悪犯罪」にも信憑性がないこと、は明らかになった。
では、これら以外に、体験談や手記といった個人レベルで、朝鮮人による襲撃を伝えているものはあるのだろうか?
調べてみたところ、かろうじて次の2件が見つかったので、その内容を検討してみることにする。
祖父が「徒党を組んだ朝鮮人を撃退した」というツイート
この件についてのやりとりがこちらのTogetter(@unspiritualized氏にご教示頂いた)にまとめられている。
主要な発言は以下の二つ。
@unspiritualized @sukijapan 実際に徒党を組んだ朝鮮人を撃退した人(自分の祖父)の話とは非常に良く辻褄が合うんだが、どう説明する?
— 裏側 (@Terroristbuster) 2014, 3月 22
@unspiritualized @sukijapan 祖父は渋川流柔術をやっていて、地区警防団の一員だった。大震災から5日ほど経った頃、東田寺門前にあった朝鮮部落の人間が棒や刃物を持って倒壊した家から金目のものを持ち出しており、警部団が招集され首謀者を警察に突き出した。伊豆の話
— 裏側 (@Terroristbuster) 2014, 3月 22
警察に突き出したのであれば、司法省の『震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書(秘)』中の「鮮人の犯罪」リスト[1]に掲載されているはずだが、この件は見当たらない。また、仮にこの発言どおりの事件があったとしても、せいぜい火事場泥棒程度の事犯であり、日本人に対する襲撃事件ではない。
朝田惣七『横浜最後の日』中の武勇伝
朝田惣七は横浜の会社経営者で、外出中に震災に遭って家族と別れ別れになり、数日後に家族と再会するまでの経験を小説風の体験記『横浜最後の日』[2]として出版している。震災からまだ三ヶ月も経っていない時である。
この中に、襲ってきた朝鮮人と戦ったという人物の体験談が出てくる。
(9月4日)僕等が船長室前の「デッキ」に椅子を出して海の表てを眺めて居ると、其処には船員の一人が毛布を引き被って寝て居るのを見た。間も無く其の男ムクムクを起き出で、色々と僕等に話しをしかけ、殊に興味のあつたのは、鮮人争動の一幕……其の男は、船長の家の近くに住むものであらう……青年団に加はつて、中村橋近傍暴行鮮人の防御に当つて居た時、鮮人七、八人、山を遠巻にせられ、苦しがつて石川中村方面へ脱出し来る、手に手に「ピストル」を持ち、刀を風車の如く振り廻して。……一同は「ソレ」と計り打向つたが、鮮人の放つ弾丸は「ピューピュー」と頭上を飛び起す。其麼事委細構はず、決死の勇を振ひ起こして互いに渡り合ひ、私しは肉切包丁を持つて、一人の鮮人を「グサッ」と差し、返す手に「バサリ」袈裟掛にやつたら見事に切れました。鮮人団を川中へ切つて落し、彼等が頑強に傷き乍ながら、岸に匐はひ上るを、切って掛り全滅せしめたのですが、其の時、鮮人の血を以つて、為めに川は赤くなりました。』と武勇談を一席弁じ立てる。(P.116-117)
(9月4日)八木君の二男、幸次郎君、今年二十二三……「ボーイス、スカウト」式服装、皮の「ゲートル」「カウボーイ」式帽子、見るからに軽快のいでたち、今しも、見舞に来て、程ヶ谷方面に勤めて居る関係上、同方面の鮮人騒ぎの情報を齎もたらす。
『程ヶ谷には鮮人土工が澤山居たが、之れは何時の間にやら、土匪と代はり、武器を取って、暴挙に出るので、自衛団を組織し、自分も其の一人となりました。昨晩の事でありました。友人と只二人、自分は刀を、友人は学校から借り出した剣銃を持って警備して居ると、雲つく如ような長髪の鮮人、何処で取ったのか、日本刀を風車の如ように振りしきつて、比方を向いて突進して来るんじやあ有りませんか。今更ら逃げ出しもならず、二人して立向ふ折柄、自分の打込たる刀は鉄道線路に当つて、「ポッキ」と折れ、南無さん仕舞つたと思ふ刹那、友人の突き出した、銃剣が見事不逞鮮人の胸下を背迄で突き通し、不思議に命が助かりました。』
『其いつあ危険だったね。』
拾あたかも元亀天正時代の講談にある、武勇伝を聞いてる如ような気分で、僕は褒めた。幸次郎君は尚も続けて、
『我れ我れの中間なかまの内、柔剣道何段と言ふ人があり、今が腕だめしとでも思ってか、日本刀を振り翳かざし、難局面を引受けて、切るは切るは、共の人の刃向ふ所ろ、恰も疾風枯葉を捲く概があつて、一人と雖いえども逃がさない、其の人にやられた鮮人は、皆な見事に袈裟掛けにやられてます。』
と面白い講談めいた一席述べ立て、自宅へと戻って行く。(P.134-136)
筆者は自序で、「本書は、著者自ら、生死の境を彷徨しつつ体験した、危機に瀕せる刹那の実状を記録して経とし、知己親戚の間に起これる、悲喜の事蹟を揚げて、緯とし、 依つて以つて一編の小説を綴叙したもの……其の間一章一句と雖いえども、些いささかの潤色想像を加味した処ろ無く、全く有つた事を有つた通り、書いたに過ぎぬ。」と言ってはいるが、これらの談話は「講談めいた」という筆者自身の評が示すように、既に語られた時点でかなりの脚色が加えられていただろうと想像できる。
こうした「闘争」が実際にはどのようなものであったのか、朝鮮人側の体験と照らし合わせてみることで、その実像はより鮮明になる。
愼昌範証言[3]:
三日の夜、九時頃になって、「津波がやってくるぞー」と怒鳴り合う声が、あちこちで聞こえ、人々は、その辺では一番高い荒川の堤防へ避難しました。(略)結局、津波はやってきませんでしたが、疲れたので私達は、その儘線路を枕にしてやすみました。
四日の朝、二時頃だったと思います。うとうとしていると「朝鮮人をつまみ出せ」「朝鮮人を殺せ」などの声が聞えました。(略)間もなく、向うから武装した一団が寝ている避難民を、一人一人起し、朝鮮人であるかどうかを確め始めました。(略)一緒にいた私達二十人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞きとることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で呼び「何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ」と、声を張りあげました。その言葉が終るやいなや自警団の手から、日本刀がふり降され彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。この儘坐っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我無中の思いでとびおりました。
とびおりてみると、そこには、五、六人の同胞が、やはりとびおりていました。しかし、とびおりた事を自警団は知っていますから、間もなく追いかけてくることはまちがいありません。そこで私達は泳いで川を渡ることにしました。(略)さて、私達も泳いで渡ろうとすると、橋の上から銃声が続けざまにきこえ、泳いで行く人が次々と沈んでいきました。もう泳いで渡る勇気もくじかれてしまいました。銃声は後を絶たずに聞こえます。私はとっさの思いつきで、近くの葦の中に隠れることにしました。(略)しばらくして気がつくとすぐ隣りにいた義兄のいとこが発狂し妙な声を張りあげだしました。声を出せば私達の居場所を知らせるようなものです。私は声を出させまいと必死に努力しましたが無駄でした。離れてはいてもすでに夜は明け、人の顔もはっきり判別できる程になっています。やがて三人の自警団が伝馬船に乗って近ずいてきました。各々日本刀や鳶口を振り上げ、それはそれは恐しい形相でした。死に直面すると、かえって勇気が出るものです。今迄の恐怖心は急に消え、反対に敵愾心が激しくもえ上りました。今はこんなに貧弱な体ですが、当時は体重が二十二貫五百もあって力では人に負けない自信を持っていました。ですから「殺されるにしても、俺も一人位殺してから死ぬんだ」という気持で一ぱいでした。私は近ずいてくる伝馬船を引っくり返してしまいました。そして川の中で死にもの狂いの乱闘が始まりました。ところが、もう一隻の伝馬船が加勢に来たので、さすがの私も力尽き、捕えられて岸まで引きずられていきました。
びしょぬれになって岸に上るやいなや一人の男が私めがけて日本刀をふりおろしました。刀をさけようとして私は左手を出して刀を受けました。そのため今見ればわかるようにこの左手の小指が切り飛んでしまったのです。それと同時に私はその男にだきつき日本刀を奪ってふりまわしました。私の憶えているのはここ迄です。
それからは私の想像ですが、私の身に残っている無数の傷でわかるように、私は自警団の日本刀に傷つけられ、竹槍で突かれて気を失ってしまったのです。左肩のこの傷は、日本刀で切られた傷であり、右脇のこの傷は、竹槍で刺された跡です。右頬のこれは何で傷つけられたものか、はっきりしません。頭にはこのように傷が四カ所もあります。これは後で聞いたのですが、荒川の土手で殺された朝鮮人は、大変な数にのぼり、死体は寺島警察署に収容されました。死体は、担架に乗せて運ばれたのではなく魚市場で大きな魚をひっかけて引きずっていくように二人の男が鳶口で、ここの所(足首)をひっかけて引きずっていったのです。私の右足の内側と左足の内側にある、この二カ所の傷は私が気絶したあと警察迄引きずっていくのにひっかけた傷です。私はこのように引きずられて寺島警察署の死体収容所に放置されたのでした。
愼昌範氏は重傷を負って気絶し、死んだものと思われて寺島警察署の死体置き場に投げ込まれた。死体の山の中で息を吹き返した愼氏は、幸運にも同じ署内に収容されていた弟の看病で生き延びることができた。
『横浜最後の日』の朝鮮人たちも、「山を遠巻にせられ、苦しがつて…脱出し来る」と語られているとおり、向うから襲撃してきたのではない。狩られ、追い詰められて逃げ出してきたところで武装した自警団と遭遇し、絶望的な抵抗を試みた末に殺されたのである。
[1] 姜徳相・琴秉洞 『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』 みすず書房 1963年 P.420-426
[2] 朝田惣七 『横浜最後の日』 文正堂出版部 1923年
[3] 李珍珪編 『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』 朝鮮大学校 1963年 P.160-164