震災後間もない時期に出版された朝田惣七『横浜最後の日』[1]は、著者が「一章一句と雖いえども、些いささかの潤色想像を加味した処ろ無く、全く有つた事を有つた通り、書いたに過ぎぬ。」と述べているように、当時横行した流言蜚語についても、著者が耳にした内容をそのまま書いている。また、横浜市役所が編纂した『横浜市震災誌』[2]にも、生々しい流言蜚語を記録した被災者の手記が収録されている。
一方、『関東大震災の治安回顧』(法務府特別審査局 1949年)には、横浜で発生した流言の真偽を捜査した結果が、横浜地方裁判所検事局からの報告[3]として収録されている。
そこで、[1][2]の中の「不逞鮮人」関連流言と[3]の捜査結果を、カテゴリーごとに並べてみた。流言と捜査結果が1対1で対応しているわけではないが、なかなか興味深い結果が得られた。
強姦・殺人
流言蜚語 |
(久保山付近)處ところが夜になつて、大変な事があつた。其れは鮮人騒ぎで、近所では、女二人が強姦された上、殺され……鮮人は女と見れば、皆んな強姦した上殺すと聞き、身の毛も悚立つ計り ―「横浜最後の日」P.149 (久保山付近)不安と恐怖裡に一睡もせず、一夜を明かし、翌朝行つて見れば、頭が半分割られたり、耳が取れたり、無惨な死方をしてる鮮人があり、殊に強姦したと言ふ飴売鮮人は最先きに首を「チョン」切られ、強姦された方の女は、年頃三十前後か下駄様うのもので、頭を敲たたかれ、目は腫れ上つて死んで居りました。 ―「横浜最後の日」P.150 この中村町なんかは、一番鮮人騒ぎが非道かつた。一人の鮮人を掴へて白状させたら、その野郎地震の日から十何人つて強姦したさうだ。その中でも地震の夜、亭主の居ねえうちで、女を強姦してうちへ火をつけて、赤ん坊をその中へ投込んだといふ話しだ。そんなのは直ぐ擲なぐり殺してやったが………。 ―「横浜市震災誌」P.432 |
捜査結果 |
神奈川県巡査教習所皆川警部補の妻女は伊勢山に於て鮮人が一内地人婦女を凌辱するのを現認したと噂されたが、取調の結果は避難せんとした一鮮人が同妻女の躓つまずき倒れた傍らに是又躓つまずき転倒した事実の誤伝であった。 久保山並に根岸方面に於て鮮人が婦女を強姦したとの風説が行はれたが、鮮人に斯様かような所為があつたと認むべき事実は明かでなく、寧むしろ内地人に斯かる犯行があつたかの疑がある。 (九月二日)夜中村町方面の青年団から伊勢佐木町警察署管内に伝へられた風説は,鮮人が内地人婦女を凌辱して之を火中に投じたと云ふことであつたが、斯様かような事実を知る者は絶えて無かつた。 |
投毒
流言蜚語 |
何にしろ鮮人と来ては、井戸へ毒を投げ込み、○○○する 致方が無いので、青年団も敵概心が満ち満ち、始めは一刀の下に切って捨てたのですが、仕舞には處々の井戸をつれ廻って、水の有害無害を鑑定させ、其の結果毒にあたつて死んだ者が、かなりありますよ。 ―「横浜最後の日」P.130-131 今日藤棚の方でつかまつた奴は、「何々方面」などと書いた紙片を持つてゐた。久保山の電柱へ縛り付けて撲り殺した奴は呼子の箱を持つてゐた。中村町の方にゐた三十人ばかりの労働者は、水のやうに見せかけて、揮発油を壜に入れて持つてゐたといふし、井戸水へ硫酸銅を投じた奴もゐるさうだ。 ―「横浜市震災誌」P.428 |
捜査結果 |
(九月二日)夜久保山の或る井戸に投毒した鮮人があるとの風評が行はれたが、井戸には毒物を認めなかつた。 根岸町字坂下の井戸に鮮人が有毒の白粉を投入したとの噂があつた。然し井戸には何等の異状を認めなかつた。 (九月三日)本牧町字箕輪下の井戸に二名の鮮人が投毒した旨の風評が行はれたが、井戸に異状がなかつた。 |
放火
流言蜚語 |
事の起りは、悪性の小数鮮人が、婦人に暴行したり、日本人の小供と見れば火中に投棄して焼死せしめ、尚且つ掠奪を行へるに原因して居るので、夜る外出する日本人は「山と川」「熱い寒い」「今晩は御苦労様」等を明瞭に言って、鮮人と間違はれない如う致して居ります。 ―「横浜最後の日」P.101-102 又朝鮮人が井戸に劇薬を投じたり、爆裂弾を投じて放火したり内地人を強姦したり、あらゆる暴行を為しつつあり、其れ故郡部の方では、専ら警戒を努めて居るとの事を耳にしたが ―「横浜市震災誌」P.593-594 |
捜査結果 |
(九月二日)午後八時頃中村町字打越の石川小学校脇を通行中の一鮮人は燐寸及び古新聞等を携帯して居たので放火犯人と伝へられた。 (九月一日)北方町の火災は鮮人の放火に基くとの噂が専らであつたが、調査の結果自火であることが判明した。 (九月一日)本牧町字原並に宮原の火災も鮮人の放火に因るとの流言があつたが、是亦自火であることが明瞭となった。 (九月一日)根岸町字立野の火災は鮮人の放火であるとの風説があつたが、是も亦自火であつた。 (九月二日)夜久保山で捕へられた一鮮人が燐寸を携帯して居り該鮮人が久保山の関東学院に放火したものの様に伝へられたが、放火の痕跡さへ認められなかつた。 (九月二日)二名の鮮人が根岸町字相沢方面に放火したとの噂があつたが、取調の結果は自火であつた。 (九月二日)本牧町宇大島神社附近の残存家屋に鮮人が石油並に蝋燭を以て放火しやうと試みたとの噂があつたが、単なる噂に過ぎなかつた。 山手桜道附近の火災は鮮人の放火に因るとの風評が立てられたが、取調の結果自火であつた。 |
掠奪
流言蜚語 |
鮮人が混乱の時機に乗じて、婦女を忌したり、掠奪したり、此の頃は飲み井戸に毒を投じたりした事が判知つた ―「横浜最後の日」P.71 鮮人の背後に何者があるか知らぬが、飴売りや、土工になって這入つて来た鮮人共、忽ち武器を持つて立ち、日本婦人に危害を加へ、然しかも掠奪するに対抗して、青年団が同じく武装して警備して居るの。 ―「横浜最後の日」P.82 |
捜査結果 |
根岸町字馬場の民家で鮮人が糧食及び其の他の物資を強奪して廻つたとの風説が伝へられたが、取調べたところ鮮人ではなく内地人なるやの疑があつた。 (九月二日)磯子町方面にも六名から成る鮮人の強盗団が横行したとの浮説があつたが、強盗の事実を発見出来なかつた。 |
投毒や放火はすべて嘘、強姦や掠奪は、嘘や誤認でなければ日本人がやった犯行を朝鮮人のせいにしていたわけだ。
[1] 朝田惣七 『横浜最後の日』 文正堂出版部 1923年
[2] 横浜市役所市史編纂係 『横浜市震災誌』 第五冊 1927年
[3] 吉河光貞 『関東大震災の治安回顧』 法務府特別審査局 1947年 P.224-225