允恭(19代)―> 安康(20代)
男浅津間若子宿禰(允恭)は、后忍坂大中津比売(オシサカノオホナカツヒメ 紀:忍坂大中姫)との間に、次の9人の子をもうけた。
- 木梨之軽王(キナシノカルノミコ)
- 長田大郎女(ナガタノオホイラツメ 紀:名形大娘)
- 境黒日子王(サカイノクロヒコノミコ 紀:境黒彦)
- 穴穗命(アナホノミコ)=安康(20代)
- 軽大郎女(カルノオホイラツメ)
- 八瓜之白日子王(ヤツリノシロヒコノミコ 紀:八釣白彦)
- 大長谷命(オホハツセノミコ 紀:大泊瀬稚武)=雄略(21代)
- 橘大郎女(タチバナノオホイラツメ 紀:但馬橘大娘)
- 酒見郎女(サカミノイラツメ)
允恭の死後、長男の軽王が後継者に決まっていたが、即位する前に、彼が同母の妹軽大郎女と性的関係を持ったというスキャンダルが発生した。(当時、異母姉妹との婚姻は認められていたが、同母の場合はタブーだった。)軽王から人心が離れたのを見た弟の穴穂が挙兵。軽王は臣下の大前小前宿禰の屋敷に逃げ込むが、大前小前が裏切り、軽王を捕えて突き出してしまう。
古事記 允恭記:
天皇崩りまして後、木梨の軽の太子、日継知らしめすに定まりて、いまだ位に即つきたまはざりし間に、その同母妹いろも軽の大郎女に姧たはけて、歌よみしたまひしく、
(略)
ここを以ちて百ももの官つかさまた、天の下の人ども、みな軽の太子に背きて、穴穂の御子に帰よりぬ。ここに軽の太子畏みて、大前小前の宿禰の大臣の家に逃れ入りて、兵器つはものを備へ作りたまひき。(略)ここに穴穂の御子軍を興して、大前小前の宿禰の家を囲みたまひき。
(略)
ここにその大前小前の宿禰、手を挙げ、膝を打ち、舞ひかなで、歌ひまゐ来。(略)かく歌ひまゐ帰きて、白さく、「我が天皇の御子、同母兄いろせの王に兵をな及しきたまひそ。もし兵を及きたまはぱ、かならず人咲わらはむ。僕あれ捕へて献らむ」とまをしき。かれ前小前の宿禰、その軽の太子を捕へて、率いてまゐ出て貢進たてまつりき。
捕えられた軽王は伊予の湯(道後温泉)に流され、追ってきた軽大郎女とともにそこで自死、そして穴穂(安康)が即位した。
一見不審な点はないように見えるが、古田武彦氏の分析[1]を読むと、裏が見えてくる。
この一見明白な事件も、考えてみると、不審がある。軽太子が、その妹を愛したとしても、それをわざわざ百官や天下の人等の前に公表するだろうか。そして公表されない限り、上つ方のプライベートな事柄など、わたしたちの耳に容易にはとどきはしない。この道理は、当時も今も、変らぬところなのではあるまいか。
では、誰がそのような権力者内部のプライベートな事柄をもたらしたのか。否、公布したのか。それはやはり穴穂御子とその手の者以外にはないのであるまいか。
「このような異常事態に黙しがたく、挙兵した」――説話はそのように語っている。しかし、事実は逆だったのではあるまいか。すなわち、穴穂御子は挙兵のための大義名分として、兄の太子を不名誉の人、王者にふさわしからぬ人としての汚名を公布させた。その必要があったのだ。
少なくとも、そのような汚名を負わせることなしには、すでに允恭が没し、即位寸前にあった軽太子を急遽追い落し、一気に情勢を逆転せしめることは不可能だったのではあるまいか。
穴穂御子の挙兵の中で、軽太子は逮捕された。伊予に流され、そこで自殺した。
代って穴穂御子が即位し、安康(第二十代)となった。その治世の中で、右の不名誉な悲劇は作られたのである。
ここでも、汚名の証拠は、軽太子の歌にあるとされている。彼はこんなに不謹慎な歌を作った。だからわたし(当代の王者)は挙兵せざるをえなかった。――こういう弁明だ。だが、彼が本当にそんな歌を作ったかどうか、一般の下々の者は、公布されてそれを信じるよりほかに方法はないのであった。そして歌は、説話の中でも、すぐれて人々の口から口へ、それこそ人口に膾炙させやすいものだった。
もちろん、現代の人々が『古事記』を文学として愛することはよかろう。それがその人の関心のもち方、その角度であったとすれば、他から文句のいわれるべき筋合いはない。しかし、その成立の当時においては、現統治者の反逆行為の正当化という、すぐれて高度の政治的な目的をもって公布されたものなのであった。わたしにはそのように思われる。
ちなみに、日本書紀ではこの話は微妙にストーリーが異なる。こちらでは允恭24年の時点で軽王と妹との関係が父親(允恭)にバレている。しかし、父は既に皇太子となっていた軽王を処罰しなかった。そして允恭の死後(允恭42年)になって、「太子、暴虐あらくさかしまなるわざ行して、婦女に淫たはけたまふ。」という理由で人心が穴穂に移り、焦った軽王が軍を起こして穴穂を殺そうとした結果、返り討ちにあった(おなじみの謀殺疑惑パターン)とされている。
「太子行暴虐、淫于婦女」は軽王と軽大郎女の関係を指すと解釈されている[2]が、こちらのストーリーでも、20年近く前に起きた親子間のプライベートな事柄をわざわざ流布したのは穴穂だろう。しかも、父親は既に死んでおり、仮に事実無根だとしても流された側には「なかったこと」を証明しようがないスキャンダルである。
今さら言うまでもないが、これらの説話も、後にこれらの説話を取り入れて書かれた『古事記』『日本書紀』も、文学作品でもなければ公平中立な事実の記録でもない。個々の説話はその説話を公布する現権力者による権力掌握の正当性、『古事記』『日本書紀』等の史書は大和朝廷による支配の正当性を主張するために作られた、政治的プロパガンダのための「作品」なのである。
[1] 古田武彦 『古代は輝いていた 2』 朝日新聞社 1985年 P.275-276
[2] 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(二)』 岩波文庫 1994年 P.329, 331
※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
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