昨日の新聞に、「忠犬ハチ公」に関する話題が載っていた。
ハチ 一緒に暮らせるよ 上野博士最愛の女性 家族と同じ墓に納骨
東京・渋谷駅の銅像で知られる忠犬ハチ公の飼い主だった東京帝国大の上野英三郎(ひでさぶろう)博士と事実上の婚姻関係にあった坂野八重子さんの遺骨が十九日、博士とハチ公が眠る青山霊園(東京都港区)に埋葬された。八重子さんは生前、博士と同じ墓への納骨を望んでいたが、死後五十五年たってようやく願いがかなった。関係者は「博士と八重子さん、ハチ公がようやく一緒に暮らせる」と話している。 (神野光伸)(略)
八重子さんはお茶の先生で、都内で開かれたお茶会で、四十歳前後だった博士と出会った。十四歳年上の博士は、お茶を習っていた。二人は親密になり、渋谷区で十年近く一緒に暮らした。だが博士には親が決めた婚約者がおり、八重子さんと入籍しないまま、一九二五年五月に五十四歳で急逝。残された八重子さんは「自分の死後はせめて博士の墓にある灯籠の下に納骨してほしい」と周囲に求めていたが、その願いは実現しないまま、七十六歳で亡くなった。二人とも生涯独身だった。
(略)
渋谷区郷土博物館・文学館の親族らへの聞き取り調査で、八重子さんの人柄は、映画「ハチ公物語」(一九八七年)で描かれた博士の「妻」と同様に、謙虚で優しく、ハチ公にも懐かれていたことが判明している。同館の松井圭太学芸員は「八重子さんがハチ公を訪ねてくると、喜んで飛びついてきたそうです」と語る。二十一日は博士の命日。塩沢教授は「天国で皆が一緒になって喜んでいるでしょう」と感慨深げだ。
(略)
「忠犬ハチ公」の話は知らない人がいないくらい有名だが、上野動物園にいたもう一匹の「ハチ公」のほうは、ほとんど知られていないのではないだろうか。
こちらのハチ公は犬ではなくヒョウ。当時園長代理だった福田三郎氏が、退職後に出版した回想録『動物園物語』の中でこのハチ公の話を語っている[1]。
ハチ公と兵隊
昭和十七年一月中旬のことでした。私のところへ朝日新聞社から電話で、中支にいる兵隊が育てていた豹を引きとってもらえないか、ということを依頼してきました。話によると、この豹は、生後七ヵ月の豹で、中支に派遣されたある兵隊が、かわいがっているのだが、だんだん大きくなるし、戦場でもあるので、動物園に送りたいから、そのあっせんをたのむと、朝日新聞社あてに手紙をよこしたのだそうです。
私は早速、その兵隊に手紙を出し、事情を聞きました。すると、こうなのです。
中支のある農村に一頭の豹が出て、民家をあらして、人々を困らせていることを聞いたので、この兵隊は豹狩の名人だったことから、早速この豹を射殺してしまったのでした。それからしばくして、近くの山へ行った時、何の気なしに見かけた、ほら穴をのぞいてみると一頭の子豹がいたのでした。
彼は、自分が殺した母親の子供にちがいないと思い、かわいそうになって、その子供をつれてきてしまったのです。そしてハチ公と名づけました。
ハチ公は、人なつこくて、おとなしくて、彼にとてもよくなれました。夜は彼と同じふとんの中でねていたのです。
ハチ公は五月に、いよいよ動物園にやってきました。(略)
まるまるとふとって、愛嬌のいいハチ公は、たちまち動物園の人気者になりました。面白いことにハチ公はカーキ色をした人が好きなのです。それは、カーキ色の軍服を着た兵隊たちと一緒に暮らしていたからです。
(略)
が、不幸にも、ハチ公は、翌年の夏、例の猛獣処置の際に犠牲とならなければなりませんでした。兵隊から送られた大切な動物ではありますが、非常の際に、このハチ公だけ残しておくことはできなかったのです。
ハチ公が殺される二、三日前、偶然にも、前の持主である兵隊さんが内地に帰ってきたのでした。彼は高知の人でした。
ひとまず高知の家へ帰って、それからハチ公に会うために上京しようとしていた矢先に、あの新聞記事を読んだのです。
猛獣毒殺――猛獣――豹――ハチ公……
彼の頭の中には、片時も忘れなかったハチ公の姿が、まざまざと浮んできました。
どんなになれていたとはいえ、ハチ公は猛獣なのです。もしや……彼は心配でたまらなくなり、動物園へ電話で問い合せました。
やはり、ハチ公は殺され、もう剥製になってしまっているのでした。彼はがっかりして上京をとりやめました。
彼より少し前に帰還した部下が動物園に見に行った時は、ハチ公が、とても喜んでいたということを聞いていたので、彼は日本に帰るまで、ハチ公の元気な姿を想像していたのでした。
やがて終戦になり、私が用事で高知にいるということを高知の新聞を見て知った彼が、さっそく私を訪ねてきたのです。
私は彼とはじめて会ったのでした。ハチ公のことをお互い話合っては、慰め合ったのですが、彼が、どうしても、ハチ公の剥製をもらいたいと、いいだしたのです。
『私が内地へ帰るのも待たずに殺されたあいつが、かわいそうでなりません。せめて、おもかげをしのびたいのですが、ハチ公の剥製を私に、頂けないでしょうか』
という愛情あふれた言葉に、私もゆり動かされたのです。しかし、一度東京都のものになったものは容易によそへゆずったりはできないことになっているので、すぐには、どうすることもできませんでした。
私が高知から帰京した後も、彼から再三の申し入れがあったので、特別の手続きを経て、とうとうハチ公は、剥製の姿になってもとの主人のところへ帰ることができたのでした。
ヒョウのハチ公もまた、1943年夏の、戦意高揚目的で動物たちを殺した猛獣虐殺の犠牲者だった。上野動物園の公式記録である『上野動物園百年史』には、このときの様子が次のように記録されている[2]。
一方、猛獣処分は、都長官より命令のあった翌日より開始されている。日を追って、その様子を再現したい。
8月17日(火)、閉園後ホクマンヒグマ1、クマ1毒殺、(略)毒殺にはいずれも硝酸ストリキニーネが用いられている。ホクマンヒグマのメスにはふかした甘藷に3gの薬をまぜて与えると直ちに食べ、1~2分で四肢にけいれんをおこし、もがきくるしみ、22分後に絶息した。死体は両方とも埋没した。
8月18日(水)、ライオン、ヒョウ、チョウセンククロクマ、各1頭を、硝酸ストリキニーネで毒殺。(略)ヒョウは昭和17年(1942年)7月中支戦線の兵隊より寄贈され「八紘」と名づけられた3歳のオスで、体重9貫750匁(36.6kg)、死体は剥製となった。(略)これらの動物の死体は8月19日、陸軍獣医学校へ運ばれて解剖されており、そのとき、陸軍獣医学校から硝酸ストリキニーネを10g受けとっている。
【2016/5/25追記】
ハチ公の写真が見つかったので貼っておく。真辺将之『動物愛護と動物利用の交錯』(読売オンライン)より。
【追記終り】
[1] 福田三郎 『動物園物語』 東京ライフ社 1957年 P.212-215
[2] 東京都 『上野動物園百年史』 第一法規出版 1982年 P.173
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