先の大戦時の嫌な話の一つに、犬猫の供出というのがある。
例によって記録がほとんど残っていない(恐らく敗戦時に廃棄された)ため事件の全体像がはっきりしないのだが、時系列を辿ってみると次のようになる。
日中戦争時からあった予兆
まず、この事件の予兆を示すような出来事として、1940(昭和15)年2月、帝国議会で次のようなやりとりが行われている[1]。
北委員 もう一点、これは軍に直接関係のあるものでありますから、陸軍大臣に伺っておきます。(略)今日ご承知のごとく皮が足らなくて困っている、食う物がなくて困っている。こういう際に犬猫を撲殺することに陸軍が努力したらどうか。非常時であるから統制を強化しなければならぬと、口先では各閣僚共言っておられるけれども、実行的には何もやっておらぬ。(略)軍用犬以外の犬猫は全部殺してしまう。そうすれば、皮は出る、飼料はうんと助かります。(略)そこまでやらなければ統制は強化にならぬと思う。陸軍大臣のお考えを承りたい。
畑国務大臣 犬猫を殺せというようなご意向でありましたが、陸軍と致しましては無論この食料政策には重大なる関係を持っております。また軍用犬等にも依頼することが多いのでありまするが、この犬を全部殺して愛犬家の楽しみを奪ったが善いか悪いかということにつきましては、なお折角研究を致したいと思います。
さすがにまだ対米英戦も始まっていないこの段階では、飼犬飼猫を皆殺しにせよなどという極端な主張は軍部からも相手にされなかった。しかし、日本がアジア太平洋戦争に突入し、戦局が激しさを増していくにつれ、これは不気味な現実味を帯びていくことになる。
1942年夏の悲劇
開戦翌年の1942年夏、岡山で猫を供出させられたという証言がある[2]。
昭和17(1942)年の夏、岡山に住んでいた。役場から突然「猫を供出せよ」とのお達しがあった。うちの飼い猫は、私が物心ついた頃から我が家にいた。名前はタマという。
学校から帰り、「タマ」と呼ぶと、「ニャッ」と答えるだけで、いつもかまどのそばで丸くなり寝ている老いた猫だった。
「猫をどねーするん?」。役場の人に尋ねると、「アッツ島を守っとる兵隊さんのコートの裏毛になるんじゃ。アッツ島は寒うてのう。零下40度にもなるんじゃ。お国の役に立つんじゃで、めでたい」と言った。そして次の日の昼までに役場に連れてくるよう指示して、帰った。
私は母に言った。「山に隠そうや。お墓の裏なら、誰にも見つからんで……」。しかし、母は首を横に振った。「そねーなことをして見つかったら、大事じゃ。憲兵に連れて行かれる。軍のお達しじゃ、聞かないけん」と言い返してきた。
私は泣きながら、近所の神社へ走った。神社には大きな杉が6、7本あり、南側は川だった。そこはどこからも見えないので、大声で泣いた。
「タマは殺されるんじゃ。毛皮にされるんじゃ。可哀そうじゃ」。升で量りたいほど涙が出た。顔が腫れていた。
夕方、家に帰ると、タマはもういなくなっていた。私のいない間に父が連れて行ったようだった。
アッツ島で日本軍は玉砕している。私の猫はどうなったのだろう。夏休みの時期になると思い出す。
大阪府八尾市
主婦・79歳
アッツ島の日本軍は1943年5月に全滅しているので、1942年の夏だったという記憶に間違いはないだろう。しかし、開戦翌年というこの時期は非常に早い。他にこれほど早い時期の犬猫供出に関する証言は見当たらず、このときは岡山の一部地域でだけ行われたのかもしれない。(これに続くものとしては、北海道で1943年夏に猫を供出させられたという証言がある[3]。)
犬猫供出の本格化
戦局が不利になっていくのと平行して犬猫の供出は増えていったようだ。北海道では、1944年2月に野畜犬供出促進運動(野良犬も飼犬も供出せよという運動)が始まり、12月には北海道庁が各市町村に犬猫の供出数を割り当てる通達を出している。その結果、北海道だけで犬皮一万五千枚、猫皮四万五千枚が集められた。[4]
同じ頃、軍需省は正式に供出運動の全国展開を決定している[5]。
44年12月17日付毎日新聞には「犬すべて供出と献納 皮革は重要な軍用資源に」の見出しで、軍需省が翌年3月まで供出運動の全国展開を決めたことを伝えている。犬の皮革の用途に、航空帽や飛行服、防寒用具などを挙げる。また、狂犬病の根絶や空襲時の犬害予防、食糧事情の緩和も目的に掲げる。対象は軍犬や登録猟犬、警察犬、天然記念物の指定を受けた飼い犬以外だ。当時の記事を読むと、放浪犬の激増による犬害の事実もあるようだが、飼い主のペットへの思いを「小乗的な愛情」と捉え、「お国のため」と供出を強く迫る世相が読み取れる。
この時期に何が行われたのかについては、児童文学作家井上こみちさんの著書『犬やねこが消えた』が詳しい。読み通すのが非常に辛い本だが、これはぜひ読んで欲しい一冊だ。ここでは掲載された証言の一部を紹介する。
飼犬を供出させられた少女(大阪府豊中市)の証言[6]:
この年の十一月中旬です。
まわってきた回覧板に、母親がじっと目をこらしています。
「八重ちゃん、犬を供出せよって。クロを供出ささなあかんのやて。」
「お母ちゃん、何いうてんの。クロは犬やないの。」
「そうや。でも犬は空襲があったらこわがってあばれるさかい、人間をかんだりするかもしれん。警察に連れてきなさいやて。」
「わたしがだいとったら、あばれへん。クロは人をかんだりせえへん。」
「お母ちゃんかてわかってる。でも命令やから、守らんといかんのや。」
(略)
この夜、クロには、いつもの倍の量のえさを食べさせました。母親は、おからをまぜたぞうすいに、カツオ節の粉をたっぷりかけてやったのでした。
クロは、ごほんの前にいつもするお座りや待てをしなくていいのを、不思議に思ったのか、すぐに食べないで、母親の顔を見あげています。
「もうええ、もうそんなことせんでええの。」
すると、クロは満足そうに、またたく間にえさを平らげました。
「お母ちゃん、遠くまで散歩に行こう。」
八重子さんは、クロのくさりを引くと、今まで行ったことのない場所へと走りました。
「ここでクロを放したったらええねん。そしたらあした、警察に連れていかんでもすむやん。」
「クロはあんたについて家に帰ってくるにきまってる。帰ってこんでも、今は食べもののかけらもどこにも落ちてへんよ。残飯あさりをしたことないクロが、野良犬になって生きてはいかれへんのよ。」
八重子さんは、クロのくさりを放してみました。静かな夜道に、クロが引きずるくさりの音がひびきます。クロは、けっして八重子さんのかたわらから離れようとしませんでした。
あくる日。
八重子さんは、学校でも気が気ではありませんでした。家に帰るとクロがいます。
「あんたの帰りを待っててあげたんよ。三時までに連れてこいと書いてある。もうすぐや。八重ちゃん、クロにこれやろう。さあ、手を出して。」
八重子さんが両手のひらをおわんのようにして差しだすと、母親は、生卵を割りいれました。
「さあ、クロ、お食べ。」
クロは、卵をペロペロとなめています。八重子さんの手にひげがあたります。こそばゆいのをがまんしていると、クロは八重子さんの指の間まできれいになめていました。
いつもの散歩の時間ではないのに、「さあ、行こう」といわれ、クロは、不思議そうでしたが、喜んで母親と外に出ました。
でも、いざ門を出ようとしたとき、その場に座りこんで八重子さんを見つめています。母親はむりやりに引っぼりました。クロはしぶしぶ従って、歩いていきました。
その夜、母親はしみじみといいました。
「クロいうたらアホなんよ。道の角ごとや電柱に、まめにおしっこひっかけて。もうそんなんせんでもええのに。ようあんだけおしっこあるなあ。」
八重子さんは、ふとんのえりで顔をおさえているのが、せいいっぱいでした。
(略)
あの日から、六十年以上たった今も、八重子さんの手のひらには、クロのひげの、こそばゆい感触が残っているといいます。
話しおえた八重子さんは、ふるえる声をおさえるように、両手の指を重ねると、そっと胸もとにおしあてました。
うつむいたままのわたしは、しばらく顔をあげることができませんでした。
上の犬と同じクロという名前の飼猫を供出させられた少女(北海道小樽市)の証言[7]:
一九四五年(昭和二十年)二月。
「飼い犬やねこを神社の裏庭まで連れてくるように」という、供出命令の回覧板がまわってきました。この回覧板がまわる少し前に、「飼い犬や飼いねこは登録するように」という知らせがあり、犬やねこを飼っている家は、名前まで登録させられていたのです。
それで、回覧板には町内の家で飼っている犬やねこの名前がのっていました。律子さんの家のクロものっていました。
「どうしてクロを連れていかなければならないの?」
律子さんは母親にしつこくききました。
「今はお国の非常時でしょ。回覧板はお国の大事な連絡なの。守らないわけにはいかないの。うちは、仕事に欠かせない馬だって、供出したのよ。命令に従わなければ、非国民といわれてしまうの。」
「クロまで供出しろだなんて。馬は兵隊さんの役に立っているけど、犬やねこは戦争で何をするの?」
「りっちゃん、わがままいわないで。犬やねこのいる人はみんな同じ気持ちよ。うちだけ見のがしてもらうことはできないの。」
それから、声をふるわせながら、「実はね、寒いところで戦っている兵隊さんの防寒用に毛皮が必要なんですって。犬やねこの皮を使うそうよ。」
律子さんは、母親を困らせてはいけないと思い、泣きたいのをグッとこらえました。
(略)
「そうだ。指定の日にクロが家にいなければいいんだ。ご飯を食べさせて、クロを外に出してしまおう。」
律子さんは、あきらめてはいませんでした。なんとかのがれる方法はないかと考えていたのです。
ところが、いつもは朝からどこかに遊びにいってしまうクロが、「お願い!外で遊んできて」と、いくら外に出しても、すぐに家に入ってきては、ストーブのそばで丸くなってねむってしまうのです。その日の小樽は特別に寒かったのです。
指定の時間がせまってきて、
「クロ、起きて!にげて!早くどこかに行ってよ。」
と、声をかけても、クロは起きません。ねむりこけたままです。
律子さんはしかたなく、クロを麻ぶくろに入れて背負いました。 クロの体温と、ずしりとした重みが、背中に伝わってきます。とぼとぼと神社への坂道を上っていくと、けたたましくほえる犬の声やねこの悲鳴が聞こえてきました。
すると、それまで動かなかったクロが、急にあばれだしたのです。
神社に近づくと、律子さんの目にむごたらしい光景がとびこんできました。犬やねこの死体が転がり、雪が真っ赤にそまっているのです。
律子さんは足がすくんで動けなくなってしまいました。こん棒を持った男の人が、律子さんに気づきました。
「そこにふくろをおけ!」
「おじさん、クロも殺すの?」
「うるさい。早くふくろをおけといっているのが聞こえないのか。」
男の人は、律子さんをにらみつけています。
「お願いです。わたしが坂道を下りるまで、クロを殺さないで。」
「わかった。わかったから帰れ。」
律子さんが、そっと雪の上にふくろを下ろし、急いで歩きはじめたとき、
「ギャーッ。」
クロの叫び声が聞こえました。
律子さんは、耳をふさぎ、その場にしゃがみこんでしまいました。いろいろな音が遠のき、体がこおりついたようになり、動くことができませんでした。
足を引きずるようにして家に帰ってからも、体は固まったままでした。
(略)
「今も耳に、クロの最期の声がはっきりと残っています。クロの命を救うことができなかったという後悔は、生涯消えません。」
律子さんの家には、いつも十二、三匹のねこと数匹の犬がいます。
律子さんは、七十代半ばになる今も、捨てられたり、けがをして道で動けなくなっているねこや犬を助けています。
犬猫の撲殺をさせられた少年
家族同然だった愛犬や愛猫を奪われ殺された飼い主はもちろん、殺す役をさせられた人々の心にも、この事件は深い傷を負わせた。
当時十五歳でこの仕事をやらされた少年(北海道)の証言[8]:
「いい仕事があるんだ。いっしょにやらないか。」
一九四五年(昭和二十年) 二月のある日、友だちがさそいにきました。知りあいのおじさんから、できれば三人で来てほしいとたのまれたというのです。
(略)
着いた所は、町はずれの雪の原です。近くには川が流れていて、川のほとりにポツンと農作業小屋があります。すでに四、五人の男の人がいました。
「これからおまえたちには、お国のため、軍隊のために働いてもらう。がんばってくれ。」
国民服に戦闘帽の、こわい顔をした男が三人にむかっていいました。
「大事な資源なので、そまつにあつかってはならない。毛皮に傷がつかないように、一発で殺せ。わかったな。」
三人は、軍隊のような命令口調の係官から丸太の棒をわたされました。
仕事とは、供出された犬やねこを殺すことだったのです。中原さんは顔をこわばらせました。友たちもおどろいたように、ちらりと中原さんを見ました。
やがて、犬やねこを連れた人たちが、集まってきました。なかにはウサギをだいている子どももいます。
ほかの係官が、犬やねこを連れてきた人をならばせ、名簿と照らしあわせ、お金をわたしています。この地域では供出の成績をあげるためか、犬やねこを買い上げていたのです。
お金を受けとったら、連れてきた犬やねこが殺される順番を待つためにならぶのです。
うつむいてすすり泣いている女の人がいます。手ぬぐいで顔をおおっているので年はわかりません。ねこをだきしめている女の子もいました。
中原さんは、夢中で、力いっぱい棒をふりあげました。はじめのうち、犬はなぐられるまでじっと座っていました。
(略)
いよいよここで最後だといわれた、十一か所目の町にやってきました。(略)
「ここでもう一回やれば終わりだ。そうしたら気持ちが楽になる。」
中原さんは、自分にいいきかせました。でも、仕事になれてきてしまった自分にも気づきました。
「おれは国のために働いているんだ。好きで殺しているわけじゃない。」
そう口に出していってみると、犬やねこを連れてきた人と、目を合わせられるようになってきました。
「早くそこにおいて、さっさと帰れ!」
中原さんは、自分と同じくらいの年の少女を、どなりつけていました。
比較的おとなしい犬はともかく、ねこをなぐりつけるのは、とても難しい仕事でした。するどいつめを武器に、必死でにげようとするからです。服の上からかみつかれたのに、中原さんの腕には、キバのあとと、いくすじものひっかき傷がつきました。
ねこはその後、ものすごい速さで、近くの木にかけのぼるのです。
何匹ものねこが、同じように木の枝の先までかけのぼっていきました。葉のない枝のあちこちに、ねこがしがみついているのです。
「まるでねこの木だ!ねこの木がふるえている。」
棒を持ったまま立ちつくし、ぼんやりと木を見あげていました。木のゆれが大きくはげしくなったと思う間もなく、中原さんはその場にたおれてしまいました。目まいでした。
(略)
「お国からの命令とはいえ、自分はなんであんなことをしてしまったのだろう。たくさんの犬やねこたちがうらんでいるにちがいない。うらまれても仕方がないことをしたんだからな。」
中原さんは、今もいいしれない後悔の気持ちにおそわれるといいます。
中原さんは、七十七歳になりました。ときおり見る夢には、犬をだいた悲しそうな女の子の顔が出てくるそうです。女の子がこらえきれずにすすり泣く声が、耳の奥から消えることはないといいます。
毛皮は有効に利用されたのか?
こうまでして集めた犬や猫の毛皮は、果たして有効に利用されたのだろうか?
『兵士庶民の戦争資料館』と『碓井平和祈念館』に、犬の毛皮を一部に使用した兵士用の防寒コートが収蔵されている。しかし、近所の山中で大量の犬の死体を見たという証言(栃木県)などもあり、集めた毛皮がどの程度有効に利用されたかは疑問だ。また、あれほど大量に集められた猫皮については、そもそも利用例が見つかっていない。[9]
動物と人間の関係史を研究する早稲田大学文学学術院の真辺将之准教授(日本近現代史)は「飼い犬や猫の供出は実質的な必要性よりも、人間でさえ生活に困る中で国民の鬱憤のはけ口や、国への貢献度の誇示、忠誠心の引き締めに用いられたのではないか」と語った。
実際、既に社会インフラが破壊され、戦地への輸送も困難になっていた大戦末期の段階では、毛皮だけ大量に供給されてもそれを有効に活用することなどできなかっただろう。
実は、この猫供出、軍とは関係なしに、”忠勤”、”精勤”に励む役人が勝手にやったという指摘が多々ある。結果、猫を集めて殺すだけで、臣民の忠誠を試す為だけの儀式であった。全体主義の恐ろしさだが、そういった儀式への親和性の驚異的な高さが日本人の最大の欠点であり弱点といえるのではないか?
— LN BB-45 (@BB45_Colorado) 2015年8月1日
もはや軍事上の必要とさえ関係なく、ただ国家への忠誠心を競うために、また愛するものの命を差し出させることで民の忠誠心を試すために、無意味な殺戮を行う。まさに、臣民根性の行き着く果ての狂気である。
【2017/3/11追記】
ブログ「15年戦争史」さんが犬の供出に関する新たな証言を紹介されているので、借用させて頂く。川越市霞ヶ関公民館発行の「一人ひとりの戦争体験」に掲載されていたとのこと。
終戦も間近い昭和十九年頃だったと思いますが、霞ヶ関村へ犬の皮を供出するよう上から指示がありました。これは野犬ではなく飼犬をです。犬の皮もまた軍の必要な物資だったのでしょう。それに人間の食糧さえ乏しい時代でしたから、特に生産に寄与していない動物は食糧の無駄になると考えられたのかも知れません。その頃近くの村に野犬を捕まえる人がおり、役場ではこの人に頼んで殺してもらいました。犬を殺したのは延命寺近くのお寺橋の下(小畔川)でした。小畔川の橋の下なら犬を殺したとき血を流すのに川の側が都合が良かったからでしょう。
可愛がっていた犬を綱でつないで引いて行った飼主はどんなにか辛かったことでしょう。お寺橋近くまで引いて行くと犬は力の限り抵抗した、と後日飼主が涙ながらに話してくれました。
こうして殺された犬はお腹のところから裂いて皮を剥がされ、その皮は役場に持ち込まれて天日で乾かされました。役場の堀の中側に手足を開いた形で貼り付けられました(二十頭位)。それを悲しく恐ろしい思いで眺めたことを、私は今でもはっきりと覚えています。
供出するのは皮だけで、肉は飼主に返されてました。当時は食糧難の時代でしたから、どこの家庭でも肉類は貴重品でしたが、さすがに愛犬の肉は食べるのにしのびず、お互いに肉を交換して食べたそうです。今考えれば悲しい恐ろしい出来事ですが、当時としては個人的にはどうにもならない上からの命令だったのです。
【追記終り】
[1] 第75回帝国議会衆議院予算委員会 1940年2月13日
[2] 『女の気持ち 私の猫』 毎日新聞 2012年8月3日
[3] 『戦後70年 猫 供出逃れ抱いて逃げたが』 朝日新聞 2015年8月9日
[4] 井上こみち 『犬やねこが消えた』 学研 2008年 P.66-67
[5][9] 『戦後70年/3 犬猫供出 タマは毛皮になったのか』 毎日新聞 2012年8月12日
[6] 『犬やねこが消えた』 P.36-41
[7] 同 P.44-49
[8] 同 P.68-77
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