- 「百人斬り」事件の経緯を振り返る
- 発端…東京日日新聞1937年11月30日付朝刊(第1報)
- 躍進…1937年12月4日付朝刊(第2報)
- 大接戦…1937年12月6日付朝刊(第3報)
- 決着はつかないまま「延長戦」へ…1937年12月13日付朝刊(第4報)
「百人斬り」事件の経緯を振り返る
今年8月3日、稲田朋美氏は第三次安倍内閣の内閣改造に伴い、防衛大臣に就任した。2005年の初当選からわずか11年、防衛関係の政策を担当したこともない議員がいきなり国家安全保障の要とも言うべき要職に就くとは、大変な抜擢人事である。
そこで、このような大出世を遂げた稲田氏の素晴らしい業績を紹介しようと思ったのだが、どうも議員になってからのお仕事には業績らしいものが見当たらない。では、政治家になる前の弁護士時代の仕事から…となると、やはり原告側弁護人として最高裁まで裁判を闘った「百人斬り訴訟」だろう。なにしろ、この裁判についてはご著書まであるくらいだから、ご本人の思い入れも一入のものがあると思われる。
というわけで、稲田氏の目出度い防衛相就任を機に、改めてこの事件について振り返ってみるのも有意義ではないだろうか。
発端…東京日日新聞1937年11月30日付朝刊(第1報)
「事件」は日中戦争時、日本軍が上海周辺から中国の首都南京を目指して怒涛の進撃を続ける過程で発生した。二人の青年将校が、それぞれ戦場に持参した伝家の宝刀を使って、どちらが先に百人の中国兵を斬り殺せるか競争しているというのだ。報道によると、この第1報の時点で既に二人合わせて80人を斬っている。
百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人
【常州にて二九日浅海、光本、安田特派員発】 常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたった三日間で突破した。まさに神速、快進撃。その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は二十五人斬りを果たしたという。一人は富山部隊向井敏明少尉(26)=山口県玖珂郡神代村出身= 一人は同じ部隊野田毅少尉(25)=鹿児島県肝属郡田代村出身= 銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
無錫進発後向井少尉は鉄道路線二十六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬って先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起ってその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた。
その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、二九日常州駅で六名、合計二十五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行った時この二人が駅頭で会見している光景にぶつかった。
向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらい斬ることになるだろう。野田の敗けだ。俺の刀は五十六人斬って歯こぼれがたった一つしかないぞ。野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしています。僕は○官をやっているので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ。
躍進…1937年12月4日付朝刊(第2報)
敵国首都南京への快進撃に国民は熱狂し、二人の「勇士」が百人斬り競争をしているという報道が伝わると、両少尉はたちまち有名人となった。記者たちは二人の所属部隊を追って続報を出し続けることになる。
急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過
【丹陽にて三日浅海、光本特派員発】 既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入場までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となった。
常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬った訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿う同一戦線上、奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(いずれも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬った。
中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。
野田のやつが大部追いついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬った奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になって貰うよ。
大接戦…1937年12月6日付朝刊(第3報)
《89-78》〝百人斬り〟大接戦 勇壮!向井、野田両少尉
【句容にて五日浅海、光本両特派員発】 南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は、句容入城にも最前線に立って奮戦、入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名という接戦となった。
決着はつかないまま「延長戦」へ…1937年12月13日付朝刊(第4報)
東京日日新聞の一連の記事の最後は、南京陥落前日の12月12日、孫文の陵墓のある紫金山の山麓で二将校に面会し、インタビューしたものである。二人とも目標の「百人斬り」は達成したものの、結局どちらが先に百人斬ったかが分からないため勝負は引き分け、改めて「百五十人斬り」を目指して勝負再開、という話で終わっている。
百人斬り〝超記録〟 向井106-105野田 両少尉さらに延長戦
【紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発】 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌※両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五というレコードを作って、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「じゃドロンゲームと致そう、だが改めて百五十人はどうじゃ」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち、
知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快じゃ。俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからじゃ。戦い済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えいままよ」と刀をかついで棒立ちになっていたが一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ。
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。(写真説明)〝百人斬り競争〟の両将校 (右)野田巌少尉 (左)向井敏明少尉
=常州にて佐藤(振)特派員撮影=
※本記事中の「巌」は誤字。正しい名前は「毅」。
このように、事件をリアルタイムに伝えた東京日日新聞の一連の記事では、両少尉の行為は戦闘中に敵兵を斬った武勇伝として描かれ、勇猛果敢な皇軍の姿を求める読者から熱烈に支持された。
【次記事】
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