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小林よしのり徹底批判(6)ワラン・ヒヤ(恥知らず)

小林の『戦争論』は、彼らが「大東亜戦争」と呼ぶアジア太平洋戦争を、まるでそれだけで完結した戦争であったかのように描く。

実際には、アジア太平洋戦争は日中戦争の必然的帰結であり、日中戦争は中国東北部分離戦争(いわゆる「満州事変」)の帰結であり、中国東北部分離戦争は日清・日露戦争以来延々と続いた朝鮮・中国への侵略行為の帰結である。すべてはつながっているのだ。しかし右派は、アジア太平洋戦争だけを切り出すことによって、まるでそれが東南アジアを植民地支配する欧米帝国主義諸国に日本が果敢に戦いを挑んだ戦争であったかのように描き出そうとする[1]。

東アジアでも日本はアジア人と戦ったのではない

アジアを植民地化していた差別主義者・欧米人と戦ったのだ

(略)

戦争の中で愛と勇気が試され

自己犠牲の感動が生まれ

誇りの貴さを思い知ることもある

このトリックについては別途取り上げるとして、では、東南アジアで日本はどのように戦ったのか、果たして小林が言うように「差別主義者・欧米人」だけを叩いたのか、どのような「愛と勇気」「誇り」を示してくれたのか、実際のところを見てみよう。

 

作家の石田甚太郎氏は、1988年から一年間フィリピンに居住して数百人の被害者たちから聞き取りを行い、日本軍による住民虐殺の貴重な証言を多数記録している。以下、石田氏の著書『ワラン・ヒヤ』[2]から、そのほんの一部を紹介する。ちなみに「ワラン・ヒヤ」とは、タガログ語で、人間でありながら人間らしくない行動をした者を指す言葉である。日本語で言うなら「恥知らず」に当たるだろう。

(注:以下の引用部分に出てくる「バランガイ」は、フィリピンにおける基礎自治体の呼称で、ほぼ日本語の「村」に相当する。また、「サムライ」は日本刀のこと。)

パナイ島

パナイ島では、米国極東軍の降伏後も現地住民のゲリラが活発に抗日活動を続けた。このため日本軍は、1943年、ゲリラ組織の壊滅を目指して約半年間にわたる徹底的な「討伐」作戦を行った。

 「俺の家では、父も母も日本軍に殺されたんです」

 年配の男が、黙っていられないという口調で言い出した。この人が、七十歳になるナサレオさんであった。

 「両親の他に祖母と六人の妹や弟たち、全部で九人も殺されてしまった。残ったのは、わしだけだよ。

 わしが二十三歳だったから、一九四三年だったと思う。四月十日の午前二時頃だったが、突然日本軍がやって来た。外でどなっている声を聞いて、はじめはゲリラかと思った。こっそり外に見に行ったら、日本軍スパイのフィリピン人が『出てこい。逃げると殺すぞ』と言って、みんなを集めていた。これは大変だと思い、逃げ出したところ、日本兵にあやうくつかまりそうになった。しばらくたって、家にこっそり帰ると、もう誰もいなかった。みんなつかまったらしく、水牛しか残っていなかった」

 彼の声が急に小さくなったので思わず見ると、目がうるみ赤らんでいた。

 「それから山に逃げた。次の日、山に隠れてバランガイのほうを見ていると、悲鳴が聞こえてきた。午後になって家が燃え出した。日本軍は虐殺した後で、火をつけたんだ。三十軒ほど家があったけど、みんな焼かれてしまった。日本軍がいなくなってからバランガイに戻って来ると、一人の男が立っていた。男は死体の前で泣いていた。行ってみると人間の死体は炭みたいになって、歯だけが白くって……」

 彼は涙声になり、唇をかすかに震わせていた。

 「あんた、家族を一度にみんな失ったことがありますか?……希望なんかなんにもない。一人になるって異常な気持ちになるものですよ。こんな思いをしたフィリピン人が、わしばかりでなくいっぱいいたってことを、日本人に知ってほしい。戦争中にこの国で何が起こったのか、日本人は何も知らないそうだからね」(P.35-36)

 ノノイという十六歳の少年が、集まった住民たちの前で見せしめに殺されたようすは、目撃者のテモテオ・アマシオさんが話してくれた。

 「ノノイ少年が殺されたのは午前十時頃でした。子どもも女も男も、今でも学校のある広場に集められたんです。なぜノノイが選ばれたかは、たぶんあれがマオンジャケット(デニムのような厚い生地の上着)を着ていたからです。当時ゲリラはそれと同じようなジャケットを着ていたんです。日本軍にしたら、誰でもよかったんですよ。見せしめですからね

 七十九歳になる彼は静かな口ぶりで話し続けた。彼は最近まで、マニラで自家用車の運転手をしていた。

 『もし、日本軍に嘘をついているとこういうことになるぞ。だから、つつみかくさず本当のことを言うんだ』と将校が演説してから、ノノイを後ろ手に縛り上げたうえ、跪かせてサムライで首を斬ったんです。そして『ゲリラの将校テランを知らないか?……彼の関係者や親戚の者がいないか』と集めた人たちを詰問したが、誰も答えなかった。

(略)

 ノノイの叔母のサンビロンさんの家は高床式の木とヤシ葉の屋根の家だったが、居間の柔らかい椅子がまっ赤だったり、窓のレースのカーテンが水色で、家具などに金をかけているらしいのが一目でわかった。

(略)

 「甥のノノイはまだ高校生だったのよ。とっても素直でいい子だったの。父は商人で市場に店を持っていたし、食堂もやっていたわ。あの子は学校がひまな時は、父の手伝いをよくしていたの。両親もいい人だったのに、日本軍はなんてむごいことをしたんでしょう。

 あなたの前では悪いけど、日本軍は人間じゃないみたいなことをしたのよ。私の知ってる女性は、兵舎だった学校で日本兵に暴行されたのよ。彼女は必死に助けを求めたけど、誰も助けることはできなかった。彼女は暴行されただけで殺されなかったけど、母親と弟は殺されてしまったわ。

 私の父も撃たれたの。日本兵につかまって兵舎に連れて行かれたけど、すきを見て逃げ出したの。仔豚を抱いて逃げるところを背後から撃たれたけど、腕と脇腹だったので致命傷ではなかった。でも、医者もいないし、満足な薬もなかったので、三カ月後に死んでしまったわ。家に貯えていた米やとうもろこし、それに水牛まで日本軍に持って行かれてしまったのよ。

 叔父と甥も殺されたんです。疎開していたけど、日本兵につかまえられて、殺されたんです。

 もう思い出すのはやめましょう。いやな、悲しいことばかりですもの」

 彼女は赤く薄い唇をひきしめて言った。(P.68-71)

マニラ

フィリピンの首都マニラでは、1945年2月、北方から進攻する米軍と日本軍との間で激戦となり、この過程で退却する日本軍による住民虐殺が頻発した。

 マラテ地区のセントポール女子大は騒々しいタフト通りの近くだったが、学内に入ると外の騒音はほとんど聞こえなかった。(略)

 登録係の事務室にシスターのアニシタさんを訪ねると、小さな彼女の部屋に案内された。訪問した目的を話すと、下ぶくれをしたこわばった顔がいくらか、なごみ出した。

 「戦争前から、ずっとこの学校におりました。戦争末期になってからですから、たぶん一九四四年の未か一九四五年の初めでしょうが、日本軍に急にここを出て行くように言われたんです。(略)不意に強制的にほうり出されて、エルミタのセントテレサ・カレッジに疎開しました。

 そこの一階も日本軍に占領されていました。私は二階から拷問されている人を見てしまいました。少年はなぜなのか水責めの拷問をされ、妊婦も拷問で殺されました。私は二人しか見ていませんが、地下室ではもっと多くの人たちが殺されたに違いありません」

 二月上旬、食糧に飢えていたマニラの市民を食事を用意したと集め、ダイナマイトで虐殺した「セントポール学院事件」とは、事実だったのだろうか。

 「よくご存知ですこと。それは事実ですよ。ほんとうにあったことです」

 シスターは、眼鏡の奥の両眼をきりっとさせて私を見直した。

 「私たちは無理にセントテレサ・カレッジに移されましたから目撃者ではありませんけど、生き残った人に教えてもらいました。天井の電燈にダイナマイトをしかけ、黒い布で隠しておいたのです。その線を屋外まで延ばして、夢中で食べているところを爆破したのです」

 彼女は声を強めて言った。

 彼女に、虐殺のあった校舎へ案内してもらった。舗装された中庭に出ると広い空間があり、右手に窓が三層になった教会があった。教会の正面の壁面には十字架にかかったキリストの像が浮き彫りにされ、その真上に鐘楼が建っていた。そのさらに右手に、白く太い柱に支えられた長い二階建ての校舎がある。緋色の屋根と調和し、軒が深く南国らしい建物であった。

 「虐殺があったのはここですよ。建物は戦後のものですけど、戦前も同じょうな校舎でした。私たちが学校に戻って来た時には、校舎のすべてが破壊されていました。日本軍ばかりでなくアメリカ車の砲撃もひどかったようですけど、完全にこわれてコンクリートの破片と鉄のかけらだけになっていました。ピアノもオルガンもなくなっていました。人間までとび散っていましたよ。殺された人たちの頭や足や手も校庭に転がっていましたし、日本兵の死体もありましたよ」

 校舎と教会を結ぶように円形の芝生があり、土を盛り上げた中央に白い聖母マリアの像が置かれ、その脇にサンダンカの濃い橙色の花が咲き乱れていた。(P.116-117)

ラグナ湖畔

マニラの南に位置するラグナ湖畔には、連合軍兵士の捕虜収容所があった。1945年2月、米軍はゲリラの手引でここから約二千人の捕虜を奪還した。このあたりでは、その頃から日本軍による住民虐殺が激しくなっていった。

 十三歳の時に虐殺に遭ったが母親のおかげで生き延びたセルビエノ・バレラさんの家を訪ねた。雑草の彼方にラグナの湖面がかすかに見えた。

 「日本兵が虐殺を始めてると聞いたんで父が見に行った。川のそばで働いていた二人の男がつかまって銃剣で突き殺されていた。そこで父は、男が危ないと考えて長男と二人で隠れた。母親と俺たちが家にいると、六人の日本兵がやって来て、すぐ外に連れ出された。一カ所に二百人ほど集められた。三十人ほど一軒の家に押し込まれた。紐で縛ってから殺し始めた。母親は妊娠七カ月だったが、最初に銃剣で突かれた。しかし、俺をかばうように上から覆いかぶきったので、俺は血だらけになって倒れただけで、傷を負わずに済んだ。兵隊は、殺したあと油をかけて火をつけた。俺は従兄弟に紐をほどいてくれと頼んだ。彼はロで固い紐をほどいてくれた。二人で、まだ生きている妹を外に出した。姉はかめの水をかけて火を消そうとした。早く逃げないと火がまわって危なかっだが、姉は母親をなんとか担ぎ出そうとしていた。でも、だめなので家から飛び降りて逃げようとした時に、日本兵に見つかり射殺されてしまった」

 「(略)結局、助け出した妹も腸が飛び出していたからその晩に死んだ。母親と姉と弟と妹、それにおなかの中の子どもとで五人殺されたんだ。決して忘れられないよ」(P.169-170)

 独身のジュネシャ・デロナさんは、昼寝をしていたらしく不機嫌な表情で太った体をゆすりながら、部屋から出て来た。彼女は銃剣で五カ所も傷を負い、家族でただ独り生き残った。両親と妹二人と弟二人が殺されてしまった。

 「あの日、まだ朝食も食べないうちから日本軍がやって来たのよ。女は縛らなかったけど男たちを縛って、別々の家に連れて行った。男たちの家からわめいたり叫ぶ声がしたの。そして女たちも、一人ひとり外に連れ出されて殺されたから、――叫んだり泣いたりしてひどかったよ。なんとか、逃げ出そうと思ったけど、どこにも逃げ場がなかった。ある母親は子どもが殺されそうになったのでだき抱えたところ、銃剣が子どもと母親を突き抜けて壁に突き刺さった。私はそれを見て失神してしまった。私の上に突かれた人が倒れたので、兵隊はその人を深く突き刺し、私まで刺された。でも私は、他人の上から刺されたんで、深い傷は一カ所ですみ、生き残れたの。

 気がついてから、『神様、生きているのは私一人でしょうね』と言ったら、『私も生きているよ』と別な人が言った。壁の穴から外を見ると、日本兵が着剣していた。そのうち日本兵が、誰かまだ生きている者がいるかどうか、確かめに上がって来た。あわてて、死人の上で死んだふりをした。日本兵がいなくなってから、逃げ出すことに決めたの。子どもを入れると八人だった。私は下腹に傷があったけど、子どもたちは無傷だったので、必死に駆けた。

 夜になってアメリカ兵とゲリラに会い、傷の治療をしてもらった。後で、マニラの近くのアメリカの病院に連れて行ってもらったよ」(P.187)

バタンガス

 バタンガス州は、ラグナ湖からさらに南に位置する。ここでも、1945年2月から3月にかけて、日本軍の「ゲリラ討伐」による大量虐殺が行われた。ここだけに限らないが、パス(通行証)をやるからと言って住民を集めておいて、騙して縛り上げ、谷川など死体処理のしやすい場所に連行して銃剣で突き殺すのが虐殺の一つのパターンになっていた。

 ガルシアさんは目で息子を押さえてから、私に顔を向けた。

 「あの頃、俺は十九歳で、子どもが一人いた。

 前の夜、日本軍がパスをくれるから集まるように言われた。だから、みんなと一緒にカルメルの神学校に並んで行くと、百二十五番という札を貰ったよ。パスはカトリックの大聖堂でくれるというから、二十人位が日本兵に連れられて出かけた。途中で突然に『空襲だ。退避しろ』って怒鳴られたんで、急いで空き家に逃げ込んだ。そこで隠れていた兵隊に縛られて、つながれた。せまい洞窟を出ると小さい谷川だった。すぐ竹やぶを上ってココナツ林に連れ込まれた。

 殺しが始まっていた。谷川に飛び込んで逃げのびたカステリヨさんが一番目のグループで、俺たちは三番目のグループだった。俺はカステリヨさんの相手だったバランガイ・キャプテンが、二人の日本兵に銃剣で殺されるのを見てしまった」

 彼は日焼けしたこげ茶色の顔を、かすかにしかめた。

 「俺は、三人一緒に銃剣で突かれるのに気がついたが、あとは夢中で目をつむっていたよ。あっという間に、深い谷川に投げ込まれた。川に投げ込まれても生きているのがわかると、また日本兵が突き殺していたよ。

 俺はこことここで、五カ所もやられた」

 彼は半袖シャツをめくって傷跡を見せてくれた。一カ所は胸の左下から突かれて背中に突き抜けていた。右胸下も前から刺されて後ろに突き抜けていた。

 「ひどい傷だったけど、なんとか生きたい、死んでたまるかと思い、投げ込まれてくる死体をかきわけて、少しずつ上に登って行った。また上に死体が積み重なると、痛みをがまんしてゆっくりゆっくり這い上がった。

 痛くて苦しかったから、このまま死んでしまうのかと何度も思った。生き返って歩き出していた者は、銃剣でまたやられていたから、うっかり動けなかった。

 たぶん、十時頃にやられて、十二時頃だった。ちょうど、日本兵が昼食の時間になった。俺はそのすきに、そろりそろり痛みをがまんして逃げだした。大きな家があったんで隠れようとしたら、女たちが五人も殺されていた。その家にカリーサ(一頭だての馬車)があったから、鉄にこすりつけて縛られた紐を切った。ゆっくり少しずつ歩いたけど出血がひどかったので、誰もいない小さな家を見つけて水を飲んで休んだ。もう歩く気力もないので、そこに寝てしまったよ。家にやっと戻ったのは次の日だった。

 うちでは、父と叔父と俺が虐殺に遭い、このバランガイで叔父と俺だけが生き残った。叔父はその日のうちに戻って、パミンタハンのことを女どもに知らせたから、みんな泣きながらも急いで疎開を始めた」(P.246-247)

インファンタ

インファンタはマニラのほぼ真東、ラモン湾に面した海岸地帯である。米軍が対岸のポレリオ島に上陸した1945年4月頃から、ここでも日本軍による「ゲリラ討伐」と称する住民虐殺が激しさを増していった。

 ロメオ・リザールさんとは、彼の叔母の家で会った。顔が小さくて日焼けした彼は、ランニングシャツと灰色の半ズボンでやって来た。彼も、オールキハさんと同じバルポの集落に疎開している時に、虐殺に遭った。

 「義理の兄と、従兄弟は、二人とも日本軍に水牛の肉を山まで運ばされた後で殺されたよ。見たわけじゃないが、二度と戻って来ないから殺されたに決まっているさ。(略)

 うちで殺されたのは、両親と祖父、それに十六歳の兄だよ。あの時、バルポでは疎開者もいたから百人以上は殺されているよ。

 はじめ日本軍が来て大人たちを縛ってから、引きずって外に連れ出した。俺と九歳の兄と二人の従兄弟は縛られたまま家に残された。後で兵隊は家々に火をつけた。兄は紐をほどいて逃げた。俺も逃げようとした時、女の悲鳴を聞いて振り向いたら、日本兵が銃剣で殺していた。立って逃げると危ないんで、這うようにして逃げた。

 次の朝、兵隊がいなくなってからマンゴーの木の下に行くと、両親は穴の中で殺されていた。解放後は母方の叔母に育てられた。生き残ったのは俺と二歳上の兄だけだ。子どもだったから寂しくて、兄と泣いたこともあった。祖先を祭るオールセンツデーには、死んだ両親たちを思い出すよ。殺されなければ、まだ生きていられたかも……」

 彼は声を落として言った。(P.337-338)

 丸顔で太った主婦のパウリナ・ロマンテコさんは、自分の経営している食堂の台所から男の子を抱いて現われた。(略)

 「私はまだ十一歳だったので、バヌガオのバランガイで両親と住んでいたよ。虐殺は五月二十日頃だった。

(略)

 夕方六時頃、父が階下の穴に籾を隠していると、二十人ほどの日本軍が銃剣をつけ、帽子の上に赤い鉢巻きをして、アゴスアゴスの方向に去って行った。八時頃、同じ日本軍だと思うが、戻って来るとうちを取り囲んだ。兵隊が二階に上って来て、すぐ下に降りるように言った。私は五歳の弟を抱いて下に降りた。階下に行くと、男たちは後ろ手に縛られたよ。叔父は縛られるのを嫌って日本軍に抵抗し、子どもを抱いて逃げ出した。そこで、日本兵は怒って、銃剣で突いて殺し出した。女たちが泣いたり男たちまで大騒ぎになった。私は七カ所も銃剣でやられた。その後で、殺した人を防空壕にほうり込み、上から衣類やゴザをかぶせた。虐殺が終わると、兵隊たちは笑っていた。それが耳に残ったが、あとは意識を失ってしまったよ。

 十五人虐殺に遭い三人生き残った。気がついたら次の朝で、もう一人の叔父が水を飲みたいと言った。私は死体の下にいたんで、気がついたけど外に出られなかった。でも、なんとか体を動かして死体の中から這い出した。私は叔父に水を飲ませたけど、次の朝には死んでいた。彼は腹を刺されて、腸が外に飛び出していた。

 虐殺から五日間位は水だけ飲んでじっとしていた。出血で気力もなかったから、どうしようもなかったのよ。逃げた叔父が、やっと私が生きているのを見つけてくれて、インファンタに来ていたアメリカ軍の病院に連れて行ってくれたよ」(P.360-361)

ワラン・ヒヤ

バタンガスで大きな家に詰め込まれてダイナマイトで爆破され、重傷を負いながらも生き残った男性は、日本軍の行為を「人間としてやるべきことではなく、タガログ語でいう『ワラン・ヒヤ』だ」と語っている。

特に大戦末期、追い詰められた日本軍には住民すべてがゲリラに見えたのだろう。女や子どもも含め、無差別に虐殺を繰り返した。当然、日本兵は憎悪の的となった。

 アメリカ軍が入ってから日本兵はたくさん捕虜になったけど、アメリカ兵は日本兵をとっても大事に扱っていましたよ。煙草やガムなんかくれて……。だからフィリピン人は憎しみにかられて、『一人でもいいから日本兵を渡してくれ』とアメリカ兵に怒鳴ったものです。みんなが、リンチにしてもあきたらない思いなのに、どうしてアメリカ兵が日本兵の捕虜を大事にするのか、どうしても理解ができなかった。だから戦争中に覚えた日本語で、『コノヤロウ』とか『バカヤロウ』って、悪口を言ったり、石を投げてやりましたよ。

 多くのフィリピン人が拷問をされたり殺されたんです。強姦をされた女の人だって、決して珍しくありませんよ。悲しみと怒りにかられていたから、女の私だって、憎らしくて憎らしくてつねってやったり、ビンタを仕返しにやりたいくらいでした。(略)(P.97)

「俺は日本兵には石を何回もぶっつけてやった。アメリカ兵も憎んだよ。フィリピン人をさんざん殺した日本兵に石を投げようとするのに、やらせないんだ。アメリカ兵は俺たちを怒って追いかけてつかまえた。日本兵は憎かったけど、アメリカ兵も憎かった。

 でも、今は日本兵を許しているよ。結婚して、子どもが生まれてから許す気になった。だけど、日本人のことが話題になると急に昔のことを思い出して、頭がかーっとなってくるんだ。今でもね……」(P.182)

これが、小林の言う「無邪気に男の子の感覚で言えばグレイトな」「スケールのデカい戦争」の実態である。

戦争から数十年を経て、被害者たちの多くが、「許すが、忘れない」、「日本の若い人たちも歴史の事実から学んで欲しい」、と語っている。

 「日本軍をどう思うかですって?……私は山下将軍の裁判の折に、法廷で私たちの家族を含めて多くのフィリピン人が虐殺された模様を証言したけど、彼はじっと下を向いたまま顔をぜんぜん上げませんでした」

 彼女は細面の優しそうな顔に、不満の色をはっきり込めた。だが、次の瞬間、彼女は表情を改めて言った。

 「私はカトリックなので、日本軍の犯罪を許しています。でも、決して忘れませんよ」(P.191)

「日本の青年ばかりでなく、世界の若い人たちに言いたいことですが、歴史の事実から学んでほしいですね。その点で、ドイツはナチス時代を教えるべきだし、日本も戦争中に他国にどんなことをしたかを教え、そこから学んでほしいと思います。もちろん、アメリカはベトナムで何をしたか、そこから学んでほしいし、ソ連はスターリン時代の強制収容所で、多くの人たちが殺されたことを学んでほしいと思います。この国を植民地にしたスペインもアメリカも同じことですよ。フィリピン人は、マルコス時代に何があったかも、歴史の教訓として忘れてはならないと思います。

 私はこの大学(注:デ・ラサール大学)で教えていますので、歴史の事実を明らかにして、そこから学ぶような講義をしています。真実を隠すことは、なんのプラスにもなりません。そういう点で、日本でも、過去に東南アジアを侵略してどんなことをしたのか、事実から学ぶことはあまりにも当然のことだと思います」(P.128)

今の日本では、歴史の教訓に学ぶどころか、事実を隠蔽・歪曲し、過去を正当化しようとする者たちが勢力を拡大し続けている。あまりにも愚かである。彼ら歴史修正主義者たちこそが、現代の「ワラン・ヒヤ」だろう。

[1] 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 幻冬舎 1998年 P.36-37
[2] 石田甚太郎 『ワラン・ヒヤ 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』 現代書館 1990年

 

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