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彼らはなぜ抗日ゲリラになったか

前回の記事に対して、こんなコメントがついていた。

>こっそり外に見に行ったら、日本軍スパイのフィリピン人が『出てこい。逃げると殺すぞ』と言って、みんなを集めていた。
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「通訳のフィリピン人が」ならわけるけど、日本軍側にいただけでスパイ呼ばわりしてるってことは、この証言してる村の人らって抗日ゲリラ側の人間だろ。
純真無垢な住民を装ってるけど語るに堕ちてますわ。


右派は判で押したように、日本軍に抵抗したゲリラやゲリラに同情的な住民の証言は信用できないと言う。要するに、日本軍に抵抗したのは彼らが「反日」思想の持ち主だったからで、そういう者たちは日本を貶めるために嘘の証言をする、と言いたいのだろう。

だが、当時日本軍が行っていたのは、それを体験した「純真無垢な住民」が抗日ゲリラやその同調者になってしまうようなことだったのだ。フィリピンの場合について、再び石田甚太郎氏の『ワラン・ヒヤ』[1]から証言の一部を引用する。

 「(略)日本軍は住民をつかまえるとみせしめに殺したり、大量虐殺をすれば、ゲリラと住民の間を離反させることができると考えたようだけど、あの作戦は完全に失敗でした。銃剣で脅かされれば、誰だってひるみますし動揺もします。だけど、本心から他国の殺人部隊を受け入れるでしょうかね? だから、当時のフィリピン人は二重人格にならざるをえなかったんです。本心と日本軍同けの顔と……。日本軍がやっきになってフィリピン人を拷問して虐殺すればするほど、内心に憎しみを込め、恐れおののきながらもゲリラを支持してくれたんです。(略)」(P.55-56)

なぜゲリラになったかというと、日本軍のやり方があまり残虐だったからだよ。日本兵がゲリラの妻をつかまえると、裸にして町中を引き回してプラザに連れて行き、煙草の火を体に押し付けたり、乳首を切ったりして、みんなにみせしめにした。マカピリ(注:日本軍が傀儡政権に組織させた対日協力組織「フィリピン愛国同志会」)がゲリラの息子や娘だと指摘すると、兵隊は子どもでも殺した。五歳の男の子だったけど、銃剣で突いて放り投げられたのを見たよ。もっと大きな子どもは、持ち上げられないので首をつかんでサムライ(注:日本刀)で斬った。だから怒りに燃えてゲリラになった。そうしないではいられなかった」(P.150)

「なんとか仕返しをしたかったので、ゲリラになることにした。三人の中国人と一緒にゲリラに入った。(略)」

「殺されたのは、中国人ばかりじゃないよ。フィリピン人も七十人は殺されていると思う。

 日本人が、なぜサンパブロで虐殺したかは、この町にゲリラの組織があったせいだろう。後で、サンタクルスに移ってしまったけどね。しかし、見境もなく殺していいものかな。日本軍は男ならばみんなゲリラだと勝手に考えて虐殺したんだ。あれはひどいよ。あんなことをすれば、反発して、かえって私みたいにゲリラになるのに……」(P.213-214)

「日本軍は、アメリカ軍が反撃してくる前は友好的だった。何処から持って来るのか、水牛の骨つきの肉を時には分けてくれた。ところがアメリカ軍が近づくと残酷になった。

 あれは一九四五年四月二十五日だったと覚えているけど、夕方に兵隊がやって来て水牛の肉をやるとふれて回った。ちょうど、俺は兄の家に行って留守の間だった。十七歳だった俺は、うちに帰ってからその話を聞いたから、父と妹が貰いに行った井戸の方に行った。俺は虐殺を隠れて見てしまった。急いでまた兄の家に行って、父と妹が殺されてしまったことを話した。

 それからはとっても恐くて、虐殺現場に行けなかった。ずっと後でその井戸に行くと骨が少し残っていたから集めて、墓地に埋めてやった。

 まだ若かったから、俺は怒って日本軍に仕返ししょうと考えて、ゲリラに参加した。しかし、仕返しする機会がなかったよ。間もなく日本軍は降伏したし、アメリカ軍が仕返しを禁止したからだ」(P.343-344)

「家族で殺されたのは母と姉と五人の弟、それに姪一人の八人だよ。

 あれは解放の年の五月だった。父と長兄と私の三人が疎開したバコンに残って、後の家族はポレリオに避難することにした。その八人がみんな虐殺されてしまった(略)帆船で出発しようとした時だった。日本軍に見つかって、機関銃でやられた。ほとんどは即死だった。六十人ほど殺されているはずだよ。四人だけ生き残った人が、ランガスのバランガイ(注:村)にいると聞いているよ。

 父が遺体を捜しに行ったけど、流されてしまってぜんぜんわからなかった。

 みんな避難する人たちばっかりで、子どももたくさんいたのに……」

「あの時、母や弟たちを殺した日本兵を許せないと思った。怒りにかられて、ゲリラになろうと決心して申し出たけど、まだ十三歳だったので参加できなかった。たぶん、殺した日本人には、殺されたフィリピン人の気持ちはわからないと思う」(P.395-396)


最後に、ゲリラ側というよりむしろ日本軍に協力した側にいた住民による証言も紹介しておこう。これでも、ゲリラやゲリラ側住民の証言は信用できないと言えるだろうか?

「(略)俺は一ヵ月間だけだったが、日本軍の警官をしたことがある。つかまえられたから、いやでも言うことを聞かなくてはならないからだよ。住民を集めては、日本軍の許可した地域(戦略村)に連れて行くんだ。その時、殺されたフィリピン人を数えたことがあった。一軒の家の中で、三十七人も殺されていたよ。後で火をつけて焼いたけどね。(略)」(P.24-25)

「だいたいこのバランガイは日本軍に協力的だった。マカピリがたくさん住んでいたわけではないけど、日本軍のいう通りにしてきた。それなのに皆殺しをはかった。理由は二つほど考えられる。一つは、マカピリが二派に別れて争っていたから、日本軍は困ってしまいマカピリを含めて殺したのではないか。二つ目は、日本軍の秘密を知り過ぎてしまったこともあったと思う。最後の抵抗のために山に掘ったトンネルのことなどは、みんなが知っていた。そんなことで、バランガイの全滅をはかったんだろうけど、女や子どもまで殺す理由があるかね?……あんたはどう思う?……。妻の姉妹はひどかったよ。十四人いた姉妹のうち、妻だけが残って三歳から十六歳までの十三人、全員殺されたんだ。あまりにも残酷じゃないかい? そして、このバランガイの千七百人のうち千六百人以上も虐殺されてしまった」(P.284)


[1] 石田甚太郎 『ワラン・ヒヤ 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』 現代書館 1990年

 

ワラン・ヒヤ―日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録

ワラン・ヒヤ―日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録

 
殺した殺された―元日本兵とフィリピン人200人の証言

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