小林は特攻隊に関してこんなことを書いている[1]。
20代の若者たちは
その純粋性ゆえに
自らの死の意義を 信じてゆるがない
(略)
彼らが 命を捨てても守るべきもの それは…
祖国であり
郷土であり
家族であり
天皇であった
本人たちがそのように信じていたか、あるいは自爆死しなければならないという現実を自らに納得させるためにそう信じようとしていたかは別として、果たして彼らの死が愛する家族や故郷を守るために必要な犠牲だったのかと言えば、もちろん違う。
これは特攻死した隊員たちだけでなく、「英霊」として靖国に祀られ、死後もなお利用され続けているすべての旧日本軍戦死者についても同じである。
小林のような右派はもちろん、左派・リベラルを自認する人々でさえ、しばしば彼らの死を「尊い犠牲」として美化したいという誘惑に負けてしまう。だからこそはっきり言っておかねばならない。家族や故郷を守るために死んだ日本兵など一人もいないのだ。
あの戦争が侵略戦争でなく防衛のための戦争だったなら、敗戦により防衛は失敗し、今の日本は植民地となっているよね。ネトウヨのみなさん植民地日本の住み心地はいかがですかな?(笑)#フジテレビデモ #花王デモ
— LOVE JAPAN & KARA (@KARA_freak) 2016年8月29日
@KARA_freakさんの指摘するとおり、彼らの死が侵略者から祖国を守るための戦いの結果であったのなら、無条件降伏してしまった日本は(かつて日本自身が朝鮮に対してやったように)植民地とされ、国土や財産はもちろん民族性や言語まで奪われ、他民族に「同化」させられていたはずである。
そうなっていないのは、あの戦争が祖国防衛戦争などではなかったからだ。
アジア太平洋戦争だけではない。それ以前の戦争をも含めて、日本は明治以来ただの一度も祖国防衛戦争など戦ったことはない。琉球処分(1872-79年)、台湾出兵(1874年)、日清戦争(1894-95年)、日露戦争(1904-05年)、シベリア出兵(1918-22年)、満州事変(1931-32年)、日中戦争(1937-45年)と、すべてが外征、つまり他国の領土に出かけていっての侵略戦争や内政干渉である。
その最終的帰結がアジア太平洋戦争であり、敗戦によって日本はそれまで周辺諸国から奪ってきたすべての海外領土や権益を放棄させられたのだ。(このとき沖縄だけは日本の潜在的主権下にあるものとして残され、これが戦後の沖縄の悲劇の原因となった。)
そもそも、祖国を、故郷を、愛する家族を守るために戦い、死ぬとはどういうことなのか。そのほんの一例を、フィリピン・パナイ島で侵略者日本軍に抵抗し殺されたゲリラ戦士の死に見ることができる[2]。
帰りは雨になっていた。
雨は降り続いていたが、サルバシヨンの町役場でトライシカー(注:三輪タクシー)を降りた。広場に日本軍と戦ったゲリラたちを顕彰する記念塔が建っていた。塔は、暗闇を照らす燈火をかたどっていた。その背後に、戦死した七十名のゲリラたちの氏名が刻まれていた。最初の氏名は、指揮官のサルバドール・ミリタンテ大尉である。
ゲリラ戦士たちの氏名の上に、次のような文字が刻み込まれていた。
「ブエノビスタの英雄
第二次世界大戦
夜のうちに倒れた者たちは
生きて陽の光を見た者たちに
忘れられることはないだろう」
夜とは日本軍占領時代を意味している。フィリピンでは、第二次大戦の終戦を「解放」と言っている。日本軍占領下から「解放」されたからである。
(略)
キャプテン(注:バランガイ・キャプテン=村長のこと)は、道一つへだてた小学校の校庭に、私を連れて行った。どこでも見られる校庭風景だったが、私はふいに先日会った、この島の歴史に詳しいサラダサさんの話を思い出した。
「サルバドール・ミリタンテ大尉を含むバランガイ(注:村)の住民たちが校庭に集められた。機関銃が住民に向かってすえられていた。『もし、ミリタンテが降伏しないならば皆殺しだ』。日本帝国陸軍将校は一、二、三と号令をかけた。その時『私がミリタンテです』と住民の中から彼が立ち上がって、日本軍指揮官の前に進み出た。指揮官はミリタンテの手を握り、『すべてのゲリラを率いて降伏するんだ』と言った。『いや、私は降伏しません』。『跪ひざまづいて降伏するんだ』。『跪くんだ』。日本軍将校が怒鳴った。彼は跪いたが降伏をしなかった。だから、彼はギマラスの英雄になった。今でも」
小学校の正面にコンクリートの記念碑があった。
「サルバドール・ミリタンテ大尉は、一九四三年八月二十四日、自由のための殉教者としてこの校庭で 、日本帝国陸軍に殺された。」
このような死を死んだ日本軍将兵は一人もいないが、日本軍は朝鮮で、中国で、そして東南アジア諸国でも、こうした英雄たちの犠牲を無数に生み出した。
[1] 小林よしのり 『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 幻冬舎 1998年 P.86-87
[2] 石田甚太郎 『ワラン・ヒヤ 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』 現代書館 1990年 P.28-31