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「イサマシイ青木上等兵」―上海戦のプロパガンダと現実

本日のTLから選りすぐりの逸品。

上海戦、それもあの呉淞ウースンクリークでの戦いで、中国兵が投げてくる手榴弾を爆発直前に拾っては投げ返し、拾っては投げ返して、さんざん敵をやっつけたという、勇ましくも麗しい軍国美談である。

そんなに手榴弾を投げるのがうまいのなら、敵が投げてくる前にこっちからどんどん投げればいいじゃないか、と思ってしまうわけだが、実はそういうわけにはいかない事情があったのだ。

実際にこの呉淞クリークでの戦いに参加した三好捷三氏の手記『上海敵前上陸』から、手榴弾の話を抜き出してみよう[1]。

(略)私はいよいよ出発かと思い、集合場所にいってみると、分隊長たちが集まってガヤガヤといっている。見ると手榴弾の配給であった。

 兵器係の軍曹が、兵一名について五個の手榴弾をそれぞれ配給していった。私は自分の分隊、十二名分六十個の重い手榴弾を分隊まで運んでいった。ところがこの手榴弾はみるからに古く、まるで骨董品であった。きけば日露戦争当時の残品だということである。

(略)使用するときにはゴムバンドをとり、撃針どめを抜いてからシュロ縄の尻をもって振りまわす。その反動で敵になげると、三十メートルぐらいとんで撃針が土地につくとその衝撃で弾体が爆発するようになっていた。(略)私はこの手榴弾をうけとったとき、馬鹿にしていやがる、と思うと同時に、なさけなくなった。

 それでも命令とあれば、捨てるわけにはいかない。私たちはそれを一人五個ずつとった。私は兵隊にこいつは危いから、取り扱いには細心の注意をはらうようにいいわたした。(略)まったくもって時代ものの手榴弾であった。私は暴発して兵隊がけがをしないかと心配でならなかった。

 ところがこの恐れは、二、三日すると現実となってしまったのである。あちらこちらで手榴弾が暴発して、兵隊たちのなかから死傷者がでるようになった。敵を倒すための武器が、逆に味方を倒すという奇妙な現象がおこったのである。そのために兵隊たちは身の危険を感じて、その手榴弾をクリークへ捨ててしまった。もちろん私も同じように捨てた。(略)ところがそれから数日後の九月六日夜、曹家浜で敵と接近戦を余儀なくされたのである。いま手榴弾があればあの敵を倒せると思ったときには、誰一人手櫛弾をもっている者はいなかった。

これでは、いくら手榴弾投げの得意な兵士でも、敵が投げてきたのを拾って投げかえすくらいしかできなかっただろう。

日露戦争といえば、上海戦当時から見て30年以上の昔である。兵隊たちは、そんな骨董品のような旧式兵器、しかも経年劣化していつ暴発するかもしれないような危険な代物の在庫処分を命じられたわけだ。旧日本軍が末端の兵士のことなど安価な消耗品くらいにしか思っていなかったことがよく分かるエピソードである。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.65-66

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