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中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。

慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?
慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません

ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。

この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。

 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)

 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。

 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。

ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。

金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?

元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。

金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?

元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。

このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

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