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食人鬼とトロッコ問題と権力勾配

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■ 食人鬼と少女のお話

先日、twitterで「食人鬼と少女のお話」という創作マンガが話題になっていた。作者(女子高校生だという)のアカウントは非公開になってしまったのでもう見れないのだが、うろ覚えの記憶によると、だいたいこんなお話だった。

  • 飢えて死にかけた孤児の少女に、一人の男が声をかけてくる。男は、自分たち一家は人間しか食べられない食人鬼で、育ててあげる代わりに、将来君を食べさせて欲しいと言う。少女はその提案を受け入れる。
  • 食人鬼一家は、約束どおり少女に暖かい食事やきれいな服を与え、家族同様に愛情をこめて育てる。
  • やがて成長した少女は、育ててくれた食人鬼一家に感謝の言葉を残し、自ら安楽死の薬を飲んで自殺する。食人鬼たちは泣きながら彼女の遺体を食べる。
  • その後、この一家が食人鬼であることが世間にばれてしまい、激昂した群衆に襲われて彼らは殺される。
  • 最後に、「しかし人々は知らないのです 彼女が本当にとても幸せだったことを」といった感じのモノローグが入る。

少女が食人鬼の提案を拒絶していれば、恐らく数日もしないうちに彼女は孤独と苦痛に満ちた死を迎えていたはずだ。食人鬼一家はそんな過酷な運命から少女を救ってくれただけでなく、家族同様に愛してくれたのだから、彼女は本当に幸せだったのだ。人の内面の幸不幸は、他人が推し量れるようなものではない……というのがこのマンガの表向きの主張だ。

しかし、ストーリーをなぞるだけですぐ読み取れるように、この作者が本当に言いたかったのは、この少女には何もしてくれなかったくせに、食人鬼一家を邪悪な者として抹殺した群衆(=正義を振りかざす人々)は偽善の塊であり、むしろ食人鬼一家より邪悪な存在だ、ということだろう。

まあ、言いたいことはわかる。

しかし、この「食人鬼と少女」という設定はダメだろう。この世に食人鬼はいないが、食人鬼のように少女を搾取する連中はいくらでもいる。だから、このお話を現実に当てはめると、こんなことになってしまう。

この作者には、ぜひ藤子F不二雄の『ミノタウロスの皿』などを読んだ上で、あらためて社会派マンガに挑戦して欲しい。

■ 究極の選択と権力勾配

ところで、少女が究極の選択を迫られるこの物語が、いわゆる「トロッコ問題」と同様な構造を持っていることが指摘されている。

サンデルの描くトロッコ問題(サンデルはトロッコではなく路面電車を例えに使っているが)とは、次のようなものだ[1]。

 あなたは路面電車の運転士で、時速六〇マイル (約九六キロメートル) で疾走している。前方を見ると、五人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキがきかないのだ。頭が真っ白になる。五人の作業員をはねれば、全員が死ぬとわかっているからだ (はっきりそうわかっているものとする)。
 ふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。路面電車を待避線に向ければ、一人の作業員は死ぬが、五人は助けられることに気づく。
 どうすべきだろうか? ほとんどの人はこう言うだろう。「待避線に入れ! 何の罪もない一人の人を殺すのは悲劇だが、五人を殺すよりはましだ」。五人の命を救うために一人を犠牲にするのは、正しい行為のように思える。

これを、「何もせずに五人死なせるか、意図的に一人殺すか」選択する問題として愚直に解こうとすれば、一人殺すほうを選ぶしかないように思える。しかし、いかにも非現実的で不快な問題設定からも分かるように、真の問題は「誰がなぜこんな問題を設定し、それを解かせようとするのか」だ。

まさにこのとおり。こんな問題は解いてはいけないのだ。トロッコ問題の正解は「こんな問題を解かせようとするサンデルを殴りに行くこと」だ。

[1] マイケル・サンデル 『これからの「正義」の話をしよう』 早川書房 2010年 P.32

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ミノタウロスの皿 (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)

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