「虐殺の“ギャ”の字もない」従軍記者座談会?
右翼雑誌「Will」の2007年12月増刊号に、「朝日新聞支那特派員大座談会」という記事が載っている。
「むろん、虐殺の“ギャ”の字もない」という煽り文句から、てっきり戦後の座談会で従軍記者たちが当時を振り返り、「見なかった」「虐殺などなかった」といった発言でもしているのかと思ったら、なんと南京陥落当時の朝日新聞に載っていた記者座談会の再録なのである。
バカじゃなかろうか。
軍による検閲済みの新聞に虐殺の話など出ているはずがない。しかも当時の新聞といえば、朝日も含め、どこもイケイケドンドンで戦争を煽るプロパガンダに熱中していたのだ。
日中戦争が始まった後、朝日新聞は主筆の緒方竹虎が陣頭に立って日本軍と近衛政権を全面的に応援する国策追従の論陣を張り、「皇軍」の連戦連勝を書き立て、中国人蔑視の言葉を書き並べた。今の産経新聞と瓜二つの内容で、文も写真も当然軍の検閲済み。「日本兵と笑顔で接する子ども」の写真も宣伝用。 pic.twitter.com/qS8i7CgJUR
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2017年12月21日
こんなものが虐殺否定の根拠になると考えるほうがどうかしている。
従軍記者たちの座談会発言と戦後の回想
この座談会で面白おかしく「武勇伝」を語っている従軍記者たちのうち、足立和雄、今井正剛の両氏は、戦後、当時自分たちが本当は何を見たのかを書き残している。また、守山義雄、中村正吾の両氏については、それぞれ足立氏、今井氏が証言の中で言及している。
それでは、再録された座談会での彼らの発言と戦後の証言を比べてみよう。
座談会での記者たちの発言
今井 とにかく、これから先どうなるのかは知らないが、兵隊さん達が「南京、南京」とうわ言のようにいいつづけて行軍して来たのと同じように、僕達も南京が最後のゴールだった。それだけに「ああ、あれが南京だ」と最初に見出した南京の街、南京の山というものは忘れられない。僕は南京を敗残兵の中に立ちながら見出したのだ。九日の朝だった。上方鎮から東村站を経て秦淮河に抜ける時、東村站で丁度正午ごろ人ッ子一人通っていない街の真中でクルマを止め、さてどうしようかな、と考えているところへ、街の裏の壕の中からヒョッコリ顔を出したのが敵の正規兵だ。又一人、又一人、流石さすがに井上映画班氏も写真の熊崎君も、勿論僕も顔色はなかったな。
その緊張した気持の中で、ふと前面を見ると、三段の稜線を描いている山の中腹に、ぼうっと白く「中」の字型の陵らしいものが見えたのだ。「おい、あれが中山陵だ、紫金山だぞ」と怒鳴り合いながら、もう何もかもそっちのけで一目散だ。南京へ、南京へ。そして、砲弾と銃弾とがもう身の置きどころもないほど落ちて来る前線へ飛び出してしまったのだ。
(略)
足立 僕たちが麒麟門のこちらで集中射撃を受けたとき、一人の敵兵が我が軍の陣地の中の掩蓋えんがい壕の中で捕えられた。大胆にも壕の中から味方の陣地に向って電話通信をしていたのだ。敵の集中射撃が正確を極めたのも道理だったのだ。それがやはり二十歳前後の若い教導総隊の兵だったよ。
中山門が落ちた日の朝、僕は紫金山連山の峰伝いに太平門に降りて来たんだが、紫金山のてっぺんの塹壕の中には敵の死骸が折重なるように埋まっていた。それは百メートル以上も続いていたろう。皆んな教導総隊の兵だった。一人も逃げる姿勢をとっていない、見事に頭をやられているんだ。
(略)
守山 皮肉な話を一つ披露しよう。十三日の未明、太田部隊が南京城門を乗り越えて真先に軍官学校横の敵砲兵陣地を占領したが、そこにあった十五センチの大砲四門がどこ製であったと思うか? 「昭和二年大阪工廠」というマークがついているではないか。驚いたなあ。しかもここには占領される瞬間まで支那兵が頑張っていて、大きな弾丸をボカンボカンぶっ放しているのだ。
日本の兵隊さんも呆れていたが、将校に聞くと、昔支那に兵器を売渡したことがあったそうだ。句容付近でも日本の三八野砲一門を支那陣地から鹵獲ろかくした。
それからもう一つおやッという感に打たれたのは軍官学校の校庭に立つ国民党総理孫文の銅像だ、従軍した清水画伯は「これは拙い銅像だ」といっていたが、裏の銘を読むと「民国十八年日本梅屋庄吉製造」とあるのだ。この銅像の前で抗日の軍事教練をやっていたのかと思うと感慨無量だったね。
足立和雄記者の回想
南京の大虐殺
昭和十二年十二月、日本軍の大部隊が、南京をめざして四方八方から殺到した。それといっしょに、多数の従軍記者が南京に集ってきた。そのなかに、守山君と私もふくまれていた。朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間(注:今井正剛記者と中村正吾記者)がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上なんともできなかった。“便衣隊”は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。
「悲しいねえ」
私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。
「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。
内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。(朝日新聞客員)[1]
今井正剛記者の回想
屠所にひかれる葬送の列電燈のない、陥落の首都に暗い夜がきた。(略)
ふと気がつくと、戸外の、広いアスファルト通りから、ひたひたと、ひたひたと、ひそやかに踏みしめてゆく足音がきこえてくるのだ。しかもそれが、いつまでもいつまでも続いている。数百人、数千人の足おと。その間にまじつて、時々、かつかつと軍靴の音がきこえている。
外套をひっかぶって、霜凍る街路へ飛び出した。ながいながい列だ。どこから集めて来たのだろうか。果しない中国人の列である。屠所へひかれてゆく、葬送の列であることはひと眼でわかった。「どこだろうか」
「下関(シャアカン)だよ。揚子江の碼頭だ」
「行って見よう」
とって返して外套の下にジャケツを着込むと、私たちは後を迫った。
まっくらな街路をひた走りに走った。江海関の建物が、黒々として夜空を覆っている。下関桟橋である。「たれかっ」
くらやみの中から銃剣がすっとにぶい光を放って出て来た。
「朝日新聞」
「どこへ行きますか」
「河っぷちだ」
「いけません。他の道を通って下さい」
「だって他の道はないじやないか」
「明日の朝にして下さい」
「今ここを大ぜい支那人が通ったろう」
「――」
「どこへ行った」
「自分は知らない」
「向う岸へ渡すのか、この夜半に」拍子抜けのしたように、ポンポン蒸汽の音が遠くから伝わってきた。
「船が動いてるね」
「そうらしい。部隊が動いてるのかな」気をゆるめたらしい歩哨が、足をゆるめて話しかけて来た。
「吸わないか、一本」
キャメルをポケットから出した。
「はあ、でも立哨中ですから」人のよさそうなその兵が、差し出した煙草を受けとってポケットへ入れようとしたとたんだった。
足もとを、たたきつけるように、機関銃の連射音が起って来た。わーんという潮騒の音がつづくと、またひとしきり逆の方向から機関銃の掃射だ。
「――」
「やってるな」
「やってる? あの支那人たちをか」
「はあ、そうだろうと思います。敗残兵ですから。一ペんに始末しきれんですよ」
「行くぞ」
「いけません。記者さん。あぶない。跳弾が来ます」事実、花火のようにパッパッと建物の蔭が光り、時々ピーンと音がして、トタン板にはね返る銃弾の音が耳をはじいていた。
何万人か知らない。おそらくそのうちの何パーセントだけが敗残兵であったほかは、その大部分が南京市民であっただろうことは想像に難くなかった。
揚子江の岸壁へ、市内の方々から集められた、少年から老年にいたる男たちが、小銃の射殺だけでは始末がつかなくて、東西両方からの機銃掃射の雨を浴びているのだ。
「うっ、寒い」
私たちは、近くから木ぎれを集めてきて焚火をした。
「さっき、支局のそばでやってるとき(注:“便衣隊”銃殺事件のこと)、車が一台そばを通ったねえ」中村君がそういった。
「毛唐が乗ってたぜ」
「あれは中国紅卍(まんじ)会だろうと思うな。このニュースはジュネーヴヘつつ抜けになるな」
「書きたいなあ」
「いつの日にかね。まあ当分は書けないさ。でもオレたちは見たんだからな」
「いや、もう一度見ようや。この目で」
そういって二人は腰をあげた。いつの間にか、機銃音が断えていたからだ。
消えた二万人河岸へ出た。にぶい味噌汁いろの揚子江はまだべったりと黒い帯のように流れ、水面を這うように乳色の朝霧がただようていた。もうすぐ朝が来る。とみれば、碼頭一面はまっ黒く折り重なった死体の山だ。その間をうろうろとうごめく人影が、五十人、百人ばかり、ずるずるとその死体をひきずっては河の中へ投げ込んでいる。うめき声、流れる血、けいれんする手足。しかも、パントマイムのような静寂。
対岸がかすかに見えてきた。月夜の泥濘のように碼頭一面がにぶく光っている。血だ。
やがて、作業を終えた"苦力たち"が河岸へ一列にならばされた。だだだっと機関銃の音。のけぞり、ひっくり返り、踊るようにしてその集団は河の中へ落ちて行った。
終りだ。
下流寄りにゆらゆらと揺れていたポンポン船の上から、水面めがけて機銃弾が走った。幾条かのしぶきの列があがって、消えた。
「約二万名ぐらい」
と、ある将校はいった。その多くはおそらく左右両方から集中する機銃弾の雨の中を、どよめきよろめいて、凍る霜夜の揚子江に落ちていっただろう。その水面にまで機銃弾はふりそそいだが、さらに幾人かは何かにつかまり、這いあがって、あるいは助かったかもしれない。しかしこれは完全な殲滅掃蕩である。南京入城式は、こうして大掃除された舞台で展開された。そして私はあの予定原稿を書きなぐった。みんな同じ日の出来事だ。(略)[2]
右翼雑誌の編集者にプライドはないのか?
それにしても、こうした右翼雑誌の編集者たちというのは、いったい何を考えて仕事をしているのだろうか。まとめサイトを見ていきり立つだけのネトウヨではあるまいし、仮にもプロである。それなりの情報は掴んでいるはずだ。知っていて、商売のためにこんなものを書き飛ばしているのか。
おのれの仕事を振り返って、悔いることはないのだろうか。
[1] 守山義雄文集刊行会 『守山義雄文集』(非売品)1975年 P.448
[2] 今井正剛 「南京城内の大量殺人」 特集文藝春秋「私はそこにいた」 1956年12月号 P.157-159
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