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故・高畑勲監督の警告を噛みしめる

4月5日、アニメ映画監督の高畑勲氏が亡くなられた。謹んでご冥福をお祈りします。

氏の訃報を受けて日本テレビは急遽予定を変更し、13日の金曜ロードショーで氏の代表作と言える「火垂るの墓」を放送した。

「火垂るの墓」は反戦アニメ映画の不朽の名作と評されており、それは確かにそのとおりなのだが、実は高畑氏自身は、このような作品が必ずしも戦争を防ぐ力にはならないとして、次のように警告していた[1]。

 海外にはない日本のアニメ映画の大きな特徴のひとつは、原爆など、戦争末期な悲惨な体験を描きながら、もうあんなみじめな思いや経験はしたくない、させたくない、というかたちで反戦平和を願う気持ちを子供たちにもってもらおう、という狙いで作られたアニメが、かなりの本数あることです。(略)

 しかし私は、『火垂るの墓』を作る前も、今も、真の意味で反戦ということで言うならば、こういう映画はたいして有効ではない、と思い続けてきました。戦争がどんなに悲惨かは、過去のことを振り返るまでもなく、現在、日々のテレビのニュースでも目撃できます。しかし、どの戦争も、始めるときには悲惨なことになると覚悟して始めるのではありません。アメリカにとってのヴェトナム戦争や今度のイラク戦争のように。

 いまは、戦争末期の悲惨さではなく、あの戦争の開戦時を思い出す必要があると思います。それまで懐疑的だった人々も大多数の知識人も、戦争が始まってしまった以上、あとは日本が勝つことを願うしかないじゃないか、とこぞって為政者に協力しはじめたことを。有名人をふくめ、ほとんどの人が知性や理性を眠らせてしまい、日本に勝ってほしいとしか願わなくなっていたのです。(略)私は太平洋戦争開戦当時は小さかったですから、よく分かっているとは言いませんが、大多数の人々は心から戦争を支持したのだと思っています。それまでの日中戦争もそうです。あの頃の戦勝旗行列・提灯行列は、決して強制されたからやったのではなくて、みんな喜んで参加したのです。つまり大々的に応援したのです。そして酔ったように感動したのです。その上悪いことに、アジアの人々に対する優越感を多くの日本人が共有していました。

 もしいま、日本が、テロ戦争とやらをふくめ、戦争に巻き込まれたならば、そして犠牲者が出たら、場合によっては、六十年前の戦時中同様、かえって熱くなって、多くの人が日本という主人公に勝ってほしいとしか願わなくなるのではないかと心配です。なぜなら、いま、映画でも本でも、「泣ける」「泣いた」というのが価値基準になっているからです。要するに、日頃は心がからからに乾いていて、ばらばらに孤立しているからでしょうか、主人公を応援してうまくいくことをひたすら願い、やたら感動したがるのです。泣きたがっているのです。オリンピックなんかもそうでした。

(略)

 やめることもできなくて、ずるずる。歯止めのかけようがなかったのです。別の意見をもっていて、方向転換を打ち出せたかもしれない少数派はすでに牢屋の中でした。大和魂、撃ちてしやまむ、一億火の玉だ、本土決戦、神風が吹く。今からみればばかばかしいとしか思えませんが、ただただ日本に勝ってほしいという、みんなの中にあった素朴な願望が、為政者のそんな非理性的な世迷い言を支えていたのです。

 「非国民」というのも、特高警察が使うだけの言葉ではありませんでした。普通の人々が、「おまえ、それでも日本人か。日本が負けてもいいのか。日本が勝つことを望んでいないのか。卑怯者!」という意味で、弱音を吐く連中を「非国民」と決めつけたりしていたのです。(略)あの戦時中とこれからと、どこが違うでしょうか。むろん、大きく違います。しかしいまみんな、理性を眠らせて、映画を見ながらうまくいくことだけを願い、それが満たされて、感動の涙を流しています。このような精神状態は、まったく戦時中の前半とよく似ているような気がするのです。で、現実は映画と違うから、やめることもできなくて、ずるずる。深みにはまる可能性がたいへん高いのではないでしょうか。北京オリンピックの野球で、日本代表の負けがほぼ決定的になったとき、みんなの願望を代表して、アナウンサーは絶叫しました。「ここで絶対負けるわけにはいきません!」 そしてその絶叫の直後、負けが決まりました。こういうアナウンスも、すごく日本的です。

日本人は、先の大戦での敗戦時、なぜこんな悲惨な結果になったのか、自分たちはどこでどのように間違ったのか、深刻な反省をせずに済ましてしまった。その問いに真剣に向き合えば、自分たちもまた単なる被害者ではなく、程度の差こそあれ積極的に侵略戦争に加担した加害者でもあったという事実に向き合わざるを得なくなるからだ。だから「軍部」だけが悪く自分たちは騙されたことにして自らの負うべき責任から逃げた。

戦後の平和主義というのも結局のところ、あまりにも悲惨な目にあったがゆえに、もうこんな思いをさせられる戦争はこりごりだ、という程度のものでしかなかった。だから戦争体験者が減っていくのに比例して戦争への忌避感も薄れ、平和主義はずるずると後退し続けている。

 この情けない私たちに歯止めをかけるすべはあるのでしょうか。知性や理性を眠らせないですむ方法はあるのでしょうか。

 そのための根本理念が、憲法第九条なのではないかと私は思います。

 あの高く掲げられた理想主義の旗。それと、これまでの日本の現実の歩みとのギャップはたしかにたいへん大きなものがあります。しかし、第九条があったからこそ、戦後の日本はアメリカに従属していたにもかかわらず戦争に巻き込まれないで済んだし、また、過去に侵略したアジアの国々との関係で過度の緊張が生まれなかったのだ、という事実を、しっかり認識し直すべきときだと思います。また、この理想と現実の相剋があるからこそ、多くの人々の知性は目覚め続けざるをえなかったし、ずるずる行かないための大きな歯止めになってきたのではないでしょうか。理想と現実の相剋を、理想を捨て去ることによって解決しようとすることほど愚かなことはありません。この大きな歯止めをはずせば、あとはただ最低の現実主義で悪い方へずるずるいく危険性がまことに高いと思います。歯止めをかける能力は、今のひどい、最低のアメリカよりも、日本国民はさらにもっと低いのではないかと思います。民主主義、意見の違いを許す度量、あるいは人と違うことをする人間を認める度量、そのどれをとっても、歴史的に異分子を排除する、全員一致主義をとってきた日本の方が、アメリカよりずっと劣っているのではないでしょうか。(略)

 第九条が無くなったらどうなる可能性が高いのか、それを、憲法と現実との整合性を求め、現実に合わせるべきだと思っている人々にも、絶対に考えてもらいたいと思います。

どうすればこの前近代的な「ずるずる体質」を改善し、この国に真っ当な市民社会を築くことができるのか。その処方箋を見つけるのは難しい。しかし、少なくとも、明確に戦争を放棄し、戦力の保持を禁じている憲法9条が、この国のあからさまな戦前回帰を食い止める強力な歯止めとなっていることは確かだろう。

高畑氏が警告するとおり、どのような形であれ、いったん9条に手を付ければもはや転落への歯止めはなくなる。

高畑氏のこの警告は、氏が上記の内容を語った2006年にはまだ現れていなかった、いわゆる「新9条論」に惹かれる人々にこそ、真剣に受け止めてもらいたい。

憲法に自衛隊を明記する代わりに様々な制約条件を加えて集団的自衛権の行使を禁じようという「新9条論」は、そもそも日本社会がずるずる大勢に流されることなく理性と知性を保ち続けられる自立した個人によって構成されていて初めて成り立つものなのだ。9条を変えたければ、まずこの国をまともな近代民主主義国家と言えるレベルにまで成長させなければならない。

話はそれからだ。

[1] 高畑勲 「60年の平和の大きさ」 スタジオジブリ「熱風」 2013年7月号 P.20-26

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