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体罰や軍隊式教育は戦後からのもので旧日本軍では禁じられていたとかいうポエムが流れてきて呆然とさせられた件

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戦争体験者がいなくなっていくとはこういうことなんだな、と実感。

身近に体験者がいる間は後の世代にも共有されていた当たり前の常識が、体験者という生身の「裏付け」が失われるとともに揺らいでいき、ついにはこんなトンデモがドヤ顔で語られるようになる。

いずれいなくなってしまう体験者に代わる裏付けとなるのが教育なのだが、ゲーム店の店長だというこの人は学校で何も習わなかったのだろう。つまりは、近現代史の教育を徹底的に避けてきた(意図的に忌避してきた)戦後文部省教育の必然的帰結である。


いちいち断るまでもないことだが、制度上(建前として)体罰が禁じられていたということと、実態としてそれらがどの程度蔓延していたかは、まったく別の話である。

以下は旧帝国陸軍で新兵たちが体験させられた暴力の実態[1]:

 毎年一月一〇日、不安を胸に入営してきた青年たちをむかえた全国の兵営で、これら整列した新兵たちを前に、中隊長は判で押したようにおなじ第一声をはりあげる。「中隊長はお前たちの父である。班長はお前たちの母である。古年兵はお前たちの兄である。困ったことがあったらいつでも相談せい」。だが、新兵たちの多くは村の先輩たちから聞かされている。かれらが新兵にとって「一夜明ければ鬼になる」ことを。
(略)
(略)ラッパでおこされ、ラッパで整列して日朝にっちょう点呼をうけ、ラッパで三度の食事をし、ラッパで日夕にっせき点呼をうけ、ラッパで消燈するという、時間に追われる生活がはじまる。軍隊生活のリズムと独特の軍隊用語を身につけるまではマゴマゴするばかりである。
 このマゴマゴが致命的である。いつまでも“地方”すなわち一般社会の気分がぬけないということで古兵が新兵に暴力をふるう最初の口実となるからである。「軍隊内務書」に、「日夕点呼ハ通常消燈時限前三十分乃至ないし一時間二於テ行フ」とあるが、この三◯分ないし一時間が初年兵にとっては魔の時間である。点呼が終わり、下士官が下士室に引きあげたあと、内務班は古兵の天下である。秋に二年兵が除隊するまで、初年兵はその日一日の何かの落度を口実に、私的制裁という暴力にさらされなければならなかった。
 軍隊において、上級者が下級者にたいして暴力をふるうことは制度上は禁じられていた。しかし、この禁止ほどまもられなかったものはない。兵営生活に暴力はつきものという常識が公然とまかりとおっていたし、私的制裁とよばれる兵営内暴力がしばしば初年兵の自殺や逃亡の原因であることも広く知られていた。
 兵営内の暴力が必然であった原因は、徴兵制軍隊の制度そのものに根ざしていた。徴兵制軍隊は、青年を、当時の軍隊が“地方”とよんでいた一般社会から強制的に隔離し、一般社会の価値観とはまったく異質の価値観にしたがうことを強制する組織であった。その異質の価値、軍隊を律する最高の価値が「軍紀」であった。
(略)服従を第二の天性として身につけるように人格を改造することが軍隊教育の目的の一つであった。そこには批判的精神の存在や知性の存在はゆるされなかった。「軍隊内務書」は「典令範及勤務書以外ノ書籍並新聞雑誌類ハ所属隊長ノ許可シタルモノニ非ザレバ読ムコトヲ許サズ」と、読書の自由を禁じていた。軍隊にとって、兵士は“人格なき道具”であった。
 このような兵士、つまり「軍紀の鋳型」にはめこまれた規格品としての兵士をつくりだすには何がいちばん効果的か。外部からの強制を肉体に反復してくわえることによって、条件反射的に行動するように訓練することである。絶対服従を第二の天性と化するためには、暴力こそがもっともてっとり早い教育手段であった。


 陸軍歩兵大尉山崎慶一郎編著『内務教育の参考』という本がある。一九三四年(昭和九)改正の「軍隊内務書」に即して書かれている。その内容は軍隊内務における内務班長の心得および職責について解説したものである。(略)この本に私的制裁という名の暴力がふるわれやすい時機、場所、私的制裁の方法についてのくわしい一覧表がかかげられている。(略)
(略)
 右のうち、肉体的苦痛をあたえる方法について具体例をあげよう。拳でほおをなぐるビンタは日常的である。皮製のスリッパである上靴でおこなうビンタ、幅広の皮製ベルトである帯革や銃腔掃除用の鋼製の細い棒である洗矢・携帯テント用の樫の木製のとがった細い杭をもってするむち打ち、初年兵同士をむかいあわせてなぐりあいをさせる対抗ビンタなども初歩的な暴力であった。武技の悪用でもっともふつうの方法は銃剣術用の木銃で突きたおすことであった。そのほかの方法として、軍事攻究会著『模範的内務教育ノ参考』(一九三九年刊)は、「寝台を負はしめ甚はなはだしきは、其上に数人の二年兵が上る法」「整頓棚の下にて不動の姿勢を取らしめること(低い棚に頭がつかえ、ひざをまげたままで長時間気をつけの姿勢をとらせる)」「一尺位の所を早駈せしめる方法」「銃其他の重い物を手を前に出さしめて保たしめ下おろさば叱責する法」などをあげている。
 そのほか、腕立て伏せで肘をまげたままの姿勢を長時間とらせつづける方法、この方法で足の爪先を寝台の上なり整頓棚の上にのせさせて苦痛を加重する方法(急降下爆撃)、寝台の下を匍匐ほふく前進させる方法、さらには寝台を一つおきにくぐり、のりこえさせる方法(うぐいすの谷渡り)、柱にのぼらせて片手で鼻をつまみセミの鳴声のまねをさせる方法(せみ)、編上靴へんじょうかのひもをむすびあわせて首からかけ四つんばいで各内務班をまわらせる方法など、軍隊内暴力は陰湿さをましていった。(略)


「兵士が弱くなるから体罰禁止」どころか、いかなる命令にも絶対服従で即応する「忠良ナル」皇軍兵士を手っ取り早く作り出す方法として効果的だったからこそ、苛烈な暴力が黙認されていたのだ。また、このような古兵による陰湿な新兵いじめは、兵士の人権など一切無視されていた旧軍隊生活で鬱積した不満をガス抜きするための手段でもあった。

ちなみに、戦後教育における教師による体罰も、復員してきた元軍人が大量に教師として採用されたことがきっかけなのだから何をか言わんやである。

[1] 大江志乃夫 『昭和の歴史3 天皇の軍隊』 小学館 1988年 P.98-104

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