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死刑がダメな理由は、フランス革命期の死刑執行人がすべて見抜いていた

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■ あいまいな内田樹氏の死刑論

麻原彰晃(松本智津夫)をはじめとするオウム真理教事件関係者7人の同日処刑という衝撃の事態を受けて、多くの人が死刑制度の是非について自説を語っている。

たとえば、思想家・内田樹氏は次のように書いている[1]。

死刑については、いくつものレベルの問題があり、軽々に適否を論じることはできない。
「国家が人を殺す死刑という制度そのものの存否」にかかわる原理的な問いがあり、「死刑は犯罪の予防に有効なのか」という統計的な問いがあり、「被害者遺族の怒りや悲しみはどうすれば癒されるのか」という感情の問題があり、それらが入り組んでいる。
死刑の存否について、「どちらか」に与して、断定的に語る人を私はどうしても信用することができない。
死刑は人類の歴史が始まってからずっと人間に取り憑いている「難問」だからである。
世の中には、答えを出して「一件落着」するよりも、「これは答えることの難しい問いである」とアンダーラインを引いて、ペンディングにしておくことの方が人間社会にとって益することの多いことがある。同意してくれる人が少ないが、「答えを求めていつまでも居心地の悪い思いをしている」方が、「答えを得てすっきりする」よりも、知性的にも、感情的にも生産的であるような問いが存在するのである。
(略)
あらゆる制度は人間が共同的に生きることを支援するために存在する。私はそう考えている。それ以外の説明を思いつかない。
もちろん司法制度もそうである。
その制度をどう運用すれば、人間たちが共同的に生き延びてゆくために有効か。
それを思量するためには、ことの理非をためらいなく、截然と決するタイプの知性よりもむしろ理非の決断に思い迷う、「計量的な知性」、「ためらう知性」が必要である。
(略)
私たちは生きている限り、さまざまな非道や邪悪さに出会う。時には信じられないほどの残酷さや無慈悲に出会う。それに相応の処罰が与えられるべきだと思うのは人性の自然である。
けれども、その非道なものたちが捕えられ、死刑を宣告された時には、そこに一抹の「ためらい」はあって然るべきだろうと思う。
人が正義を求めるのは、正義が行われた方が「人間社会が住み良いものになる」と信じるからである。
ことの適否の判断はつねに「それによって人間社会がより住みやすいものになるかどうか」によってなされるべきだと私は思っている。

オウム真理教の死刑囚たちは非道で邪悪な行いをした。そのことに議論の余地はない。
けれども、彼らの死刑執行にはつよい違和感を覚える。「それで、ほんとうによかったのか」という黒々とした疑念を拭うことができない。
「制度がある限り、ルールに沿って制度は粛々と運用されるべき」だという形式的な議論に私は説得されない。それは「そもそもどうしてこの制度があるのか」という根源的な問いのために知的リソースを割く気のない人間の言い訳に過ぎないからだ。
そんな言い訳からは何一つ「よきもの」は生まれない。
世の中には効率よりも原則よりも、ずっと大切なものがある。

死刑の存否についても、今回の死刑の妥当性についても、国民的な合意はない。
けれども、国民的合意を求める努力は必要だ。
努力すれば国民的合意がいつか形成されると期待するほど私はナイーブな人間ではない。
そうではなくて、「国民的合意がなくては済まされない」という切実な願いだけが、国民国家という冷たい制度に、政治的擬制に「人間的な手触り」を吹き込むからだ。
そこでしか人間は生きられない。そこからしか人間的なものは生まれない。

結局、何が言いたいのかよくわからない文章である。「非道で邪悪な行いをした」(この点については私も同意見)オウム真理教事件関係者の執行にさえ「つよい違和感を覚える」ほど死刑というものにためらいがあるのなら、死刑制度そのものの廃止はともかく、まずはモラトリアム(執行停止)を求めるべきではないかと思うのだが、そういうわけでもないらしい。

少なくとも、世論調査をすれば死刑賛成派が8割を超えるこの国で「国民的合意」など待っていたら百年経っても死刑制度は廃止されないだろうし、今後も制度が「粛々と運用」されていくだけだろう。内田氏のような議論は、結局のところ、次々と死刑囚たちが処刑されていくのをただ傍観するものでしかない。

■ 死刑制度の廃止を訴えたパリの死刑執行人

21世紀の日本でいまだに思想家・知識人たちが死刑の是非にあれこれ悩んでいる一方、200年以上も前のフランスでは、代々パリの死刑執行人「ムッシュー・ド・パリ」を勤めていたシャルル-アンリ・サンソン(前国王ルイ十六世の処刑を手がけた当人でもある)が死刑制度の廃止を訴えていた[2]。

 シャルル-アンリの孫、アンリ-クレマンは『サンソン家回想録』を書くことになるが、この回想録の中で死刑制度廃止を熱心に訴えている。(略)シャルル-アンリも死刑制度の廃止を願っていたけれども、死刑執行人が社会に対し正面切って死刑制度の廃止を訴えることは、まだできない時代だった。アンリ-クレマンにも祖父の苦しい胸の内がよくわかっていたわけで、自分の考えは先祖の気持ちを代弁するものでもあると言っている。
(略)
 死刑制度は間違っている、とシャルル-アンリは声を大にして叫びたかった。人の命は何よりも尊重されねばならない。人の命を奪うというのは大変なことだ。死刑制度には、人の命を奪うという、この重大事に見合うようなメリットが何もない。犯罪人を社会から除去したところで、ただ一時的な気休めになるだけで、犯罪を産み出した社会のゆがみが正されるわけではない。それに、人の命はもともと神から与えられたものであり、人の命について裁量できるのは、神だけなはずだ。
 死刑制度は間違っている!――そのときには死刑に相当するとされる行為も、時代の変化によって微罪にすぎなくなることもある。さらには、死に値する犯罪的行為とされたことが、時代の変化によっては、称賛されるべき立派な行為に変わることもある。
 死刑制度は間違っている!――裁判に誤審はつきものであり、無実の人を処刑してしまうという事態を避けることができない。処刑されたあとで無実が証明された例も多い。この過ちをどうやって償うのか?
 死刑制度は間違っている!――たとえ極悪人であろうとも、その人間から罪を悔い改め、みずから罪を償う機会を永遠に奪い取ってしまうがゆえに。生まれ変わるチャンスを人間から永久に奪い去る権利を持つ存在があるとすれば、それは神のみである。
 死刑制度は間違っている!――処刑を実行する人間を必要とし、その人間に法と正義の名において殺人という罪を犯させるものだから。そして、処刑人一族という呪われた一族を産み出すものだから。

この死刑執行人サンソンの訴えは、死刑制度がなぜ廃止されるべきなのか、その理由を明確に言い当てている。もちろん、18世紀のフランスと現代の日本では法も社会環境も大きく異なってはいるが、これらの訴えはほぼそのまま日本の死刑制度の問題にも当てはまる。

例えば、死刑は殺人に対してしか適用されないから「そのときには死刑に相当するとされる行為も、時代の変化によって微罪にすぎなくなる」ことなどあり得ないと思うかもしれない。しかし、現代日本でも「外患誘致罪」の法定刑は死刑のみである。外患誘致罪は、「外国と共謀し、日本に対して武力行使を誘発する犯罪行為」[3]とされているが、何をもって「外国と共謀」とするかなど、いざとなれば時の権力の解釈次第だろう。実際、安倍政権に逆らう翁長沖縄県知事に外患誘致罪を適用しろなどと叫ぶバカウヨの狂態を見ればあながち杞憂とも言い切れないし、このような罪名に死刑を対応付けて恫喝の道具に使えるというのが、政府が死刑制度を手放したがらない理由の一つだろう。

また、現代日本にはサンソン家や山田浅右衛門のような処刑人一族は存在しないが、職務として人を殺さなければならないのは、拘置所の刑務官だって同じである。

 シャルル-アンリは、ナポレオンが死刑制度の廃止に向けて何らかのイニシアティヴを取ってくれるかもしれないと期待して、新聞を毎日念入りに読みつづけた。シャルル-アンリが目にすることを願っていた文字列は「フランスにおいて、死刑制度は最後的に廃止された」だった。しかし、それらしい兆候を告げる記事を目にすることすら、ついになかった。
 シャルル-アンリ・サンソンは、この1806年の7月4日に死亡した。
 フランスで死刑制度が廃止されるのは、1981年のことである。
 シャルル-アンリ・サンソンの願いは、175年早すぎたのであった。

死刑執行人サンソンの願いは、彼が生きている間には叶わなかったが、それでもフランスは1981年に死刑を廃止した。

日本ではまだ処刑が続いている。

[1] 内田樹 『死刑について』 内田樹の研究室 2018/7/8
[2] 足立正勝 『死刑執行人サンソン――国王ルイ十六世の首を刎ねた男』 集英社新書 2003年 P236-239
[3] 『【刑罰は死刑のみ】外患誘致罪の概要と適用例・判例がない理由』 刑事事件弁護士ナビ 2016/8/3

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